自分が支援にあまり解決を求めなくなったのはいつの頃からだろう?

と、考えていたら、それはきっと2016年2月に始めた、「支援をしない支援」を標榜する居場所居酒屋「汽水」の前身となる「横浜シャイネス・ナイト」あたりからだろうと思い当たる。

あの頃はまだ、サードプレイスなんていう概念も知らなくて、ただ居酒屋が苦手なシャイネスたちに、会議室飲みを提供することで、砕けたコミュニケーションを体験してもらいたいと思っていた。

その先にある、何らかの変化はもちろん期待していたし、その晩に沸き起こる無計画な会話がもたらす何かも期待していた。ただそれは、本当に「何か」でよくて、「あれ」だったり「これ」だったりする必要がないと思っていた。

自分は何かのきっかけになれればいいと思っていたし、あわよくば引き金を引くみたいなことが起きたら、それはちょっとエキサイティングだよね?なんて感覚だった。

でも、ぼくがこういう風に思うようになるにはけっこうな時間がかかった。

思い返せば、ぼくが支援をはじめた2000年当初は、親が多額な支援料を支援団体に払い、子どもを自立させるという暗黙の契約があって。ライザップじゃないけど結果にコミットさせようとしていたし、それがやり甲斐でもあった。

そこから2004年以降のサポステをはじめとした委託バブルでは、成果というものが親よりもむしろ求められ、行政により団体同士が競争させられていた時代があって(今は価格競争にまで劣化している!)。

あの時代を生き残り、大手NPOが強者であり続けるためにSROIとか成果指標を持ち出し、他団体との差別化を図り、委託費を確実に自団体が獲得できる下地を躍起になって作っていた。ぼくもそこに当たり前のようにコミットしていた。

支援=解決の時代を、ぼくは大手NPOの現場トップとして駆け抜けていたと思うし、そんな自信もあった。

その自信が後ろ盾になり、2009年にぼくは起業して、翌年「よこはまパーソナル・サポートサービス」の相談員に誘われたんだけど、2008年の暮れに「年越し派遣村」があって、時代は就労支援から貧困や生活困窮に急速移り変わっていた。

あの頃は、湯浅誠さんの話をよく聞く機会もあったし(PSのポータルサイトはシェアコロが作った)、今のインクルージョンネットかながわのメンバーともよく語り合い、いろいろ学ばさせてもらった時代で、その流れでぼくは2011年に田奈高校の図書館で相談をはじめたのだった。

ぼくは、ぼく自身のかけがえのない居場所を手に入れたんだと思う。あの頃から、支援=寄り添いに、時代もシフトしていったようにも思うし、ぼく自身のマインドセットも変わってきたと思う。

そして大きかったのは、ぼく自身の当事者性に気がついたこだと思う。

同時に、例えば神奈川県では2012年に「ひき★スタ」というサイトができ、SNS上でも当事者たちの声が聴こえ始めていたし、ぼくも当事者の方々とネット上で交流を持つようになり、やがて直に彼ら彼女らの言葉を聴くようになっていった。

自分たち「支援者」がいかにエゴイスティックだったかということを思い知るとともに、生きてるだけでいいんだという、ありのままの存在の肯定みたいなことが、自然とできるようになってきたというか、いわゆる身についたんだと思う。

だけど、ありのままでいいけど、そのままじゃこの先しんどいよね。

ありのままを受け入れながら、その先のことを一緒に考えられる支援をしていきたいし、そんなことが上手にできる人であることで、湯浅さんがあの頃よく言っていた「専門性を持った隣人でいたい」。

すべての人をフレームイン!

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