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災難の確定と平穏と不穏~フィリフヨンカの話

※ムーミン本のネタバレがあります。ご注意ください。

コロナ禍で時間感覚が変わったというnoteを読んで、自分は時間について何か感覚が変わったことがあったかなあ、あんまりないかもと思ったんだけど一つ思い至った。「将来後悔するかもしれないことへの不安」がなくなったことだ。

今こんなぽやっとしていたら未来の自分は不幸になって、過去の(今の)私を責めなくちゃいけなくなるのではないか、というもの。実際には、これまで死ぬほど後悔するようなことはほとんどなかったし、(記憶力が悪いのか調子が良いのか)不幸の原因を過去の自分のアクションに求めることもあまりないので、どうしてこういう思考になっているのかはよくわからない。前世にそんなようなことで死んだのかもしれない。

その感覚が最近ぽっかりなくなってしまった。このことに絡めて強烈に想起するのはフィリフヨンカの話だ。

ムーミンシリーズは一作目から「あと何日で彗星が落ちてくる」などという全然平和でないトピックスばかりなのだが、中でも私が最高に好きなのが、『ムーミン谷の仲間たち』の短編の一つ「この世の終わりにおびえるフィリフヨンカ」。自称スナフキンは日本にだいたい300万人はいるらしいが、自称フィリフヨンカはたぶん少数派だと思う。他人と思えない。

祖母の家を継いで、大好きな小物と大嫌いな灌木に囲まれて暮らす彼女。とにかくずっとこの世の終わり的な何かの災難が来ることばかり考えていて、お隣さんで唯一の話し相手でニブチンのガフサ夫人にもその話をしてしまい、どん引きされてしまう。

教訓的な童話だと「被害妄想って愚かだね」みたいな結論にもっていきそうなところを、実際にこの世の終わり的な竜巻がやってきて、家もろとも吹き飛ばされてしまう展開に私たちは一瞬ぽかーんとする。

フィリフヨンカは、竜巻到来直前(まだ何が来るかわからない状態)の極限の不安の中で、またついに目前に迫った竜巻に対峙しながら、自分の暮らしや好きだったものへの見方を変えていく。自分を縛っていたのは嫌ったらしい灌木ではなくて、お気に入りの小物たちだった。それが全部竜巻に吹き飛ばされて彼女の手から跡形もなく奪われていく。(抱きしめていた猫の置物だけが残る。)

という夢落ちかと思いきや、ガフサさんが「大変だったわね!」と飛んできてやっぱりリアルだったんかいと驚くのだけど、竜巻と家と小物が去った海岸で、フィリフヨンカは遊んで笑い転げている。

彼女の場合、今か今かと災難を待ち構えているときが明らかに不幸のどん底で、実際に災難を迎え、諸々を失ったあとに晴れ晴れとしている。見えなくて恐ろしかった未来が確定したことで安定する。

私もついこの間まで悲しみと憤りと焦り(=後悔への不安)で混乱していた。竜巻が来る直前の恐怖だったのかもしれない。最近の「将来後悔するかもしれないことへの不安」が消えてしまった私は、竜巻後のフィリフヨンカなのではないかと思う。

今の状況は、長いこと私の頭にこびりついてきたディストピアに近い。逃げること、変わること、人の違う行動をとること、自分で判断して自分で決めること、そうしたことが封じられる状況。10年くらい前、苦しい場を物理的・一時的に逃れてサバイバルしたとき、私はすぐ「今回は逃れたけれど、再び同じような状況に陥って、そのときに逃れることができなかったらどうしよう」という不安に落ちた。「今はたまたまお金があったから、それにみんなが私をほっといてくれたから逃れることができた。次、そうでない状況に置かれたら?」

なんとなくその頃には、日本も世界もどんどんプアーになるだろうというイメージをもっていて、いずれ私もプアーになって身動きがとれなくなって、これまでよりもっと酷い目を見るのではないかという予感がしていた(実際個人的なプアーは結構早くにやってきた)。逃走や再選択や移動の自由といったものが私にとっての「お気に入りの小物」。それが予感通り、竜巻でこなごなになって吹き飛ばされようとしているのが今。

その塵を眺めながら私の見方も変わったのかもしれない(まだ変わり切ってはいない、変化の途中かもしれないけど)。こうなってしまったら、私がどんなに大事にお気に入りを抱えていても、それは許されず取り上げられてしまう、そんな諦めのような気持ちがある。

一方で、唯一の心の拠り所だったはずのあれらのなんとちっぽけなことか、その小物たちの中に本質はあったんだろうか、だって今私は大事な大事なあれらを失っているはずなのにぽやっと生きていて、私の足元を支える地面は今のところ変わらない。10年前のことを思えばなんてことはない。あれらはなんだったんだろう、みたいな呆けた気持ちもある。

最後、フィリフヨンカは狼狽えながらやってきたガフサ夫人に、じゅうたんを洗うためのお酢を分けてくださらない?みたいなフィンランドっぽいことを頼みながら涙を零す。それでこの話はおしまい。

最後の涙はうまく解釈できない。束縛から解放された安堵なのか。あっけなく奪われた本当はどうでもよかった小物たちへの、それでも感じる寂しさなのか。空虚であったとしても拠り所となっていたものを全く失って、これから彷徨わなければならない未来の暗示のようにも見える(トーベ・ヤンソンなので油断できない)。後悔する余地のない未来を思うと、安堵のような寂しさのような、それで済まされるわけがないだろうというような、言葉を失う感覚は今確かにある。

この後はどうだろう。何もなくなった海岸で静かに暮らすかもしれないし、またふつふつと憤りが湧いてきて竜巻を追いかける冒険に出るかもわからない。しばらくは粛々とじゅうたんをすすぐ日々も悪くない気がしている。

(フィリフヨンカは竜巻に関して自分のアクションを悩んでいたわけではないので「後悔」はあまり関係ないかも。「後悔」については同じ短編集の「春のしらべ」を絡めて改めて。みんなのヒーロースナフキンがめずらしくうじうじする良い話です)

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FlowLife Laboratory(https://www.flowlifelab.com/)一人所長、流動創生(http://ryudou-sousei.jp/) の言い出しっぺ。場所や組織に縛られない「流浪の民」文化を現代日本に復活させようと画策しています
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