他人と考え思考が違う事は素晴らしい事

何者にもなれないのは・・・

人は生まれながらにして平等ではない
そして環境によって幸せの指標は違う
日本に生まれた私達は命の保証を一応はされている

何者にもならなくても普通に生きていける
生きているだけで素晴らしい

この根本的部分を私達は見失ってしまう
いつしか富、名声、力を手に入れたい欲求
優劣、勝敗をつける事で満たされる心
メディア、周囲からの思想が連鎖し
大切な事を蔑ろにしてしまう。

生きているだけで素晴らしい


自分はここにいる
そう示したい人間は世の中にどのぐらいいるだろう
自分の存在をアピールする事は恥ずかしい事かもしれない
自己顕示欲の塊かもしれない
それでもいいと思ったし、それでいいと思ったから
いろんな人に自分を知ってもらおうと思った。
資本主義社会は有名は徳をする


自信を持つ事と慢心になる事のバランスは難しい
慢心なる事は僕はあまり無いが、自信が無くなる事は常だ
自分に自信が無い人が世の中で結果を出す事は難しい
僕はネガティブな思考の持ち主で常に悩まされてきた
結果を出した事が無いから自信が持てない

この考え方は間違っていた
ある程度はできるだろうのメンタルが試合、勝負ではとても大事である
そして他人に何を言われようと自分だけは自分を信じる事

本当の意味で人を理解できるのは自分しかいない
そういうメンタルは周りの雑音を排除できる


僕は常に自分の色を出していきたいと強く思っている
人生の選択は結構オリジナルな選択だと思っている
幾度と無く僕の選択は周りには納得できないだろう
僕は世の中を病気の経験から斜めに見ている。
最善の選択はできないがたくさんの情報から進路を選ぶようにしている
そしていろんな価値観がある、それは土地、国、環境でいろんな
価値観があるそれは関西と関東でも違う。相模原と川崎でも違う。
世界を見ればもっと違うだろう。常識とは18歳までの中で培われたもの
だとニーチェは言った。人の常識は他人とは違うものだと
わからない人が多すぎる。僕は海外経験が無いから
あまり言えないかもしれないけど、自分の価値観を押し付ける人が
多すぎる。特に同じ人と常に何十年も一緒だとそれが強くなる。
僕はそれを恐れている。僕は常に移動を繰り返す。
みんなの事が嫌いな訳ではない。自分の偏見が固まる事を恐れている。

自分が何者かどうかは
周りの人が決めるのかもしれない。
自分の持っている武器は無いかもしれない
でも強い武器を持たなければ何者にもなれない

人と同じではだめだと知れたのは
大学の野球部だ
僕は部員200人の中で埋もれてしまっていた
そしてとても高い壁に阻まれた。
自分の力の無さに落胆した

他人の真似事ばかりしていては本当の自分を取り戻せない
一般的な教育、社会では同じ品質のハグルマを求めている
それでいい人と嫌な人がいる。僕は嫌だった。
表現者とはそういうものだ。自分の個性を認めてもらう。
そういう行動が自分は生きていると感じる唯一の方法。

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