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大澤真幸(社会学者)×中島岳志(東京工業大学教授)  いま、なぜ「戦後思想」なのか?

聞き手=編集部

2019年11月、東京工業大学のキャンパスにて、新シリーズ「戦後思想のエッセンス」の編者および著者として、『戦後思想の到達点~柄谷行人、自身を語る 見田宗介、自身を語る』と『石原慎太郎~作家はなぜ政治家になったか』をそれぞれ刊行した大澤真幸氏と中島岳志氏による対談が行われました。「戦後思想」の総論から、創刊の3冊について、そして思想の継承問題やシリーズ今後の展開についてなど、多岐にわたった議論の様子をお伝えします。

シリーズ創刊にあたって

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――はじめに、このシリーズ全体のねらいについて、おふたりがどういうモチベーションでこの企画に臨まれたか。いま、なぜ戦後思想なのかというあたりについてお聞かせください。

大澤:
 そうですね。よく政治的な文脈で「戦後を総括する」ということを言われますが、思想の文脈でも、私としてはふたつの方向性があると思います。ひとつはもちろん戦後七十余年間にどういうことをやってきたか、つまり「戦後」というものを意識しながら歴史的な段階の中で何をやってきたかについて考えること。もうひとつは、戦後からの脱出ですね。
 思想だけではないですけれど、私たちは戦後というコンテクストに、それが必要なものだったとはいえ、あまりにも呪縛されすぎています。この呪縛の中にある限り、日本という文脈を超えた普遍的な思想を紡ぎだすのが難しくなってしまう。しかし、呪縛されるのには、単に気になるということではない、はっきりとした理由があるのです。だから、その理由を徹底的に精査し、解消するようなかたちで、戦後を超えていかなければ、どちらにしても、思想の普遍性へとたどり着くことはできない。そうした作業を、今後の世代に継承していきたいと思いました。
 私と中島さんは――私のほうがだいぶ年上ですが――、そうした「つなぎ」の役割をする世代かなと思っています。だからこのシリーズでは、生きている人もいるし、亡くなられた人もいますが、戦後というコンテクストの中でいろんなことを考えてきた人たちが、一方では戦後のどこにこだわったのか、他方で戦後からどれだけ自由な思想を紡ぐことができたのか、そんなところを見ていきたいというのがねらいですね。

中島:
 私自身は1975年生まれですが、学生だったときに丸山真男(1914~1996)が亡くなりました。96年の8月15日です。私が人生で初めて買った全集が『丸山眞男集』です。
 私の印象では、ちょうどこのころから、アカデミックな世界でも「戦後」を対象にするようになったと思います。それまでは丸山を論じるのは時期尚早で、今回、安藤礼二さんが取り上げた吉本隆明(1924~2012)も一部の批評家の議論に限定されており、本格的な研究対象にはなっていませんでした。けれどもこの二十数年で、アカデミックの世界でも戦後を対象化して見ていこうという機運が高まった気がします。機が熟してきた、この二十数年で戦後というものを見つめるひとつの視座を私たちは確立しようとする途上にある、そんな感じがするんですね。このあたりを一度俯瞰してみたい、というのがひとつあります。
 また個人的な感覚で言うと、私は若いときに西部邁(1939~2018)に非常に大きな影響を受けました。でも、同時代の「保守」と言われているものを読むと、嫌で仕方がなかった。「何だろう、これは」と愕然とした思いがあったんです。保守的な感覚というものを身につければ身につけるほど、「戦後左派」と呼ばれてきた人たちの中にこそ何か非常に重要なものがある、そんな手応えが圧倒的に強かった。それは、柄谷(行人、1941~)さんにしても、見田(宗介、1937~)さんにしても、鶴見俊輔(1922~2015)にしても、吉本隆明にしてもしかりだと思います。
 この「自分に生じている〈ねじれ〉は何だろう」とずっと引っかかっていたところに、逆に見たくないものとして石原慎太郎(1932~)という存在がありました。そして時間が経ち、最近になって「どうして私は、あのときこれを読みたくなかったのか」という感覚をもう一度見つめ直したいという気持ちが湧いてきました。むしろ私は、吉本さんなどについてはそれなりに書けたのですが、石原さんをはじめとする「戦後派保守」と呼ばれる人たちの世界は書けなかった。「それはいったいなぜなのか」というのを考えてみたいというのが、このシリーズに臨むにあたって大きくありましたね。

「戦後」と向き合ったのは誰か

大澤:
 私も1958年生まれですから、自分にとって戦後や敗戦がどのくらい深刻な問題だったのかと言うと、意識的にはそんなには気にしていなかったですし、いまでもそういうところがあります。
 ただ気がついてみると、一種の文化的な遺伝とでも言うものがあります。たとえば、見田さんと私はほぼ20歳違いますが、それくらいの年の差の人たちの本を読むときに、はじめはあまり戦後ということを意識しないで読んでいる。でも、私が読んでいる前の世代は敗戦の影の中で物を考えているので、気がつかないうちに自分も戦後というコンテクストで物を考えるようになる、そんな部分があるわけです。つまり、戦後生まれの者が意識していなくても、その人が継承しようとしている思想家が、戦後というものを前提に考えているとすれば、やはり、戦後の影の中で考えることになる。
 それは自分のことでもありますし、あるいは高尚な思想の部分でもあるけれど、それだけではなく、日本人の生活感覚的な部分であっても、「戦後」というものが空気になってしまっている。敗戦を直接経験した人、あるいは自分の親が経験したくらいの世代だと、その空気があるということを実感できるのですが、さらにそのあとの世代の人になると、そういう空気があることにも気がつかない、しかし影響だけはしっかり受けているという状態になっています。だからまずは、敗戦のあとにどういうことを考えながら、現在ができてきたのかということを見つめておきたい、ということがあります。
 本当のことを言うと見田さんも柄谷さんも、おふたりとも戦争のときはまだ幼く、戦争によって精神が崩れるという歳ではありませんから、直接的には戦争に影響を受けずに考えてきた人というふうに、私は見ています。では、なぜそうした比較的、戦争のコンテクストから自由な人にこのシリーズの冒頭に登場していただいたかといえば、――もちろん、単純にふたりの思想が洗練されている上に非常にインパクトがあるというのはありますが――「どうやって戦争のコンテクストから自由になるか」というのがこのシリーズのテーマになっているからです。
 その上で思うことは、今回の中島さんが取り上げた石原さんの話はすごく面白かったのですが、彼は、私たちから見るとかなり強烈なナショナリストです。直感的に、この人は若いころからずいぶんと天皇や戦争、国家というものにこだわってきた人なんだろうなと思っていたら、そうではなかった。むしろもともとは、そういうことから、特別に自由な存在であった。
 ところが、あるときから急旋回する。私にとっては、石原さんよりも、本当に重要なのは三島(由紀夫、1925~1970)です。私は去年、三島論(『三島由紀夫 ふたつの謎』)を出しましたけど、それにはある意図があったんです。三島というと、最後に「天皇陛下万歳」と言って死んでいった人なので、そこに焦点を合わせて考えるという人がどうしても多い。私ももちろんその部分も書きましたが、私はもっと、三島の別の可能性があったということを提示したかったんですね。
 たとえば、三島と同世代でも、吉本隆明は「敗戦」ということ、あるいは自分たちがかつて皇国思想を正しいと思っていたということ、そういうことが戦後の思考の起点になっている。しかし、三島自身は、はっきり言って、そんなことをはじめは全然気にしてもいない。なぜなら、彼は戦前や戦中には一度も、天皇を崇拝したこともなかったからです。
 ところがそういう人たちが、逆にある時期から急旋回して、よい悪いはいったん置くにしても、急にアナクロニズムではと思うほどのナショナリストになって天皇にすごくこだわっていく。
 これは、やはり戦争で負けたときの問題を、個人的にというよりも日本の思想が集合的に解決できていないことが絡んでいると思います。だからそこに空虚な穴のようなものがあって、はじめはそれを「空虚な穴に過ぎない」と言っている嘲笑的していたような人が、その空虚な穴に――それはまさにブラックボックスです――吸い込まれていくということがありえます。最初は躓(つまず)かなかった人が、逆にあとで大きく躓くことがある。だから、躓いた人についても躓かなかった人についても、どのようにそれを乗り越えていかなければいけないかということを、きっちりやっていきたいなというのが私の思いですね。

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「どうやって戦争のコンテクストから自由になるか。それがこのシリーズのテーマ」と語る大澤さん

中島:
 私も、対象が少し違うかもしれませんが、同じ関心を抱いています。いま加藤典洋(1948~2019)さんに話をつなげたいと思っているのですが、私の最近の大きなテーマは、いわゆる「戦中派」と言われた保守の人たちです。
 1941年12月8日という開戦の日に、20歳以上だった人というのが、一応分別のつく年齢だと仮定しましょう。それ以上の年齢で開戦を迎え、戦後も生き残って、かつ保守論壇で活躍した1970年代くらいまでの保守を支えていた人に、田中美知太郎(1902~1985)や福田恆存(1912~1994)などがいます。その人たちを見ていくと、揃ってみんなが、あの大東亜戦争に対して反対論を唱えている。「嫌で仕方がなかった」と。しかし戦後になって、戦後民主主義が始まるとそれも嫌だと言う。「両方とも欺瞞である」というのが彼らに共通する態度でした。
 それが80年代に入り、田中が亡くなったり、福田も高齢となって実質上の執筆活動ができなくなると、大きな世代交代が起こります。そのころにドンと前に出てきたのが、いわゆる「戦後派保守」の人たちです。彼らは、柄谷さんや見田さんと同じような年代の方で、まだ思想の形成過程とは言えない年齢のときに開戦、あるいは終戦を迎えています。そして、おおむね思想形成ならびに歴史観を形成したのは戦後である。加えて、戦後に教えられた内容に対するある種の反発を持って、「保守派」というのを握っていく人たち、西尾幹二(1935~)さんや、渡部昇一(1930~2017)さんなどがそうですよね。
 ところが、この人たちは一転して、大東亜戦争を正当化する態度を再帰的に獲得しています。「この断層はいったい何なのか」というのがずっと私が気になっていたことです。そして、その突端にいるのが、おそらく石原慎太郎なのだろうと。
 つまり、はじめて「真の戦後派」と謳われ、1955年に20代前半で作家デビューを果たし、デビュー当時は戦後民主主義そのもののように、あるいはその極北のように見えた人が、しばらくして戦中・戦前に回帰するような人生を送っていく。「これはいったい何なのか」というのは、石原にとどまらない問題として、あるいはいまの右傾化と言われる現象などの一番根本にある問題じゃないかと思ったんですね。
 そのときに彼が出会ったものが何だったのかというと、大澤さんがおっしゃったように、戦後の「空虚」の問題だった。「太陽の季節だ」と言ってみたものの、つかみどころがない。開放的で明るいものとして謳歌しようとした戦後は空っぽだった。価値の紊乱者として振る舞い、前世代の世界観を大胆に拒絶した彼は、自分たちの世代がいかなる価値を創造すればよいのか、苦悩しました。七転八倒し、もがいた揚句、石原は国家主義的な価値観に旋回していくわけですね。三島由紀夫は古典に傾倒していきますが、そこまでの耽美主義にはなれない、古典にもいけない。そこで、彼はナショナリズム、あるいは政治家になるという具体的な方向にいきます。
 この「戦後の空虚」という問題に、いち早く気づいた人のひとりに江藤淳(1932~1999)がいました。やはり江藤も、戦後民主主義的な価値観から保守的立場へと旋回し、70年代に入ると戦前と戦後の断層の問題に非常にこだわり、歴史との連続性を取り戻そうとするような動きをしていきます。アメリカに支配されていること、それによって「ごっこ」が続いていること、それを克服するために憲法改正のことや占領期の検閲構造が継続していることを指摘し、「無条件降伏など日本はしていない」と主張しました。
 それをまったく違う角度から、最も深く継承したのが加藤典洋さんだと思います。「この戦後の〈ねじれ〉というものはいったい何なのか」。でも自分は江藤の立場を取らない。その理由には、加藤さんが、福田恆存の歴史的仮名(旧仮名)遣いが気に入らなかったというのもあるでしょう。それは何か、あるきれいなもの、清純なるものへ回帰しようとする連続性に他ならないと思った。逆に大岡昇平(1909~1988)は、いったん旧仮名にした上で、あえて戦後の新仮名を使おうとしていました。それは敗戦による断絶という汚れを引き受けるということであり、これこそが日本人の忘れてきた感覚というものを呼び覚ます重要なものである。加藤さんは、そこにこだわり続けた人だと思います。
 それをまた別の角度から見ているのが白井聡(1977~)さんですね。彼は「永続敗戦」と言い、二重の意味で敗戦は続いていると言っています。アメリカに対しては永続敗戦だけれども、実はそれは、アジアに対する敗戦の否認というものとパラレルになっている。私は、こういう問題がずっと続いていて、こうした視座から思想家を見ることも重要だと思っています。このあたりの問題群がおそらく「戦後思想のエッセンス」という全体のシリーズを通じて、通奏低音のように関わってくると思いますね。

大澤:
 まったくそのとおりですね。加藤さんは「戦後」について、ずば抜けて考え続けた人だったと思います。彼は団塊の世代で、戦争が終わった3年ほどあとに生まれています。団塊の世代というのは、「戦後」ということに、ある意味で、最も敏感な世代ですね。それは、決定的な出来事、つまり終戦――というか敗戦――ということに「遅れた」という意識をもつからだと思うのですけれどね。その世代の中でも、加藤さんは最もこの問題について徹底して考え抜いた人だと思います。残念なことに、今年、若くして亡くなられてしまったわけですが、加藤さんが考えてきたことを引き継がないとならない。加藤さんが完遂できなかったことを、私たちが完遂させないとならない。偶然ですが、加藤さんが亡くなられた年に始まったこのシリーズには、そんな使命が託されているようにも思います。
 それから、今回の中島さんの『石原慎太郎』の巻の「はじめに」で書かれていた「戦中派」と「戦後派」の二種類の保守の話について、なかなか鋭い視点だなと思いました。私たちが日本の中で暮らしてきて、「保守」というものについて自然に感じていたことを、中島さんが引いて見てみたら「何かおかしいことが起きている」と。それは、さらに何も知らない人から見ると、すごく不思議な感じがすると思いますね。
 たとえば石原慎太郎というのは、保守派として、戦争のころからずっとそうだったのだろうというイメージですが、1932年生まれだから当時10~13歳ほどの歳である。一方で、そのとき成人になっていた戦中派保守のほうが戦争時代のイデオロギーから自分を解放しようとしたわけですよね。十分に戦争前のイデオロギーに浸った戦中派のほうがそれに対する否定の力が強くて、「戦争なんてもう関係ない!」と言っていた戦後派保守のほうが逆に「戦争」「国家」の磁場に引かれていく構造になっている。その「ねじれ」を考えなければいけないというのですから、これはすごく面白いと思いましたね。

過去に関われないと未来に関われない

大澤:
 また、中島さんがよくおっしゃっている話で、「民主主義の意味というものを、過去の世代のことも考えながら保守主義の文脈の中で考えなければいけない」というのがありますね。民主主義というのは普通は、どんなにメンバーシップを拡大しても、生きている現在世代のことしか考えていないわけですが、中島さんは、民主主義の中に、すでに死んでいる過去の世代も参加させなくてはならない、ということを主張されている。イギリスの作家チェスタトン(1874~1936)などを引用しながら、とてもよい話だと思うのです。これに、私は次のようなことを付け加えたいのです。
 「私たちがみな死んだあとにやってくる世代も民主主義の中に包摂しなくてはならない」「まだ生まれてはいない将来の世代も民主主義の中に組み込まなくてはならない」と。思想というのは、そういう視野がなければいけないと思います。でも現在の日本人は、高尚な思想のレベルではもちろん、もっと生活感覚としても、将来のことや未だ生まれざるものについて、ほとんど何も考えていない感じがします。
 人間は、どんな場合でも未来世代のことを考えなくてはいけません。カント(1724~1804)はあるところで、「それにしても哲学者として不思議に思う。人間は自己利益や自分の幸福のために生きているとされているが、どういうわけか、自分が死んだあとでなければその成果を享受できないようなもののためには一生懸命がんばる。これはふしぎなことだ」という趣旨のことを言っています。たとえば、サグラダファミリア教会のようなすごく大きな建築物をつくっていて、「これは自分が生きている間には完成はしないな」「この建物を使うことになるのは、自分が死んだ後の人だろうな」と思う。「それなら自分ががんばっても自分の利益にも幸福にもつながらないから、やる気がでない、熱心にやるつもりにはなれない」……というふうにはならない。なぜか、自分自身の利益や幸福にはつながらなくても、人間はいうものは、一生懸命頑張るところがある。これを、カントは、実に不思議なことだ、と書いている。
 ところが現在の日本人は、まさにその「不思議な性質」に欠けている。たとえば政治的な意思決定をするときに思想が考慮にいれていることの時間的なスパンが極端に短い。はっきり言えば、ほとんどの人が、自分が生きている間だけよければよい、と思っている。どうしてそうなるのだろうか。そう反省してみると、また、中島さんが指摘されたこと、過去の世代をも包摂した民主主義、という問題に回帰していくことになります。はっきり言うと、現代の日本人が、「未だ生まれてこない未来の世代」のために生きることができないのは、「すでに死んでしまった過去の世代」との関係をうまくつけられていないからだ、と思います。
 断絶ができてしまっているのは、もちろん、「戦争」、いや「敗戦」のところにある。戦前の死者、あるいは戦争のために死んでいった人たちと、現在のわれわれとはどういう関係があるのか。あたかも何も関係がないかのように生きるしかなくなっているのが、現在の、いや戦後の日本人かと思います。
 一方では、私たちは、戦中や戦前の人が、まさに「それ」のための死んでいったもの、彼らの願いや希望を、否定しなくてはならない、と思っています。あれは誤りであった、と。しかし、単に否定するだけでは、何か根本的な欺瞞がある。言い換えれば、現在の私たちがそのおかげで存在しているような、過去の世代が、あたかも存在しないかのような態度になってしまう。というわけで、私たちは、敗戦までの過去の死者たちと自分たちとの関係をどのように引き受ければよいのか、定まっていない。
 そのことが、未来の世代、未来の他者とも関わることができない、ということにつながっているように思うのです。つまり、すでに死んでしまった、自分より先に死んでいく人たちとの関係を引き受けることができない人は、自分よりあとに生まれてくる人や自分が死んだあとに生まれてくる人とも関われなくなるんです。そんなこともあるので、これからの若い人たちに対して戦後思想というものが、どのように動いてきて、どのように考え抜いてきて、どのように挫折してきたかということを見えるようなシリーズをつくっておくというのは意味があると私は思っています。

中島:
 そうですね。以前に、大澤さんの編著『憲法9条とわれらが日本』でも同じことを指摘させていただいたかもしれませんが、この問題を考えるときに切実なのは柳田国男(1875~1962)の『先祖の話』です。あの本のほとんどは、民俗儀礼などいろんな事例が書いてありますが、重要なことは「はじめに」の数ページに凝縮されています。
 1945年の敗戦間際に彼が書いているというのが前提ですが、そのときに一見穏やかな書きぶりから始まります。あるところで――調べると町田のあたりですが――、ある老人と出会った。バスか何かを待っている間に立ち話をした。そうするとその老人は、「だいたい自分の家のことは片付きました。息子に家業も継がせて、あとは御先祖になるだけです」と言った。それを聞いて柳田は「これはまだ素晴らしい精神がある」というふうに書く。この老人には、死んだあとに仕事がある。「死んだあとにこそ仕事がある」という感覚を柳田は書こうとしているんです。
 この老人は、よい先祖になり、まだ自分が見ていない曾孫のような子どもたちが、いずれその仏壇の上にある遺影を見たときに、あのおじいちゃんが天国で見ているから悪いことはしてはいけないよと諭される。そんなふうに、まだ見ぬ何十年かあとの自分の子孫に対して、倫理的な眼差しを投げかけるという仕事が残っている、というわけです。
 この仕事をやるためには、「よい御先祖にならないといけない」。そのためには、「いまを一生懸命に生きないといけない」という理屈になっているので、この老人は余生というのを一生懸命に生きようとしている。それは「自分が先祖という問題をずっと考えた末にある未来への仕事である」と柳田は言うんですね。
 では「どうしてこの本を書くのか」と言うと、この問題が途切れようとしているからだと。それは何かと言うと、加藤さんと同じで「戦死者」という問題です。あの戦争に行き、若い男たちが死んでいった。彼らは先祖になれない。だから、彼ら戦死者と養子縁組をしないといけない。遺体となって帰ってきた、あるいは遺骨すら帰ってこなかった人たちと養子縁組しろ、と恐ろしいことを言うわけです。
 つまりこの本のメッセージは、「戦死者に未来の仕事を残さなければ、この日本という国は未来を失ってしまう」というものだと思います。加藤さんの文章からいえば、この作業を日本人は怠ってしまった。柳田が懸命に書いたこの問題を私たちは怠ったがために、私たちは未来に対する手がかりを何も持てなくなってしまっている。そこをもう一度取り戻したいというのが、「死者たちと向き合う」ということだと思います。
 私は、そろそろ「戦後」というものが完結する、そんな時期に入ったと感じています。柄谷さんなどはご存命ですが、私たちがこの十数年見てきたのは、戦後史、戦後思想の中核を担ってきた人たちの死です。吉本隆明が、鶴見俊輔が、石牟礼道子(1927~2018)が亡くなった。そして、私の師でもある西部邁が亡くなった。こういうときに、私たちはその死者たちをどういうふうに引き受けて未来を考えるのか。そんな重要なときなのかなと思いますね。

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「死者たちと向き合うことを、もう一度取り戻す必要がある」と説く中島さん

大澤:
 私は中島さんよりも年上のこともありますが、自分が「死者になる」ということも仕事しているときに思うようになりました。自分がそんなに立派なことをできてはいないかもしれないですけれど、でも、これからあとの世代を見守らなければいけないと思うわけです。ただ、あとになって見守っていたと思ってもらうためには、やはり、私自身がいまをちゃんとして生きていないとダメなんですよね。
 実際、私は本を書いたり考えたりするとき、もちろん当面すぐ売れてもらわないと困るというようなこともありますが、気持ちとしては自分がいなくなったあとの世代にも読んでもらいたいという願望をもちます。「そうか、あのとき彼はこういうつもりで書いていたのか」というようなことを思われることがないといけない、というのがあります。だから、そのよき御先祖になるという気持ちはよくわかる気がします。

思想は究極の勇気である

大澤:
 それと、これはあまり理論的にきっちりと考えたことではないのですが、いまの大学生くらいの若い世代と、30代後半から上くらいの人とでは、日本の現代思想に対する関わり方が少し違うという感覚があります。
 見田さんにしろ、柄谷さんにしろ、自分より上の人、あるいは同時代の人や、私から見れば10歳くらい年上の団塊世代くらいの人は、もちろん日本の歴史的なコンテクストで書いているのを読みますが、私たちはそれを、日本人からだけ影響を受けているわけではないので、同時代的に世界で起きていること、世界の思想や現代思想というものをシンクロしつつ、また日本的な文脈を引き継ぐという形で読みます。
 日本のものを学びながら、柄谷さんや見田さんのものを読んで、そして影響を受ける。それと同時に世界の思想の中で全体とシンクロしながら受け取っていく。たとえば、デリダ(1930~2004)を読むのと柄谷さんを読むのと同じ気持ちで読んで、「柄谷さんはこう言っていたが、デリダはこうだな」というふうに対等に感じながら、そうやって自然に受け入れてきた。思想というものは、そうして継承されていくものだと思っていました。
 ところが、ある時期から若い人が、端的に言えば前の世代がやっていることに興味を持っていないと感じるようになったんですね。彼らといくらも年齢が違わないくらいの人のものについてさえ、あまり興味を持って読んでいない。それでいて、もちろん日本以外のものに興味を持っているわけでもない。私たちからすれば、日本の現代思想というものに関わりながら、それが同時に普遍的な世界の思想に関わっていくというルートになっていたものですから、自分たち以外の思想に興味を持たなくなってくるとガラパゴス化してしまうんですよね。急にそういうふうになってきて、とても不思議な感じがしたわけです。
 私は若いころの素朴な感覚として、やはり日本は西洋のものに影響されながらやっていきますから、あとになればなるほど日本と西洋のギャップなどは気にしなくなると思っていて、実際にそうなっていました。でもいまは、若い人が前の世代の思想に興味を持たなくなってしまっているために、ますます日本が世界の思想のコンテクストの中で自分自身を訴えることが不可能な状態になっている。これは、とても困ったことだなと思っています。
 どうしてそうなってしまうのかと考えたときに、いろいろ原因はありますが、よく考えてみると、日本という共同体が、やはり七十数年前の敗戦のときに、うまく事を処理しなかった問題が効いてきている気がします。
 直接明示的に語らない人でも、七十数年前の「集合的・歴史的なトラウマ」を直接的にせよ間接的にせよ、引きずっているもので、あるいはそれをどう処理するかというところで、自分の考えが決まるようなところがあります。しかし若い世代は、彼らもそういう空気を生きてはいますが、あまりにも慢性化してしまったために、そのトラウマ性を感じることができない。つまり日本人の共同主観的なものとして継承していることが、個人の人生の中で自覚したり、反省することが困難になっている。いわば、最初から先天的にトラウマを抱えているためにトラウマであることがわからなくなってしまっている状態なんですね。それをここで処理して乗り越えていかないと、どんどん日本の知というものが閉じていって、非常につまらないものになってしまうと感じています。

中島:
 そうですね。私にとっての「死者」という問題に直接関わってくることで、江藤淳にもやはり死者の問題が中心にあって――そこには母の死が圧倒的に大きいと思いますが――、「死者との連続性を取り戻す」と彼は言います。その死者と断絶させられているのは、アメリカに言葉を奪われたことにある。だから、そこを解決しなければならないと。一方で加藤さんの場合は、もっと直接的で、あの戦争に行って死んだ人たちに、まず慰霊をしなければならない。そこから、戦後をもう一回引き受け直さなければいけない、その主体性を回復しないといけないという議論になります。
 実は、この「死者」という問題について、江藤は深く考えていますが、ほかの戦後派保守と呼ばれる世代の人たちは案外考えが浅いといっていい。むしろ私が、この「死者」について追求すればするほどぶつかるのが、いわゆる左派と呼ばれてきた人たちの思想水脈です。それが今回、大澤さんがなさったお二方(柄谷・見田)へのインタビューで確信を持ったところです。
 私が面白いと思っている「反転」は、日本の戦後思想の中核を担った一種の左派的な人たちは、宗教に対するある種の強い関心を持っている人たちでもあるということです。一義的に言えば、「マルクス主義に対してどう対応するのか」というオルタナティブの模索が彼らの思想の骨子だったからというのがありますが、それ以上の何かがある気がします。たとえば、柄谷さんは極めて宗教的な方のはずです。今回の大澤さんがまとめられた『戦後思想の到達点』のインタビューの中で、柄谷さんが強調しているのは「交換様式D」(A=贈与交換、B=略取と再分配[国家]、C=商品交換[資本]、D=高次元でのAの回帰[X])であり、また、共同体と共同体の間で交換を強いる力は霊のようなものと考えたほうがいいというものですが、この背景にあるのは、モース(1872~1950)の『贈与論』です。
 マオリ社会では、物をずっと持っているとそれが悪さをする。だから物自体が贈与されることを欲するので、どんどん与えていかないと災いが来てしまう――という話が『贈与論』に出てくる。柄谷さんはそれをかなりダイレクトに受けて、「交換様式D」の問題を考えていらっしゃいます。「交換様式D」というブレイクスルーは、「普遍宗教によってこそ定義される」というのが強いテーゼだと思います。そこに近年は「神の力」という議論が加わってきていて、「憲法九条は日本に対する神からのある種の贈与である」という主張につながっている。
 3・11(東日本大震災)のころ、朝日新聞の同じ書評委員会をさせていただいたので、柄谷さんといとうせいこう(1961~)さんと深夜までよくお酒を飲むことがありましたが、いとうさんもやはり「死者」の問題を考えていて、『想像ラジオ』という小説を書きました。私も死者の問題を考えていた。そのときに柄谷さんは、柳田国男の問題で死者を考えていました。
 このように、私が考えているようなある種の日本に対する文脈は、一種の左派的な人たちのほうにあります。見田さんも同じだと思います。ペンネームの真木悠介で書いた『気流の鳴る音』は、まさに死者との関係性が非常に濃厚な作品です。かつそのペンネームによる著作のきっかけは全共闘への懐疑だったというのが面白かったですね。全共闘はずっと破壊ばかりやっている。それに対して、どういうふうに創造をしようとしているのか。ポジティブな世界の構築を自分はしなければいけない。そうすると、社会学という枠組みから自由になる必要があるから「真木悠介」という名前を手に入れる必要があった――という、このあたりの「反転」が非常に面白いなと思って今回は読ませていただきました。

大澤:
 少し乱暴な言い方をすると、人文系の思想でわりに深いことを考えられるかどうかの重要な試金石は、その人が信仰を持っているかどうかは別として、「宗教」というものに対する深い理解があるか、ということです。単に知的な理解というより、身体的な理解です。
 それは、神学を勉強する、というようなこととは別のことです。宗教的な感性、あるいは宗教の「止むに止まれず持つ力」のようなものに対して、実感があるかどうかというのが重要です。逆にそれがないと、あまり大したことは考えられないですね。自分がクリスチャンになる必要などはありませんし、私も信仰などもってはいませんが、宗教を単なる迷信として切ってすてるのではなく、それが人を捉える理由が内側からわかるということ。それが、深い思想を理解したり、自ら深い思想を紡ぎだすことができるかどうかの分かれ目になっている。たとえば吉本隆明は、そういう理解をもっていた人だと思いますね。
 日本の場合は、キリスト教がコンテクストになっていないので、そういう感性がなかなか持ちにくい人が多いですね。つまり、自然に持てるとは限らない。でも一部の人は、もちろん勉強を通じても含めて、いろんな理由から宗教的感性が強い人がいます。それを思想として、きっちりとした本などの形で継承していかないとまずいと私は思っています。
 「思想は何のためにあるのか」といえば、思想はいざというときの究極の「勇気」です。「そんなものは別に役立たないじゃないか」という人がいるかもしれません。たしかに思想がなくても、消費税を8パーセントにするか10パーセントにするかといったことはできます。しかし、人には重要な選択をしなければならないときがあります。たとえば憲法がそうです。軍隊をどういうふうに持つか、そもそも軍隊と称するものをはっきり持つのか、核兵器も持つのか、あるいはそういうものをすべて放棄するのかというのは、決定的な選択ですが、そういうことをやるときのあと一歩の勇気というのは、思想があればできます。
 逆に思想がない共同体というのは、人が歩いた道しか歩けなくなります。人が歩いていて、地面がしっかりしている道。でも、いまはその道を歩いていてもうまくいかない時代です。すでに人が歩んだ道の通りに進んでうまくいったのは20世紀までです。そのあとは「まずいぞ」という状況になったわけだから、人類規模でこれまで歩んだことがない道を思い切って歩かなければなりません。そのときに、確信を持つ世界観の基になる思想がない人には、それができないですね。そこでこの話題の最初に戻りますが、21世紀になったあたりから、ちょうど若い世代への思想のバトンが途絶えている感じがするんです。
 戦争が終わったときもそうで、そこでいったん途絶えている。これは誰が見ても明らかな理由ですが、バトンが渡しにくくなって、みんなそのことを自覚していました。だけど、そこからちょうど人間の一生分の時間が経ったところで、またバトンを手渡しが難しい状況になっている、そんな感じがしています。

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「思想はいざというときの究極の〈勇気〉です」

「役に立つ」ということ

中島:
 実学という問題と関わってくるかもしれませんが、私はいま、東京工業大学のリベラルアーツ研究教育院にいるので、ことさら自分で定義しないといけないと考えています。学生によく説明するのは、「役に立つ学問というのは、人生が反転したときに役に立たなくなる」ということです。
 たとえば理工系の学問は、なまじ役に立つわけです。もちろん、「よい薬を作れば治らなかった病気が治る」というのはとても大切なことです。だから、社会貢献したいという気持ちは非常によくわかる。けれども、隣にずっといたはずの人がいなくなったり、裏切られたり、自分のある大きな支えになっていたものが突然反転した際に、役に立つものが一気に役に立たなくなる。そのときに役に立つのが、一見役に立たないもの、つまり、思想であり人文科学なのだろうと思います。
 だから七十数年前、若い人たちが戦争に出かけていくときに手に握っていたのは、簿記のハウツー本とか工学の本ではなく、岩波文庫だった。田辺元(1885~1962)を握っていたり、カントを握っていたりして、そうして戦死していった。自分が置かれていることの意味、覚悟を持って考えざるを得ない場面というのは、もしかしたら戦争に直面することはないかもしれませんが、大切な人の喪失は繰り返しあるわけで、そのときに私たちは、福田恆存的に言えば――「一匹になってしまう」。このとき、実学はまったく役に立ちません。社会科学もほとんど役に立たない。やはり人文科学です。これがリベラルアーツというものの意味だと私は思っています。
 福田がいいことを言っているなと思ったのは、吉本とはだいぶ違う角度からですが、「文学と戦争責任」という文章の中で、次のようなことを言うんですね。「文学者の戦争責任は、戦争協力をしたことにあるのではない。むしろ役に立とうとしたことにある」と。
 つまり、あの時期に役に立とうとして、戦争協力をすることが、文学者の果たすべき仕事ではない。そんなもの、本当に文学の意味を求めている人には届かない。人間の中に渦巻くエゴイズム、「戦争万歳」が声高に叫ばれるあのさもしさを含んだ日本人の心に、文学者が何も寄り添う言葉を紡げなかったことが問題だったと言う。だからこそ、「文学は文学の領域を守れ」というのが福田の言い分です。そのあたりの実感がいまも失われていて、それは戦争が切れたという問題とも深くつながっている気がしますね。

大澤:
 ある意味で私たちは難しい時代に生きていて、何をやることがよいことなのか、つまり、「役に立つ」ということのレベルで考えることももちろんできるのですが、問題は役立つというのは常に相対的だということです。こういう利益を前提にすれば役立つとか、あるいは、こういう人たちにとっては有利である、という話になってくる。そうすると、日本にとっては役立つけれども、日韓関係全体で考えたら役立たないといったことが起こってくる。
 私たちは、たとえば戦争でなくても、自分の人生全体を使って生きていくときに、最終的には「自分に役立つこと」「自己利益」以上のことをやろうとするものです。それでいろんなものに準拠するわけですが、どんなものでも相対的ですから、ある種の個別の共同体の「自己利益」に回収されてしまう。だから、究極的には類のためなのか、地球のためなのか、宇宙のためなのかはわかりませんが、そういう大きな見地というか、もっとはっきりいえば普遍性の探究ということが必要になる。それが、「思想」の使命です。カント風にいえば、理性の私的使用ではなく、理性の公共的使用、ということになります。けれども、いまはおそらく、日本人にとっては国に役立つというのがギリギリで、おそらくそれすらもあまり実感していないでしょう。それがどこか虚しいですね。
 この前、小熊英二(1962~)さんの『日本社会のしくみ』という本を読みました。この本の着眼点は、まず、社会の基本的な仕組みというのは、人が就職するときにどのような慣習になっているのか、ということに最もはっきり現れている、ということです。だから、日本社会のしくみを見るには、まず、雇用の慣行がどうなっているのか、それがどのように歴史的に形成され、変化してきたのかを見るのがよい、ということになります。
 私が「なるほど」と感心したのは、いまの近代的な雇用慣行の大元は、明治期に官僚を採用したときのシステムにあったということです。そのやり方が民間に波及し、変形を被りながら現在まで存続しているのです。官僚のやり方がいろんなところに波及するのは、多くの国でもあることです。たとえば官僚の階層性のシステムは、軍隊の効率性と親和性があるものだから、軍隊でも似たような方法を使ったということがありうる。ところが日本のように、すべての民間企業がそうなった国はほかにはない。日本の場合は、初期の大企業が国営だったものを民間化するというシステムで成立したからでもありますが、官僚採用のときのやり方が、役人を採用するときの雇用形式がそのまま民間に普及した。
 では、もともと役人を雇用するときにどうしたのか。そのやり方や態度というか精神は、当時の用語で「任官補職」(官に任して職を補う)という言葉によく出ています。「職」を与えられる前に、最初に、「官」に任じられる。官というのは、組織の中でのランキングです。もっとはっきり言えば、近代組織の中に移植された「身分」です。要するに、いまの官僚で言えば「キャリア」「ノンキャリア」ですよね。まずランキング、等級が与えられて、そのあとに職が補われる。等級にふさわしい、職が後から埋められる、というシステムです。
 そこで私が面白いと思ったのは、こういうことです。ランキングが上であればあるほど、任じられるときの天皇陛下からの直接度が高い。現代でも内閣総理大臣は天皇から直接任命され、国務大臣は、建前上は――天皇陛下の文書が届くだけですが――天皇が認証しています。明治の役人は、全員、いわば天皇の臣下として天皇に任じられるわけですが、その任じられるときの直接度が、高い官ほど大きい。つまり「官」のランキングというのは、天皇との近さを意味していたわけです。民間企業の社員はもちろん天皇から命じられているわけではありませんが、官僚の雇用の仕方をシミュレートした。ということは――ここは私の推測ですが――民間企業に勤めてはいますが、まるで「天皇陛下」に任じられているような気分というか気概をもつようになっていたのではないか。
 ウェーバー(1864~1920)が述べたように、ルター派の聖書では、職業というものに「神から呼びかけられている」という意味合いを与えられている。そのことが、資本主義の精神につながっていった。日本人は神からは呼びかけられませんが、天皇陛下から呼びかけられる。だから、上の官にいて、強く呼びかけられることはすごく誇りだったんですね。
 おそらく日本人の雇用慣行の下では、官僚以外の民間組織に採用されたときにも、同じような思いをもったのではないでしょうか。近代化するときは、いろんな職業に就いた人たちに自己利益を越えたインセンティブを与えて、何か大きなことを成し遂げていかなければいけない。そのとき彼らは、直接の上司にというよりも、もっと崇高なものから呼びかけられていると感じていた。その意識は、たとえば「俺はこの会社の幹部候補生。直接的には雇用している人に呼びかけられているけれど、気分的には天皇陛下から呼びかけられている」、そんな感じですね。
 ところが、それが戦争に負けたところで切れてしまった。今年は新しい天皇陛下が即位したばかりです。新しい天皇や前の天皇(上皇)への現代の日本人の尊敬度は高い感じがしますが、しかし、いまの人たちは、というか戦後の日本人は、天皇に呼びかけられて仕事しているとは思っていないでしょう。大臣や高級官僚になるとそんな意識も多少あるかもしれませんが、それでもあまり高くはないはずです
 よいか悪いかは別として、かつての日本は「天皇から呼びかけられている」という、ひとつの崇高な価値を位置づけるシステムをつくり出していました。そして、それに見合う思想もつくられていましたが、戦争に負けたところで、雇用慣行としても思想としても切れてしまったのです。
 しかし、はっきり言ってしまえば、客観的には、いまの私たちは「類」として生きています。人間にはエゴイスティックに生きる側面がありますが、でもそれよりも、もっと大きな世界の中を生きてもいる。客観的には、地球規模のネットワークのひとつの項として、生きている。しかし、この客観的な状態に見合った思想、それに見合った主観的な観念を、私たちはもっていない。類なのか、生態系なのか、素朴にエゴイスティックに生きているということを越えて、自分自身が何かをやる意味を感じる、あるいは納得して意味を感じさせる、そういう媒介としてやはり「思想」があるわけです。
 戦前の日本では天皇がその媒介になって、それが国民レベルにまで浸透していました。それが現代ではなくなっている。そんな状況にあるからこそ、「戦後思想とは何だったのか」ということをここできっちり見ておかなければいけない。柄谷さんや見田さんの本を若い人が読むということがなくなりつつある。その断絶をなんとかしなければいけない、という気持ちですね。

思想以上の「態度」とは

中島:
 『戦後思想の到達点』の見田さんとの対談を拝読していて面白かったのは、学生時代の大澤さんが見田さんの授業を受けていたときの一幕ですね。あるとき見田さんが講義の準備ができずに来て、NHK放送文化研究所の「日本人の意識」に関するデータを配り始めた。大澤さんが「今日は手抜きの授業かな」と思っていたら、そのデータへの着眼と読み方が実に深く、凡庸だったデータが何か浮き上がってくるような感じを受けて、とにかくその手法に驚いた、と。
 私が大澤さんの本を読むときは、まさにそんな感じです。「こんな普通にありふれた素材から、なぜこんな読み方ができるんだろう」といつも感じていることで、見田さんから継承された、大澤さんのひとつの手法ですね。「未来への投企」というものは、こういうことを通じてもあるのだなと私は思っています。
 かくいう私も大澤先生の本を1995~96年ころに大量に読み、いまを捉えるためには血盟団事件を取り上げないといけないと思って、戦前期をやり始めました。それは、やはり見田宗介から続いているんですね。私はまだご本人にお会いしたことはありませんが、こうしてバトンが渡されていく展開が「思想」というものの実感としてあります。
 大澤さんがおっしゃられたことは、思想が切れてしまうことに対する「懸念」の感覚だと思います。私も吉本隆明から学んだのは、思想そのものよりもあの人の毅然とした「態度」のようなもので、それが私に思想以上のものとして迫ってきたのです。それがどう継承されるのか、逆にそれが途切れるときに思想の断絶が起こると思います。

大澤:
 おっしゃるとおりですね。私の場合は、見田さんや柄谷さんとは、わりと若いころからお付き合いさせていただいたのでいろいろとお話をしましたが、自分が直接に接触できる範囲で十分に尊敬できる人がいる、というのはとても重要なんです。もちろん、すでに亡くなった人や、遠い国の人を尊敬するというのも大切ですが、たとえばプラトン(前427~前347)を素晴らしいと思うだけでは、なかなか飛躍ができません。
 自分が身近に感じられる人の中で、あるいは直接会えなくても、ある程度はその人と地続きの空間の中で、「面白いな」「すごいな」と思えたりしなければ、「思想を継承する」といった域には達しないですね。私たちの責任かもしれませんが、いまの若い人たちを見ていると、そんな関係性ができていないと感じてしまいます。
 たとえば私は、社会学という学問をやっていますが、ちょっと哲学っぽいことをやったりもしている。それが最終的には、日本というコンテクストだけを考えるのではなく、もっと普遍的なことへ向かうというイメージがあります。しかし、ものを考えるときには、やはり自分の文化的コンテクストからスタートして考えるんですね。
 私が、若いころに初めて国際的な社会学会(International Sociological Association)に行ったときにつくづく思ったのは、「社会学という学問はナショナルなコンテクストに負うものだ」ということです。本などでいろいろな国のものを読んで知ることはできますが、これが大事だと思うときの感覚が、やはりその国の文化によって違います。まずナショナルなコンテクストの中にある問題意識に共鳴して、そこをバネにしてさらに普遍化できるわけです。
 だから、まずは自分に固有なコンテクストの中で問題を引き受けないといけない。いきなり抽象論でやっても、そんなに深いことはできませんから、自分の歴史的・文化的コンテクストの中で何が問題になっていて、何が重要かということから入っていって、そのことを本当に考え抜こうとする。その上でやがて自分たちの問題だけではなく、たとえば、日本で原発のことがすごく問題になっていて、原発の将来について考えていくとなれば、自然に資本主義は、エコロジーはどういうものなのか、類としての生存はどうなのか、ということにつながっていくと思います。はじめは、福島県の浜通りのことがすごく気になるというところから、どんどん普遍化していくんですね。
 いずれにしても、自分が身につまされた感覚で「考える」ことが必要です。日本という文脈で、日本の思想家というところからまず学ぶことをしないと、なかなかそれ以上の飛躍はできません。それがいま、ずいぶん難しくなってきている感じがするんですね。

中島:
 そうですね。その話で思い出したのが、20歳のときに芦屋に聴きにいった吉本さんの講演です。それは私にとって非常に大きな体験でした。それまで私は、吉本隆明という人を、吉本ばななのお父さんで戦後最大の思想家ということは知っていましたが、彼の本を一冊も読んではいませんでした。では、どうして講演を聴きにいったのかといえば、当時大阪に住んでいたときに、たまたま「吉本隆明来る」という張り紙を見つけて、大学をサボっていて暇だったことと、一番大きな理由としてはやはり「戦後最大の思想家」というのが気になったからです。1995年の冬のことでした。
 そのとき、吉本さんは『ヨブ記』の話をされたのですが、その中で親鸞について触れたんですね。ヨブの話と悪人正機の問題について触れて、それは通底しているという話をされた。それで休み時間に入って、質問用紙が配られました。お客さんがびっしりの立ち見だったんですが、私はそこで次のような質問を書きました。「吉本さんは親鸞の悪人正機が重要だとおっしゃいました。もし親鸞が生きているならば、麻原彰晃は往生できると言うんですか」と。

大澤:
いい質問ですね。

中島:
 いま思えば、それは生意気だったというのが一番だったと思いますが、1995年というのは吉本隆明が、麻原彰晃の事件で苦境に陥っているときだったんですね。麻原彰晃に対して高い評価をする文章を書き、オウム擁護学者と言われてもいた。そうした批判について、吉本さんはあえて言及もしなかったんですね。おそらく理解されないだろうと考えていたと思いますが。
 そこで、私がいま言ったような質問をしたのも、オウムの問題について何も答えない吉本さんに対する、若干の挑戦的な態度があったと思いますが、とはいえ読まれないだろうと思っていたら、いきなり「まずこの質問には答えないといけません」と言って、私の質問に触れたんです。

大澤:
そこが吉本さんの偉いところですね。

中島:
 そのとき、吉本さんは真っ直ぐ前を向いて一言、「往生できると言うに決まっています」と言ったんです。実は私、ここから吉本さんの話はまったく覚えていません。つまり、話の内容以上のものを「吉本隆明」という人に感じたんですね。先に述べた、まさにその「態度」です。「なんだ、この人は」と思ったんですね。
 私の質問に「往生できると言うに決まっています」と真っ直ぐに答えたその衝撃が大きすぎて、話の内容に気が向けられなかったんです。それで私は次の日、朝一番で『最後の親鸞』を買いにいって読んで、それから親鸞の思想に引かれていきました。
 思想というのは、そういうふうに相手に何らかの影響を与えて継承されていくものですが、まさに吉本隆明がそういう人だった。彼の「試行」という雑誌も、自分で住所の宛名書きして送っていたような人です。「日常をすべて終えてから書け」。「思想は25時から」というわけですね。それが、彼の思想から出てきたひとつの「態度」だったと思います。
 吉本隆明がこんなに人気があるのは、たぶん書いたもの以上のその「態度」にあったと思います。そこから伝わってくるのが彼の思想だ、と人は思った。思想の伝わり方とはそういうもので、その「気配」を伝えないといけないのではないか。だから私の尊敬する鶴見俊輔さんも、よく「人」を語りました。「あの人はこうだった」と言ったのは、それこそが思想だと思っていたからでしょう。あるいは私の師匠の西部邁もそうですが、頭のよい人だから、すぐに「この人の思想はこう」と要約できるはずなのに、「あの人はこうだった」「酒が入るとこうだった」ということを語ることで、その人の思想を表そうとしていた気がします。

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「吉本隆明のすごさとは、書いたもの以上のその〈態度〉にあったと思います」

思想を継承するために

大澤:
 吉本さんから一番影響を受けたのは、団塊の世代の人たちじゃないですかね。鹿島茂(1949~)さんの吉本隆明論(『吉本隆明1968』)にありましたが、結局「吉本とは何なのか」というときに、自分の感覚で一番重要なのは「吉本は嘘をつかない」という感じだと言うんですね。つまり、彼の思想のどの部分が正しいとか、『共同幻想論』のこの部分が素晴らしいとかいう以前の問題として、「吉本さんは嘘をついていない感じがする」とか、「吉本さんは、心底から本当なんだという感覚に基づいて喋っている」とか、そういうふうに納得できるところに、吉本さんの魅力を感じている。
 思想には、勉強的なところがあるでしょう。思想だけでなく、人文科学も歴史の勉強のような本です。そうすると、何か知識を獲得するとき、それをお勉強として習得するのと、「そうだな」と心の底から思えて納得するのと、二方面があるわけです。
 半分雑談になってしまいますが、私が京都大学に勤めていた2001年のときの話で、当時、私たちと大学院生を入れて20~30人くらいで人文研究所の共同研究に参加していた。しばしば、そこに他大学の先生を呼んで話してもらう機会がありました。11月頃だったか、ジョン・ロールズの専門家の先生を招いたことがありました。そのとき、ジョン・ロールズ(1921~2002)が1971年に書いた『正義論』がテーマで、その研究者の方はロールズがどのくらいの段階でアイデアを練っていたのかなどを議題にしながら、きっちりとした研究内容を発表されましたが、それがひとしきり終わったあと、ひとりの大学院生が質問をしたんです。
 「ロールズの正義論から見た場合に、9・11(アメリカ同時多発テロ事件)のテロリズムは、どういうふうに評価されるのですか?」「それに対するアメリカ側のやり方は、ロールズの正義論的には正当化されるものでしょうか、それとも正当化されないものですか?」と。
 2001年といえば、9・11が起きて、それに対するアメリカのアフガニスタン侵攻作戦が「Infinite Justice」(無限の正義)と言われていたときです。『正義論』を取り上げているわけだから、そう質問するのも不思議ではありません。ところが、その先生は「それは考えていません」という返事をしたんです。それはまずいなと思いましたね。先ほどの吉本さんの話でいえば、「麻原はどうですか」と言われたときに「それは別問題です」と答えているようなものじゃないですか。
 9・11が起きたそのとき、それがこれからどうなるのか、どうすべきなのかとみんなが気になっている、そんな中で『正義論』をやるときには、自分たちが、まさにいま生きながら気になっている問題とロールズの議論をどう結びつけるのかが重要だと思うんですね。
 吉本さんにインパクトがあったのは、まさにその部分です。吉本さんの本の内容をいろいろ批判する人もいるし、離反した人もいます。吉本さんが言っていることがすべて正しかったわけではないかもしれないし、それを受け入れるかどうかも別です。でも彼は、嘘をつかない方式でやってきた。だから、私たちが思想を形成し続けるときも、どれだけ嘘をつかずに後ろにつなげられるか。あるいは嘘をつかなかった思想を集めてきて、どういうふうにそれをつなげていくか。そういうことをやってみたいと感じています。

中島:
 私も「いまという時代に生きていることを置いてけぼりにしない」というのが、思想の重要なポイントだと思っています。師匠の西部邁に繰り返し「中島くん、時評を手放すなよ」と言われました。アクチュアルな問題を考えないで、学者が体系的なものを書けるなどとおこがましいことを考えてはいけない、と。常に時評を積み上げたところから体系が見えてくるものだということをよく言われました。
 だから、時評を書かないのは、単なる逃げである。やはり、いま生きている世界と格闘して、それについて発言をし続けること――それが表現者であり、発言者である、というのが彼の言い分だったんですね。西部さんが尊敬する、たとえば福沢諭吉(1835~1901)や中江兆民(1847~1901)というのは、そういう人だった。もちろん体系的なものも書こうとしているけれど、しかしアクチュアルな問題に際する時評を積み重ねることによって、思想を表そうとする、そうでなければいけない――と。
 ふつうの大学の先生は、そういうのに手を出していると学会で論文が書けなくなるとか言ったりしますが、西部邁はまったく逆のことを言っていて、私はそこに真理があると思ったんですね。なので、このシリーズでこれから取り上げていく、そして戦後思想としてこれからも継承されうる、そんな人だと思います。
 見田さんも柄谷さんも、体系的な思考をされているように見えるし、実際にそうだけれども極めてアクチュアルです。見田さんの「永山則夫研究」(『まなざしの地獄』)であったり、柄谷さんの「交換様式D」も世界と向き合っているがゆえに出てくるものですからね。こうした態度こそが私は思想というものの力で、逆にいえばそれしか残らないとも思っています。

大澤:
 柄谷さんと見田さんに、今回のシリーズの最初に登場していただいたのは、それも大きいんですよね。ふたりとも典型的な時評というものとはだいぶ違いますが、「時評的感覚」というのを強く持っています。見田さんは『朝日新聞』に時評を書いた時期もあって、それは本にもなっていますね。見田さんがあの時評を書いていたのは、1980年代で、私は大学院生だったのですが、毎月読むたびに、とても感動しました。私もこうして少し歳を取ってから、自分も新聞などに時評を書くようになったわけですが、そのときに自分のモデルになっているのは、実は見田さんの時評なんです。
 柄谷さんは柄谷さんで、もちろん現代の世界情勢を考えていて、時評的なセンスも強い。たとえば憲法九条についてどうするかということについても論じていますね。憲法九条の話にフロイト(1856~1939)が出てくるんですから、本当にすごいと思いました(笑)。
 でも柄谷さんは、フロイトをフロイトのために勉強しているのではなくて、憲法九条というのが我々にとってどうして重要なのか、これが手放せなくなるのはどうしてかということを本質的に考えていくと、フロイトの超自我の概念とつながっていくと言っているわけです。それはいまの言葉でいえば、時評的なものと思想を結びつけているんですね。
 ただ、自分自身としては、見田さんからも柄谷さんからも、もちろんすごく影響は受けていますが、真似はしません。見田さんや柄谷さんを受け継ぎたかったら、彼らの真似をしてはいけないんですね。なぜなら、それはごく薄くなった見田宗介や柄谷行人が生まれるだけだからです。柄谷さんも見田さんもひとつの城をつくったから、私たちも自分の城をつくらなければいけない。でもそのためには彼らを見て、その影響を受けなければいけない、そういう感じですね。

中島:
 そうですよね。いま大澤さんがおっしゃったように、柄谷さんのフロイトなんてまさにそうですよね。憲法九条の無意識について話しているところ(『憲法の無意識』)に、フロイトが突然出てきて、それが根拠となって九条の問題が出てくる(笑)。でも、そういうものとして、つまりアカデミックな何かの正確な引用とは違う、それ以上のものが継承されていくと思います。
 これも西部さんがよく言っていたことですが、「中島くん、僕は一回作ってみたい本がある」と。「何ですか」と聞くと、「いっさい原典を見ずに引用する本を作りたい」と。つまり、自分の中でその思想家がどう咀嚼されているのか、それ自体を自分として書く。ふつうは、いちいち原典を確かめろと言うけれど、そうではなく、原典を確かめない引用というもので本を作ってみたいと言ったんです――もちろん、それは実現できませんが――。でも、そういうものとして思想は血肉化するんですね。だから西部邁という人は、びっくりするくらい蔵書数が少なかった。本を持っていなかった。自分の中に入ってくることを大切にしてきた人なんですね。
 たまに「そんなことニーチェは言っていないとか言われるけど、そんなものは何の意味もない。俺の中に入ってきたものが重要なんだ」と。「思想の継承」とはそういうものだと。私は、同じようなものを柄谷さんや見田さんにも感じますね。
 彼らが自分の中に血肉化したものを、今度は私たちが継承して、次につなげていく。思想のそういう側面がまた重要なんだと思います。大澤さんがおっしゃるように、それがいま切れているのであれば残念なことですが、逆に「いや、思想とはそういうものじゃないんだ」という論客が出てくるのであれば、それはまた、このシリーズの全体像として面白くなるのではないかなと思っています。

――この度は、ありがとうございました。

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対談を終えて、自著を手に

プロフィール

大澤真幸(おおさわ・まさち)
1958 年、長野県生まれ。社会学者。東京大学大学院社会学研究科博士課程修了。専攻は理論社会学。著書に『ナショナリズムの由来』『〈世界史〉の哲学』(講談社)、『不可能性の時代』(岩波新書)、『自由という牢獄』(岩波現代文庫)、『「正義」を考える』(NHK出版新書)、共著に『資本主義という謎』『憲法の条件』(NHK出版新書)など。

中島岳志(なかじま・たけし)
1975 年、大阪府生まれ。東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。京都大学大学院博士課程修了。専門は南アジア地域研究、日本近代政治思想。著書に『中村屋のボース』(白水社)、『保守と大東亜戦争』(集英社新書)、『自民党 価値とリスクのマトリクス』(スタンド・ブックス)、共著に『日本断層論』『平成論』(NHK出版新書)など。

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