「ソウルマンの死~追悼・志村けん」 輪島裕介

 志村が死んだ。という言い方は、常識的には不謹慎で敬意を欠くものだろう。しかし、毎週「志村、うしろ、うしろ」と真顔で叫んでいた1974年生まれ(そう、彼がドリフに加入した年だ)の私にとって、「コメディアン・志村けんさんが亡くなりました」といった「正しい」言い方はどうしても馴染めない。舞台や画面上の演者と、客席やお茶の間の観衆を明確に区別したうえで、観衆を興奮の渦に巻き込んでゆく芸能者に対して、あたかも個人的な知り合いのように馴れ馴れしく敬称をつけて呼ぶことはむしろ失礼であるように思える。
 舞台と客席の、そして舞台上と舞台裏の区別は、ちょうど楽屋落ちや私生活ネタ満載の「オレたちひょうきん族」が「8時だョ! 全員集合」にかわって土曜8時の覇権を奪うあたりから本格的に崩れてゆくことになる。安直に「素顔」や「舞台裏」を見せないプロの喜劇人として、ほとんど最後の世代に属する彼に対する、お茶の間から画面に向かって喝采を送っていたガキの一人からの最大限の愛と尊敬を込めて、「志村」と呼ばせていただきたい。

 音楽を中心に大衆文化を研究する私にとって、志村の最大の功績のひとつは、アメリカ黒人音楽の要素を日本の笑いの文化の中に導入したことである。
 最近、動画配信に追加された「全員集合」に熱狂しているうちの子どもたちはマイケル・ジャクソンの「スリラー」を用いたギャグがお気に入りなのだが、そうした直接的な引用にとどまらない。志村がブレイクしたきっかけである『東村山音頭』(私自身は残念ながらリアルタイムではごく微かな記憶しかない)の「イッチョメイッチョメ」や、その後の「ディスコばあちゃん」(今回、動画を漁っていて思い出した)、それに私が直撃された「ヒゲダンス」(テディ・ペンタ―グラスの”Do Me”のリフを借用)や「早口言葉」(ウィルソン・ピケットの原曲をマーヴィン・ゲイとダイアナ・ロスがカヴァーした”Don’t knock my love”を借用)のように、彼自身のギャグの根本に、アメリカ黒人音楽に由来する短いリズムの反復によるグルーヴの快楽と高揚感が核心をなしている。志村のブレイク直後に発売された『ドリフのバイのバイのバイ』(1976)でも、当時ディスコで大流行していた”Do the hustle”の掛け声や「ダーイナマーイト!」や「ウワーオ!」といったJB(ジェイムズ・ブラウン)ばりのスクリームを聴かせてくれる。

 私自身が最も印象に残っているのは、「志村けんのだいじょうぶだあ」で見た、JBの「パパのニューバッグ」”Papa's Got A Brand New Bag”を用いたコントだ。この曲がBGMとして流れるバーで男女が数組カッコつけて飲んで談笑する後ろ姿が映っている。そして例の16分音符連打のキメにあわせて全員がクルリと向き直りブルブルと痙攣する。キメの最後の長い音で硬直し、リフに戻ると何事もなかったかのようにスカシた感じに戻る、というシークエンスを数回繰り返すものだ(動画がみつからないため記憶だけで書いている。間違っていたらご容赦あれ)。音楽を身体化すること、そしてそのおかしみの肯定。厨二病真っ盛りの洋楽愛好者見習いだった私にとって、ぶん殴られたような衝撃だった。

 もちろんこれらは、志村自身がアメリカ黒人音楽の熱心な愛好者であったことによって可能になっているのだが、これは単に「実は彼には深い音楽的教養があった」といった美談に回収されるべきことでは決してない。志村のギャグ自体が抜き難くアメリカ黒人音楽的である、ということであり、翻って、おかしみや反復の快楽、そしてしばしば性的な逸脱性、といったアメリカ黒人音楽の美的質を、ある世代は志村を通じて知らずしらずのうちに教育された、とさえいえるかもしれない。少なくとも私自身はそうだったという自覚がある。僭越ながら、2015年に上梓した拙著『踊る昭和歌謡~リズムからみる大衆音楽』に「ソウルマンとしての志村けん」(p.243)という節を設けたのはそのためだ。

 歴史研究者として、やや長い時間軸で大風呂敷を広げれば、志村の「黒さ」は、占領期の米軍キャンプに起源を持つ芸能プロダクションや、さらにいえばテレビというメディア自体がヴァラエティを通じて啓蒙しようとしてきた、豊かでハイカラな「アメリカ的なもの」の「白さ」に対するカウンターとして位置づけられるのではないか、そしてそれゆえに、「低俗」として非難されるまでに日本の日常文化に根付いていったのではないか。
 「早口言葉」以前の「合唱隊」が、多くの場合、楽譜の視唱能力に基づくハーモニー中心の西洋近代的な音楽性を試す場であり、それゆえに(少なくとも当時の幼児にとっては)退屈なものだったのが、「早口言葉」のあのリフと言葉のリズム、そして志村の出番での全員の振付によって、アメリカ黒人教会を思わせる高揚感を湛えた場に変容していったことは象徴的であるように思える。さらに言えば、ボブ・ホープやマルクス兄弟(志村とジュリーによる『我輩はカモである』の鏡のコントは絶品だ)やチャップリンといった喜劇映画の歴史をサンプリング、リミックスする手付きも、ディスコ〜ヒップホップ的といえなくもないが、それはさすがに穿ち過ぎかもしれない。

 ともあれ、志村がドリフに加入する74年から「全員集合」の最後の全盛期である80年代初頭は、ディスコ文化を通じて、非白人的・非ヘテロセクシュアル的表現が世界の大衆文化を変革してゆく時期でもあった。志村の「下世話さ」に、その反響を聴き取るのは牽強付会にすぎるだろうか。ちなみに、ディスコにおける世界最初の大ヒット曲とされる「ソウル・マコッサ」の作者、マヌ・ディバンゴも志村同様、新型コロナで亡くなっている。この同時性に過剰な意味を読み込むべきではないとは思いながらも感慨を禁じえない。

 志村の罹患から死が報じられるに際して、SNSでは「志村のおかげでゴールデンタイムでおっぱいが見れた」といった発言がしばしば見られ、それに反応して、志村のコントを性的搾取やセクハラとして糾弾する発言も見られた。性的な身体や身振りの強調や、それを笑いと結びつけることも、アメリカ黒人音楽(ひいてはその影響を受けたカリブ、南米、アフリカを含む現代のアフリカ系ダンス音楽全般)の重要な特徴のひとつである。
 しかしながら、アメリカ黒人音楽の「黒さ」は生得的なものではなく歴史的に構築されたものだ。そうである以上、たとえば近年のラップ音楽に見られるような、性的に強力な男性性の肯定とコインの表裏をなすある種の女性蔑視的な表現のように、歴史的に顕著な構成要素であっても、現在の観点から批判および修正されるべきである、と考えることもできる。志村の(あるいは加藤の)下ネタには、ある種の解放の契機が大いに含まれていたと確信する(たとえば、Newsweekの記事(※)が伝えるように、戒厳令下の台湾では、建前上禁止されている「全員集合」を見ることは、自由と解放を希求する政治的抵抗と密接に結びついていたという)。その反面、とりわけ「バカ殿」以降は女性の身体を「モノ」として扱い貶める傾向も否定できない。そうした観点からの批判は当然可能であり必要だろう。しかしそれは、「全員集合」の志村を「低俗」と批判したような、既存の公序良俗に寄りかかった退屈な素朴さでなされるべきではない。

 新型コロナウイルスはわれわれから志村を奪った。「要請された自粛」という自家撞着的ななにものかによって、志村が体現していた下世話さ、猥雑さ、そして性的な身体の快楽の肯定までもがこの先奪われてしまわないことを切に願う。家にいるのに飽き飽きした子どもたちがドリフを見せろと言って騒ぎ始めた。いまや土曜8時でなくてもわれわれは画面の前に全員集合できる。その歓喜と、志村の不在を、ふたつながら嚙み締めよう。

※「台湾人だけが知る、志村けんが台湾に愛された深い理由」蔡亦竹(台湾・実践大学助理教授)(2020年4月3日配信)

プロフィール

輪島裕介(わじま・ゆうすけ)
大阪大学大学院文学研究科准教授(音楽学)。専門は大衆音楽研究、近現代大衆文化史、アフロ・ブラジル音楽研究。近年は台湾ほかアジア圏における日本ポピュラー音楽の受容などの調査研究にも力を入れている。著書に『踊る昭和歌謡~リズムからみる大衆音楽』(NHK出版新書)、『創られた「日本の心」神話~演歌をめぐる戦後大衆音楽史』(光文社新書。第33回サントリー学芸賞受賞)など。

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