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モズラーの海の家:MMTと負債と想像力のレッスン 若林恵(黒鳥社 コンテンツ・ディレクター)#8

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若林恵 | Kei Wakabayashi
黒鳥社 コンテンツ・ディレクター。1971年生まれ。『WIRED』日本版編集長(2012〜17年)を務めたのち、2018年に黒鳥社を設立。著書に『さよなら未来』『こんにちは未来』、編著に『NEXT GENERATION GOVERNMENT』『NEXT GENERATION BANK』など。『Quartz Japan』の連載〈Guidesのガイド〉を書籍化した『週刊だえん問答 コロナの迷宮』が、黒鳥社より2020年12月17日発売。

進歩的左派の奇術?

この間各所で話題になっている「MMT」なるものを、なんとなく胡散臭いものだと思ってきた。それが新奇な奇術のように感じられてならなかったのは、何のせいだったのだろう。

バーニー・サンダーズやアレクサンドラ・オカシオ・コルテスといったアメリカ民主党の「進歩派」の名前とセットで「MMT」が語られるとき、ポジティブな予感も感じる一方で、苦肉のアイデアであるかのように思えてもしまっていたのは、進歩的左派一般に対する「理想はいいんだけど、現実味がねえ.......」といった幻滅を少なからず味わってきたからだろうか。「なんか、また珍奇なことを言い出してるな」という印象を拭えなかったわけだが、といって、こちらは財政や金融といった領域はとことん昏いので、否定するも肯定するも何も「どうせわからんしな」と思っていたのが、むしろ真相に近い。「どうせわからんもの」は胡散臭く見える。それは心理的な自己防御でもあるのだろう。

とはいえ、何についても何らかの意見やコメントを持たなくてはならない圧に晒されているソーシャルメディア以降の社会の住人にふさわしく、わかりもしないくせに上から目線で何かを言えたとするなら、「そんな新しく革命的な理屈であるなら、なぜ、これまで誰も指摘してこなかったわけ?」という屁理屈だったろうか。ちょっとでも調べてみれば、それが屁理屈でしかないことはたちどころにわかったはずだが、面倒くさがりは、胡散臭いと思っている対象に、そんな労力を費やすつもりなどさらさらない残念な人たちなのである。

経済学、ざまあみろ

財政赤字の神話』という本が話題になっているのは知っていたし、担当編集者が知人であったことから、机の上に本自体は置かれてはいたのだけれど、上記の理由から読む気はなかった。ところが、ちょっとした企画でネタにしてみようと思いページをパラパラとめくってみて、たちどころに「おっ」となったのだからいい加減なものだ。これは、自分が想像していた話とは異なるかもしれない。ちょっと引き込まれた。とりわけ冒頭で、著者のステファニー・ケルトンが、「MMTの父」とされるウォーレン・モズラー(経済学者ではなく元・投資家)の自宅を訪ねるシーンは、実に面白い。財政やら金融やFRBやらIMFやらインフレやら雇用率やらの話の前に、「MMTの父」は、まず最初に「貨幣の発生」という問題を問題にしていたのだ。

貨幣というものの起源について「それまで人間は物々交換をしていたが、それだと効率が悪いので貨幣というものが編み出された」と経済学は長らく語ってきた。経済学だけではない。私たちも、貨幣というものは、そうやってヒトと社会が進化を遂げていく過程で生み出されたイノベーションだと、どこかで教え込まれていたはずだ。ところがである。ケルトンも指摘しているように、貨幣経済以前に存在したとされる「物々交換で回っている社会」があったという根拠は、実際のところ、世界のどこを探しても見出されていない。これは、主に、人類学の方面から、実に100年近く指摘されてきたことなのだそうだが、それが社会一般はおろか、経済学のなかにおいてですら重視されることはなかった。

というわけで、「そんな新しく革命的な理屈であるなら、なぜ、これまで誰も指摘してこなかったわけ?」という指摘は、あっさりと覆される。MMTの基礎となる考え方は、それこそとっくの昔に提出されていたのだ。『財政赤字の神話』は、書名に「神話」の語があることからもわかる通り、金融、財政の世界で長らく当たり前とされてきた「神話」を覆すことを焦点とした本だが、何よりもまず最初に、これまで長らく「経済学」というもの自体に根拠を与えてきた「貨幣発生」の神話を覆すところからスタートするのがイケている。それなら俄然興味が湧く。経済学という学問の足元が掬われることにことさら喜びを見出す、自分のなかの反知性主義が大いに沸き立つというものではないか。

パパ・モズラーの奸計

モズラーは、貨幣の発生をこんなやり方で説明する。彼は、娘ふたりとフロリダの海辺の家に暮らしている。快適に生活を営むためにはさまざまな仕事が必要となる。モズラーは娘ふたりに、掃除、洗濯、洗車、庭の芝刈りなどの家事を手伝ってもらうべく、「それぞれの家事をやってくれたらお父さんの名刺をあげる」と提案する。ところが、娘ふたりは一向に働く気配がない。そりゃそうだ。「お父さんの名刺」をもらったところで娘ふたりには何のメリットもない。そこで、モズラーは天才的な奸計を思いつく。

パパ・モズラーは娘ふたりにこう告げる。以下引用。

「君たちに手伝いは一切求めない。ただ毎月、パパの名刺30枚を払ってほしい。それができなければ、いろいろな特典を取り上げる。テレビもプールも使わせない。ショッピングモールにも連れていかない。天才的なひらめきだった。モズラーは自分の名刺でしか払えない『税金』を子供たちに課したのだ」

その後起きたことは想像通りだ。子供たちは、月末に支払う税金を得るべく、くるくると働きまわることとなる。その様子を見て、パパ・モズラーは、「税金は紙くずを通貨に変える」とジョークを飛ばすこととなる。

この仕組みはさらにこう続く。

1. 「税金」は紙くずを「貨幣」に変える。
2. 本来は紙くずなので、パパ・モズラーはそれをいくらでも発行することができる。
3. パパ・モズラーは自分が発行した名刺を「税金」として回収する必要はないのだが、それを子供たちから取り上げることで、翌月も彼女らが労働に勤しまざるを得なくなる。
4. かくして住み心地の良い家が、持続的に維持されることとなる。

ケルトンはこうまとめる。

「モズラーは、このエピソードを使って、主権通貨を発行する国の資金調達に関する基本原則をいくつか説明した。税金が存在する目的は、通貨への需要を生み出すことだ。政府は独自の会計単位となる通貨を定め、税金その他の債務をその通貨で支払うことを義務づけることによって、本来無価値の紙切れに価値を付与する。(中略)結局のところ、通貨を発行するのは政府が求めるのは金銭ではなく、実体のあるものだ。欲しいのは税金ではなく、私たちの時間である。国民に何かを生産させるために、政府は税金などの金銭的負荷を課す」

そういえば、『負債論』

ケルトンは、MMTという考え方は、人に税金という「債務」を課すことに貨幣というものが由来するという認識の上に立っていることを明確に明かしている。そうであるがゆえに彼女は、「貨幣が物々交換の非効率性を打破するために生まれた」とする神話からすべての人が脱却すべきであると考え、また、MMTが大々的に喧伝している「財政支出」をめぐる発想の転換を促す。「納税者が資金を提供するのではなく、政府が納税者に資金を提供するのである」というのが、彼女が本書で提起する第一の、そして議論の根本となるテーゼだ。

といったところで、すぐさま思い出すことになるのは、かの本田圭佑氏をして「座右の書」と言わしめた、800ページ6000円を超える、とある分厚い本、アナキスト人類学者の呼称で知られるデヴィッド・グレーバー(この夏に突然亡くなった。R.I.P.)の大著『負債論』だ。この本もまた、長らく私たちの思考を縛りつけてきた「物々交換説」を粉砕し、お金の起源を「負債」に求めたことで知られている。グレーバーは念入りに、この「神話」を解体し、人類史5000年のなかで、「負債=貨幣」が、実際に、どのように人間社会を形づくってきたかを解き明かしていく。

グレーバーのこの著作でMMTが言及されることはなく、ケルトンの著書のなかでグレーバーは言及されることはない。けれども、ふたつの本は、「お金」というものの「創世神話」の解体に挑む、という同じ根をもっている。けれども、それが向かう先は、驚くほど違っている。

債権者と債務者を隔てるもの

先の「パパ・モズラーの奸計」に戻ろう。このエピソードはこの上もなく明瞭に、紙くずが貨幣へと変身するマジックを明かしてはくれるのだが、この話には、どうも引っかかる部分がある。というのも、なぜ、パパ・モズラーだけが、そもそも、「プールやテレビの使用権の許諾」を自明のこととして行使することができるのか、という点だ。もちろん、これは、物事をわかりやすくするための例え話であるのだから、そんなことに拘泥するのは当たらない、とする向きもあろう。

けれども、「プールやテレビの使用権の剥奪」という条件があればこそ、子供たちに働くインセンティブが与えられ、そうであればこそ「税金」が「税金」としての効力を発揮するのであれば、この「権力」の発生とその根拠は重大なポイントだ。モズラーの機構が作動するためには、それ以前にまず、子供たちは、自明のこととして、自分たちがパパ・モズラーに対しては「債務者」であることを認識していなくてはならないということにはなるまいか。逆に、仮に子供たちが、「テレビやプールを誰が使えるのかを決めることができるのはパパじゃないわ。家族みんなよ」と、パパの提案に応えたならば、話は、つんのめってしまうことにもなろう。『負債論』が扱っているのは、まさにこの点だ。

グレーバーが、その大著のなかで、「負債」を「モラル」の問題として扱っているのは、このためだ。モズラーの比喩に即していえば、ふたりの娘が「テレビやプールはお父さんに使わせてもらっている」と感じている、その「心理的な負債」こそが、通貨発行主体である「債権者」と、税を課せられる「債務者」を分かつという見立てだ。グレーバーは「借りたお金は返さなきゃでしょ?」という、広く当たり前とされることばをめぐって、それがなぜかくも長く当たり前とされていきたのかを延々と解明していくこととなる。

一方のケルトンの議論は、近代民主主義国家の政府、およびその財政を司る議会は「国民の代表」であるという前提から、国家という債権者は、あくまでも債務者である国民のためになることをすべきはずのものだという立脚点をぶらすことはない。その前提のなかで、国家は、国家を暮らす人全員にとって「住み心地のよい海の家」をどうつくり得るのかを考察する。「国民のための経済の誕生」という本書のサブタイトルの含意はここにある。

パパ・モズラーの独裁?

しかしながら、死と税金から逃れることのできない国民国家の臣民は、グレーバーの見たてに添えば、大前提として、すべからく債務者であることに変わりはないようにも思える。そこから逃れるすべはいまのところ見当たらない。

仮にモズラー家に100人の娘がいたらどうだろう。そのなかにTVもプールの使用権にも、モールにいく権利にも「興味な〜い」と言う頼もしい女の子がいたとしたら、彼女に納税を課すためには、どのようなインセンティブが有効だろう。彼女がイヤがることを無理やりやらせることだろうか。世にも恐ろしい罰則を科することだろうか。100人の女の子に対して個別に納税のインセンティブを設計するのは途方もない手間となる。あれもダメ、これもダメという禁止のルールと、それを破ったときに発動される罰則とその執行機関としての暴力装置の増大によってしか徴税を執り行うことができなくなるのであれば、ハッピーだったはずのモズラー家は簡単に独裁国家へと暗転する。これこそが『負債論』のサブタイトル「貨幣と暴力の5000年」が意味するところにほかならない。そして、グレーバーが指摘するところ、私たちはますます、そうした世の中を生きるハメに陥っている。

おそらく、これは民主主義のあり方に深く関わる問題でもある。ケルトンの著書は、現行の財政・金融政策が格差を広げるもので、それが民主主義が正しく機能することを阻害していると厳しく批判はするものの、MMTがそれにどう寄与しうるのかについて言えば、「経済格差や民主主義の不足を解消する方法について新たな選択肢を与えてくれる」と言及するに止まっている。ケルトンも認める通りMMTは「万能薬」ではないのだ。

それでも、ケルトンが本書のなかで繰り返し提案しているMMTを用いた「就業保証」は魅力的なアイデアに見えないことはない。ローカルなコミュニティに資する公共的な「ケアエコノミー」関連の仕事を、失業者の分だけ創出することで、「活用されていない労働力を、さまざまな公共のアメニティや施設に転換できるとMMT経済学者は言う。そして、それは、これまでの「インフラ整備による土木工事がもたらす雇用」とは違って、「分散的統治の仕組みを通じてコミュニティを強くする」ことができると謳われる。

神話の破壊と新たな想像力

それは、現状においては、やや現実味の乏しいアイデアかもしれないが、私たちは、そうした可能性を想像することで、私たちの生活や経済のみならず、私たちのモラリティにいかなる変化が起こりうるかを想像してみることもできるようになるだろう。ケルトンとグレーバーは、「物々交換の神話」によって拘束されていたものとして、ある同じものを挙げている。それこそが、まさに「想像力」だ。

ケルトンは書く。

「人間の想像力には、すばらしい力がある。人類史の転換点は、特定の人物あるいは集団が、他の人々には見えなかった世界を想像したことがきっかけで起きた。すでに例を挙げたコペルニクスのように、往々にして変わったのはモノの見方だけだった。しかしひとたびその変化が起こると、新たな発見や進歩が一挙に生まれた。MMTはある意味、現代経済をこれまでとは異なる視点で俯瞰する、きわめて単純な方法にすぎない。しかし単純な視点の変化がもたらしうる重大な変化を侮ってはいけない。私たちは想像力に蓋をし、自らを身動きのとれない状態に追い込んでしまった」

一方のグレーバー。

「それでもなお、わたしには、そのような壮大な比較研究の試みこそが、いまの時代に必要とされているとおもわれた。それには二つの理由がある。第一に(そして最も明白なこととして)、本書でふれてきたように、わたしたちの集合的想像力は崩壊してきていること。あたかも、近年の技術の進歩と高まる社会的複雑性が、わたしたちの政治的、社会的、経済的可能性を拡張するどころか、縮小させていると信じるよう、わたしたちがみちびかれているかのようなのだ。それらは人びとの視野(ヴィジョン)を解き放つかわりに、いかなる種類の予見的政治(ヴィジョナリーポリティクス)をも不可能にしてきた」

私たちは、間違いなく時代の大きな転換点にあって、新しいやり方で根本から世界を眺め直す必要に迫られている。そのためにはまずもっていま、私たちは、「これこそ真実」であると信じてそのなかでぼんやりと生きてきた「神話」を明らかにし、その外へと出る必要がある。私たちはある意味、天動説を信じていた中世の人たちとなんら変わることがない。「『物々交換がお金の起源』と信じていた未開の人たちがその昔にはいたらしいよ」と、未来の人間に笑われる自分たちを思い描いてみるあたりから、まずは想像力のレッスンを始めてみることとしよう。

【NewsPicks Publishing Newsletter vol.8(2020.10.30配信)より再掲】

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