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小泉進次郎の対策会議欠席はそれほどおかしいことなのか?—— 『公〈おおやけ〉』 #4

猪瀬直樹の作家生活40年の集大成とも言える作品、『公〈おおやけ〉 日本国・意思決定のマネジメントを問う 』発売を記念して一部を無料公開いたします。
他の国にはある公への意識が、この国には見られないのはなぜなのか。明治から令和まで、日本近代の風景を縦横無尽に描く力作です。私たちNewsPicksパブリッシングは新たな読書体験を通じて、「経済と文化の両利き」を増やし、世界の変革を担っていきます。

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第Ⅰ部
新型コロナウイルスと意思決定

対策本部の意思決定

小泉進次郎の対策会議欠席はそれほどおかしいことなのか?

さてここでどうしても述べておきたいことがある。リーダーシップと意思決定についてである。

習近平国家主席のリーダーシップは独裁権力に基盤を置いている。課題解決のスピードは強権的で凄まじいが、間違った舵取りをされたらどれだけの被害が生じるか、数千万人もの犠牲者を出した毛沢東の大躍進政策や文化大革命の教訓として残されている。

では今回の新型コロナウイルスでの、日本の意思決定はどうか。武漢での感染が発生した際に、対岸の火事のような対応しかしていない。まずすぐに省庁横断のプロジェクトを立ち上げなければいけなかったはずだ。

ようやく首相をトップに「新型コロナウイルス感染症対策本部」がつくられ、閣僚と補佐官約30人がテーブルについた。会合は1月30日から2月27日までに15回開かれた。だが開催時間は1回につき10分から15分でしかない。討議の時間はない。これでは対策本部は、役人がしつらえただけの機関でしかなかったことになる。対策本部での首相発言は閣僚に向けてなのか、国民に向けてなのか曖昧だ。

安倍首相にリーダーシップがあれば、対策本部で閣僚に指示したあとに記者会見と国民へ直接語りかける演説をするはずだが、そうしていない。

これが国家の意思決定といえるだろうか。

小泉進次郎環境大臣が対策会議に1度だけ欠席(代理で環境大臣政務官が出席)した。2月16日、日曜日に開かれた地元の後援会の新年会に出ていた、と共産党議員に追及されメディアでも批判された。脇が甘い面があったのは事実だが、この日の会合はわずか11分だった。発言の機会もなく意思決定に関わりのないものであれば時間の無駄ではないかと思ってしまう、それもあながち否定できない。

全国小中高の休校要請はどのように決まったのか?

2月27日の15回目の対策会議の会合はわずか10分間、いきなり「全国全ての小学校、中学校、高等学校と特別支援学校について、来週3月2日から春休みまで、臨時休校を行うよう要請します」と首相が結論を出した。

この前段として2月14日に感染症の専門家を中心とした12人の医療関係者により構成された「新型コロナウイルス感染症対策専門家会議」が「対策本部」の下に設置された。

そして、この専門家会議は2月24日(3回目)に「これから1─2週間が(感染の)急速な拡大に進むか、収束できるかの瀬戸際」という見解を公表した。

2月26日の第14回対策本部会合では「現時点で全国一律の自粛要請を行なうものではないものの……全国的なスポーツ、文化イベント等については……今後2週間は、中止、延期又は規模の縮小等の対応を要請」する(安倍首相)に変わった。

さらに2月27日にすでに記したような全国小中高の一斉休校へとエスカレートした。

ほんとうに一斉休校が効果的だったのだろうか。満員の通勤電車のほうが感染リスクが高いのではないか。学校の休校は一斉にではなくそれぞれの地域の感染症発生の状況に応じてまだら模様にしてやってもよいはずだ。

台湾はそのように動いた。2月20日に台湾では、学級閉鎖や休校などの措置に関する基準として教員か生徒1人の感染が確認されたら学級閉鎖、2人以上が感染したら休校、としている。また独自の休校案の実施を進めようとしていた熊谷俊人千葉市長はFacebookでこう指摘した。

「共働き、一人親、両親に頼れない、障害児を抱えている保護者の方々はどうするか。その中には当然、新型コロナウイルスを含めた医療に従事する方、新型コロナウイルスで重篤になるリスクを持つ高齢者が入居する福祉施設で従事する方を始め、社会を最低限維持するために必要な職種の方々がいます」

エッセンシャルワーカーへの配慮なしの休校措置を危惧している。

学校が休校でも代わりに朝から夕方まで長時間にわたり学童保育の狭い部屋にいるほうが感染予防の観点からは、かえってリスクが高いのではないか。

「政府が今回の一斉休校を、どういう疫学的見地から判断しているか分からなくなってきました」と訴えている。

(無料公開はここまで)

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【目次】
はじめに
第Ⅰ部 新型コロナウイルスと意思決定
第Ⅱ部 作家とマーケット
第Ⅲ部 作家的感性と官僚的無感性