エヴァが「エヴァらしい」語り口を捨てた日に、僕が考えたこと。


「めちゃくちゃわかりやすく噛み砕いて作り直した旧劇」という構造に、庵野秀明の観客に対する諦観とそれまで彼らに裏切られてきた歴史を感じた、というのが僕が『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』を観て初めに抱いた感想だった。その疑念は今でも残っている。

しかし、庵野さんが若干の皮肉と悪意をシンに込めたかどうかはともかく、シンは新劇場版という企画そのものに対して極めて真摯に作られたものだったのだと、明確に思えるようになった、という話をしたい。現時点で僕がどういう考えを経て、シンを受け入れることが出来たかを記録する、備忘録にしたいというのもある。そして、もし僕と同じような疑念を抱いてしまった人がいたのなら、これを読んだことによって少しでもシンを許容できたらと、思う。


結論から言ってしまうと、新劇をファンサービス映画だよね、と言いつつ自分がその本質を理解していなかった故に、

ただ伝えたいことを伝えるために、シンはこれまでの語り口を捨てたということに僕は気づくことが出来なかった。

だからといって不格好な映画だなーという最初の印象はそれはそれとしてちゃんと残っていて、でも新劇の最後としては明確にこれで無ければいけなかったと思えるようになった。

という、なんじゃそりゃって話なんスけど、それに納得してもらうためにまずは3月8日、シンを観た直後に感じていたことを記憶の限り箇条書きにしてみます。長いス。


・とにかく、わかりやすく、がテーマ。全部話してあげる。わからないだろうけどとりあえず設定もキャラに全部喋らせてあげるから向こう10年は野暮な質問とかしないでくれ、エヴァに触れないでくれ。解放してくれ。キャラの心情もその場で全部本人が話すか、隣にいる誰かが代弁してくれます。本心では別のことを思ってるけどそれを我慢して行動してる、とかそういう難しいことは文句言われたりするし理解できない人がいたりするので、しないであげます。だから、分かった〜と言って劇場から出て帰ってね、サヨナラバイバイ!って、庵野さんが言ってるのかなって思ってしまった。

・そのためか、Q以後、心ないツッコミ的感想の餌食にされてきたミサトさん含むヴンダークルーの心情が過去作の回想まで挟んで懇切丁寧に説明されていて、作り手にここまでさせるのはなんとも…と思った。

↑(これをやらずに、勿体ぶったハッタリをかましながら視聴者を惹きつけつつ、人間ドラマを描くのがめちゃくちゃ上手いのがエヴァだったと僕は思っていて、それが大好きというのが前提としてあった、ということです。そして、それは単純にドラマを見せて理解させるという点においては興味のとっかかりが多すぎる、多面的すぎる故にエヴァは不幸だったのかもしれない、とも思います。このことに関しては人と話していてもっと整理がついたので、後半で触れます。)

・旧劇やQにおける語り口、演出、ルックが個人的に伝説すぎたために、こちらが勝手にエヴァというコンテンツに理想像を押しつけていたというエゴはあれど、基準となる絶対的なクオリティをシン劇中で示せなかった故に、演出的なミスリードを誘うシーンが所々あると思った。主に後半のメタシーンや補完が始まってからの3Dに顕著で、狙ってそのルックなのか、それともクオリティが保てなかった故なのか、狙ってシュールにしてるのかそれとも演出が失敗した結果なのか、一瞬戸惑い、ヒヤヒヤする、みたいな。結果的には意図した演出ですよと、回収されてはいるんですけどね。同じメタでも、旧劇の時の、カッコいい映像として見せるという気分とは意識的に変えてきているな、と思いつつ、ダサい…という気持ちは拭いきれなかった…。これも結局上記のわかりやすく、という命題のもと、再編された見せ方なのだろうと、思う。多分。

・ATフィールドってマクロスのピンポイントバリアみたいにコロコロして任意の箇所に集めたり出来るんスね。

・なんかめっちゃ自律制御できそうなヴンダーの同型艦に、御老体の冬月が一人で乗っけられてるのが絵面として愛おしかった。あと清川元夢さんの声に抗えない時の流れを感じた。けど、ヴンダークルーはみんな何か起きるたび、流石副司令…!と敵ながら褒めていたので、やはり冬月が有人で制御して色々頑張ってることには意味があるんだなって思った。

・ゲンドウが甲板にわざわざ設定を説明しに来てくれて凄く親切だった。うーん…、これやるのかぁ…とは思ったけど。

・脳味噌かき集めるのはともかくとして、マスク外れた後のビジュアルがダサすぎてちょっと戸惑った。

・息子に自分の旦那の名前付けるミサトさん怖。

・セリフの反復って、テクニックとしてあるのかもしれないけど、綾波のこれなに?の応酬に対して〇〇のおまじない〜と返す委員長の台詞にしつこさというかキレの悪さを感じてしまった。なんというかここだけじゃなく全体的に台詞に締まりがなく、予告でのミサトさんの語りでもそれは感じた。

・旧作ではアスカが外野で騒いでるだけのキャラになってしまった〜という話をたしか鶴巻さんが破のパンフで言ってた気がするけど、なるほど、アスカは式波シリーズっていう綾波と同じようなクローンだった。はぇ〜〜、苗字の変更は、設定面からも綾波と並列の立場ってのを補強したいっていう理由もあったんスね。ここに関しては破の時点でどの程度まで詰めて決めてあったのかは気になるところだけど、綾波シリーズ、式波シリーズってのは決めてたのかな。多分。
…と言いつつ、鶴巻さんの発言はアスカが3号機に乗る役目になった経緯に関しての言及だった気もする。今は確認する元気はないのでまたにするけど。とりあえずその意味でいっても、「なんで殴ろうとしたかわかる?」から「〜私の方が先に大人になっちゃった。」までのシンジとアスカの関係性にケリをつけたり、シンジくんが一つ成長したことを示すドラマに活きていて、良かったな〜て思った。この点ちゃんとサービス精神に乗っかることが出来た。
このキャラの再編成は、シンジくんと、それ以外っていう区別をよりフラットに示すためにも機能しているのかな。今まではどうしてもシンジと綾波が特別に見える作りだったので、シンにあたっての「わかりやすく」より以前に仕組まれていた破もしくはQ時点でされた情報整理なのかな、と思う。

・さっきの100%本心から来る行動でない場合はすぐに種明かし、の一例じゃないけど、トウジの妹がシンジに銃を向けた後、エヴァに乗るよりはマシなんで我慢して下さいよ…みたいなのを全部言ってくれた。優しい。

・ピンク髪の娘が怒るのは、Q以降の新規キャラたちを単なるモブとして終わらせたくないってことなのかな、と思いつつ冗長な気もした。けどQの頃から燻ってる人だったし…と色々考えはしたけど、設定上でしか知らない悲劇に怒ったり泣いたりしてるのは割と観客にとってはどうでもいいものとして映るんじゃないかな…て気がした。いや…でもそれを成功させてる作品も多々浮かぶし…それも違うのかな。わからん。忘れてください。あの一連の流れは、シンジの心構えを示すためのシークエンスとして割り切って観るしかないのかな。

・親子の対話が必要以上にありすぎるというか、ここに関してはハッキリと興醒めしてしまう感覚があった。結局シンジが求めていたのは親子の触れ合いだったと気づいたゲンドウはシンジに謝罪するけれど、ビジュアルとしては親殺しで終わる、互いの胸中がわかったことを単によかったよかったで済ませて終わるのではなく何か引っかかりを残してくれる旧劇が決定的に他人を意識させてくれたのに対して、このヌルい対話には嫌悪感を覚えてしまった。

・ゲンドウの若い頃の人物像が単にシンジから逆算した風に感じて、いざ事細かに見せられると、うーん…となってしまった。旧シリーズのときは、補完の最中、本来は見えるハズもない他人の心の中を「見えてしまった」ものとして描いていた。それが今回は積極的に、知りたい、見たい、という欲求に応え、本人は喋る、という構造になっていて、そんなうまい話…と醒めてしまった。これはさっきのメタ描写のスタイルの違いにも言えるかも知れない。しかし、この見せ方の変更もシンにとっては重要だったのだと、後に思うことになる。

↑あくまで旧シリーズのゲンドウとは違うとは言っても、ゲンドウって単なる根暗では無いと思ってたんスよね。旧では、下半身のだらしなさ含めて、ユイに固執しながらも利用するために赤城母娘と寝ることができて、それを相手から求められるくらいに、暗さと大胆さにギャップのある魅力的な男ではあったと思うんスよ。弱々しいわけではないけど、かといって腕力に自信がある男には見えない、しかし対外的にはやたら不敵で横柄なやつ、というか。(あんな感じなのにケンカでしょっぴかれて、平気で冬月を身元引受人に指定してくるといった描写が個人的には印象に残っていた。)根暗男が研究室の姫に見初められて女を覚えて…というだけに見えるシンだと、なんか嘘くさいな…て思ってしまったんス。いや、書いてて思ったけどもしかしてどっちも嘘くさいか?笑
まぁ、新劇で削られた設定もあるので、その辺は違う、と言えばそれまでなんですけど。

・例えば、旧シリーズで「見えてしまった」ミサトの内面はシンジやアスカに嫌悪感を持って受け取られる、しかし、補完はそういったものを受け入れることで為される。ゲンドウとの対話の中で、そういう痛々しさが描かれなかったことに、違和感があった。

・庵野さんの故郷の空撮。最後にアニメの絵の情報量とは決定的に違うものを持ってくることで単純な映像のありがたみと趣味性を示してくれるのは、ラブ&ポップの最後がフィルムだったり、カレカノのエンディングが実写だったことに通づるな、と思った。

・他人は嫌で現実は地獄、だけどLCLの海に還元された世界では他人もいないけど自分もいなくて……だから再び地獄が待っているかもしれないことを了承して、結局人は他人を求めてしまう、そしてそれは悪いことではないですよね、というオチは現実を生きてる人に訴えかけるテーマとしてとても真摯で、マジでガチで、普遍的なものだと思う。それを庵野秀明が変わらず新劇で訴えかけたかったことであるってのを明確に再確認できて嬉しかったと同時に、ダサくなった旧劇をやるくらいなら旧劇でよかったじゃん…みたいなことを感じてパンフも買わず劇場を出る……

というのが3月8日の朝、映画を観終えた直後の正直な感想でした。あと、多分この時点で、ガチでもっと好きな人は、新劇制作にあたっての『我々は再び、何を作ろうとしているのか?』の文章を思い返して、何こいつは的外れなことを言ってるんだ?死ね!とか思ってるかもしれない。まぁ、こっからは人と話したり、その庵野さんの文章を改めて読んだりで考えがもう少しまとまりました〜って話なので許してほしい。

まぁ、許されなかったところでどうでもいいんですけどね。結果として自分の考えが180度変わってシンエヴァ大好きになりました!てことではなく、これはこれでよかったのだという落とし所を見つけた、というだけの話なので。


で、


3月8日に劇場を出た後、同じく初回で観終えただろう人たちに片っ端から連絡して、感想聞かせてもらったり聞いてもらったりしました。計3人とチャットしたり通話したりしたけど、主だったやりとりとして2人に絞ります。


まず1人目はYさん。ぼくは珍しく早起きして外出などしたので帰宅早々爆睡してしまい、約束した時間から大幅に遅れてディスコードで電話をかけました。どうやって会話をまとめようか迷いましたが、一つの文章にまとめる能力は無いので、話してて気づいたり気付かされたりしたことを、これまた箇条書きでメモしていくことにします。

・新2がシトの力を解放するところ、アトムスクぽいよね。デコからギターでは無く、眼からから封印柱(?)。あのパートって鶴巻さんディレクションのセルフパロディ?

・思ってはいたけど、戦闘シーンが冗長。

・なんで最後シンジといるのがマリなんだろう?

↑これはまじで初見で気にならなかったと言ったらウソだけど、先に挙げたことが気になりすぎて、観賞し終えた時には全然頭に無かった。けど、これは2人目のMさんとのやりとりで、納得がいくことになるス。

とりあえずこんなことが、さっきの感想に加わりました。けど、Yさんも僕が思っていたようなことを漠然と感じつつも、僕よりも遥かにスッキリと「まぁ、終わったし良いんじゃない?」というところに辿り着いていました。僕はというと、自分の中で決定的なエヴァという理想像が無くなった、というか「こうでなくては」みたいな幻想から解放され、これでエヴァから卒業できる…という意味で、除霊されたような気持ちはあったのですが、なんで旧劇と同じテーマなのにこんなダサい作り方をするんだ?と変わらずモヤモヤしてました。


2人目はMさん。
Mさんもその時点では僕と同じような疑念は少なからずあったみたいで、話が弾みました。しかし、Mさんのために言っておくと、Mさんは、その疑念はたしかに拭えないけれど、それを含めてシンはこれでよかったと思う、という立場を最初から明確にされてました。

その疑念というのは、最初にも書いた「庵野秀明の観客に対する諦観とそれまで彼らに裏切られてきた歴史」故の、説明過多で、極端にわかりやすい解決編としてのシンなのではないか?ということです。

それについて自分の考えをもっと詳細に示しておきます。

まず大前提として、
庵野さんにとって、エヴァはTVと旧劇で明確に一度終わらせたものなのだと思う、というのがあります。
しかし、それは必ずしもその通りには受け入れられなかった。結末には否定的な意見もそれなりに多く、TVはスケジュールの都合で話を無理やり終わらせてる、とか最終二話のリメイクの旧劇でも話は結局終わらせられてない、とか、感想を極力見ようとしない自分にさえもぼちぼち聞こえてきたりするくらいには。

そして、そういう人たちは設定面を深読みすることによって物語を理解しようとする。たしかにそれは作品に意図して用意された楽しみ方の一つだけれど、シンジくんが現実(他人)と自分自身を受け入れることが物語の解決になるという単純なことを受け入れられない人たちがあまりに多かったのではないか?

自分は90年代当時を生きていないので、想像にすぎないけど、自分がリアルタイムで体験したQの世間的な反応を見るにあながち間違ってないんじゃないかな、と思う。

つまり、映像作品として高水準のクオリティの脚本、演出、作画でテーマを消化したからといって、必ずしも大多数にそれを理解して劇場から帰ってもらう事はできないという、旧劇以来のQでの挫折が、シンの作り方を変えたのではないか。カッコいい映画は必ずしも親切ではない、けれど、それによって理解してもらえないというのはもうやりたくない。

ここまで不格好な作りでも、そうじゃないと納得できないんでしょ?むしろその方が喜ぶでしょ?という観客への諦めと悪意があってのシンなのではないか?そして、単純に本田雄不在という理由はあったとしても、総作監錦織さん、作監に田中さんがいるという座組みに、今の大多数のアニメファンに受けやすいルックを獲得したいという意思を感じるのは確か。ビジネス的にも外すことの出来ない新劇の性質も重なり、単純に庵野監督の美意識の元作られた映画ではないのかもしれないという、気持ち。それは今までだってそうだったかもしれないけれど、それが最も極端に現れたのが完結篇であるシンだったとしたら、エゴだけど、少し寂しい。(勘違いされたくないので言っておくと、錦織さんや田中さんが素晴らしいアニメーターである、ということを否定したいわけではないですし、美意識、という言葉は絵面だけを指して言いたいわけではないス。)

そういうのを全部ひっくるめたものが、僕にとってのシンへの疑念。そして、Mさんが少なからず感じていたかもしれない疑念、です。

そんなことを一通り確認し合った翌日の3月9日、やはりモヤモヤの晴れぬ僕は、チャットで「旧劇がそれ単体で成立してた時代にはあの作品内で、再び始まる現実にエヴァなんて存在しなかったんだろうな、って思うんスよね。そもそも新劇始めてなければ蒸し返す必要のなかった物語の中でビジネスの都合上シンジくんはまたエヴァに乗って戦わせられて苦悩してるのだから、旧劇のループ後にエヴァがある世界線なのがそもそも気に食わない。」みたいな身も蓋もないことを書いたんですね。ガンダムが続編のたび新しい戦争増えたり、OVAの度無限にジオンの残党出てくるのと同じじゃないですか?みたいな。

書いた後、序のENTRY FILEで読んだ(多分)新劇制作の経緯とか、それこそ庵野さんの所信表明『我々は再び、何を作ろうとしているのか?』をぼんやり思い出しました。新劇開始時からループであることは示唆されていたことだったし、それをシン観た後で蒸し返してつつくのも野暮だ…こんなこと言わなきゃよかった…と後悔しかけた矢先

案の定、それは流石に今更でしょと、ここでカッコいい理由付けもされてるんだしさ、とMさんが、『我々は再び、何を作ろうとしているのか?』の画像を貼ったんすよね。

僕、それで久しぶりにちゃんと読んだんスよ。庵野さんの所信表明。覚えてるつもりで、都合よく部分だけ捉えていたってことに、気づかされました。

新劇って企画そのものの大前提をしっかり捉えられていなかった故に、シンの(言い方悪いけど)不格好な作りを許容できなかったんだな、と。

以下抜粋。

『「エヴァンゲリオン」という映像作品は、様々な願いで作られています。

自分の正直な気分というものをフィルムに定着させたいという願い。
アニメーション映像が持っているイメージの具現化、表現の多様さ、原始的な感情に触れる、本来の面白さを一人でも多くの人に伝えたいという願い。
疲弊する閉塞感を打破したいという願い。
現実世界で生きていく心の強さを持ち続けたい、という願い。

今一度、これらの願いを具現化したいという願い。

そのために今、我々が出来るベストな方法がエヴァンゲリオン再映画化でした。

(略)

閉じて停滞した現代には技術論ではなく、志を示すことが大切だと思います。
本来アニメーションを支えるファン層であるべき中高生のアニメ離れが加速していく中、彼らに向けた作品が必要だと感じます。
現状のアニメーションの役に少しでも立ちたいと考え、再びこのタイトル作品に触れることを決心しました。

映像制作者として、改めて気分を一新した現代版のエヴァンゲリオン世界を構築する。

(略)

「エヴァ」はくり返しの物語です。
主人公が何度も同じ目に遭いながら、ひたすら立ち上がっていく話です。
わずかでも前に進もうとする、意思の話です。
曖昧な孤独に耐え他者に触れるのが怖くても一緒にいたいと思う、覚悟の話です。
同じ物語からまた違うカタチへ変化していく4つの作品を、楽しんでいただければ幸いです。

最後に、我々の仕事はサービス業でもあります。
当然ながら、エヴァンゲリオンを知らない人たちが触れやすいよう、劇場用映画として面白さを凝縮し、世界観を再構築し、
誰もが楽しめるエンターテイメント映像を目指します。』


これ、もし僕と同じような疑念を抱いた人がいたなら、シンがこの所信表明にめちゃくちゃ真摯に向き合って作られた映画だったことに気付かされるんじゃないでしょうか。

いや、あそこまで興醒めするほど分かりやすい作りというのに、若干の悪意はあるんじゃないか?って気持ちは勿論あります。

けど、それはこの新劇始まって以来の長すぎる時間の中で庵野さんのエヴァへの気持ちが変質してしまった結果ではなく、むしろこの企画時の足場だけは変えないという決意を貫徹し守り抜いた結果だったと、それに気づかされた時、シンはこれで良かったのだと思えました。

新劇が、旧シリーズと違ったテーマを伝えるということはそもそもあり得ないことだったんです。あの時から変わらぬテーマを今どうやったら皆に受け入れてもらえるのかを追求することが新劇の存在意義だから。

庵野さんにとっての真の完結篇が旧劇だったのだとしたら、それを現代の人たちに受け入れられやすい形で料理し直すことで、あの時訴えたかった、そして受け入れられなかった、現実を生きる決意の話を今もう一度する、という「マジ」。

ここまで自分の作品が与えた影響に責任を取る人っていないのではないでしょうか?

庵野さん、もうほぼアニメに興味無いと思うんですよ。それって本人も散々触れてることかと思いますし、ラブ&ポップ以降一度アニメを離れて、また戻ってきて、シンゴジラなどでまた実写を撮りながらも、シンエヴァを作りきったのは、サービスというよりもはや責任感に近い。

間違いなく魂を削る作り方だと思いませんか?


エヴァが与えた影響は大きく、多分アニメとかラノベとかにおける語り口として間違いなくエヴァ以後、みたいな言い方はできるんじゃないかと思うんですけど、それ故に、エヴァらしさというものが、新しいエヴァであるべき新劇にとって縛りだった。そして僕自身もそこにエヴァらしさを求めてしまっていた。

だから同じテーマを持ちながらも、それを現代を生きる10代や、かつてそれを受け入れてくれなかった人達に訴えかけようとするのであれば、本家であるエヴァが既存のエヴァらしさを打ち壊して、非エヴァ的語り口でエヴァを語りなおす必要があった。エヴァらしくないエヴァというのは、本家にしかやることができず、エヴァっぽい作品がやってもそれはエヴァではないだけだから。

そして、過去を清算すると同時にこれ以後エヴァに囚われる人を生み出さないために、あのとき伝えたかったことを語弊なく伝え、観客にとってのエヴァを終わらせるという責任を果たす。そのための明瞭で極端な解決篇としてのシン。

だから、シンはあれで良かったし、ああでなくてはいけなかった。

そしてそれを間違いなく観客に伝えることが出来た時、庵野さんはこれ以後エヴァを語りなおすことをしなくて良い。

庵野さんにとっても、これまでエヴァを好きだった、そしてこれから好きになってくれるかもしれない人達にとっても、間違いなく、すべてのエヴァンゲリオンとサヨナラする、そのための総決算映画だったのだ。

そう思えるようになった、という話でした。


最後に、時系列は逆になりますが、8日時点でのMさんとのやりとりで気づいたこと、気づかされたことを、またまた箇条書きで付け加えておきます。おまけみたいなものです。

・最後にマリなのは、シンジくんにとって1番の他人で、他人を受け入れるというテーマに相応しいキャラ。そして、庵野さんの文脈から生まれたキャラではない故に庵野さんにとっても1番自分から遠い存在で、その点においても符号する。シンジがマリに手を引かれ駅舎を出るとそこは実写、ドローンのカメラが引いていくと庵野さんの故郷宇部新川の駅舎が見える。この終わりは綺麗。

・綾波と結ばれることは、本当の意味で他人をシンジくんが受け入れたいうことと=ではない、というのは綾波シリーズが無条件でシンジくんに好意を抱くという、単に母親のコピーであるということ以上に分かりやすい設定が用意されている。

・マリって自分が射止められなかった女の息子に好意を寄せてるわけで、綺麗になった世界線でシンジくんが背負うものとしては割と重いのでは 笑

・エヴァの呪縛があるとしてもマリが14歳の姿なのって、ユイの研究室と同じ研究室にいたときの年齢を考えてもズレてるし流石におかしいし、なんでだろね。
→いや、真希波も真希波シリーズってことやん!!
→いや、でも記憶引きついでるやんね…
→作中で明確な種明かしが無かった唯一の存在だけに綾波シリーズや式波シリーズとは別系統の技術を用いた試作タイプとか?
→とりあえず、綾波が個体変わると身に付けてたものが変わったのに対して、真希波は記憶を引き継いでいる記号としてユイの眼鏡を変わらずしている、というのは確かだよね。

↑もう誰かが考察とかで言ってることかもですが、これは話してて2人して盛り上がってしまった。

・カヲルが渚司令ってわかりやすい裏ボス的役柄を付けられたのは、謎が残ることが許されないシンにおいて一番許されないのは謎の少年だからでしょ!

↑Mさんが言った言葉だけどこれはクソ笑った。

・アスカが恋愛云々という感情とはまた少し別に家族がいる、もしくは所帯を持つかもしれないというイメージのもと補完されたのはよかった。

・ケンスケはポスト加持。

と、こんな所でしょうか。


あと、最初に触れた、エヴァ(特に旧シリーズ)は多面的すぎた故に不幸だったのかもしれないという話の補足。これは何が言いたかったのかというと、エヴァには、作品を好きになる糸口が豊富に用意されていて、それを上手く利用して視聴者を楽しませることが出来てしまった器用さ故に、根幹にある単純なドラマを理解してもらうことが難しくなってしまっていたのかもしれない、ということです。

富野監督がニュータイプという言葉を創造した故に味わった苦しみと、エヴァにおけるケレン味あふれる情報量の整理の巧みさや、病的な演出、謎要素含むさまざまな魅力には似たような関係性があったのではないか。

だから、余分なとっかかりを削ぐことによって確実にシンジくんのドラマの結末を伝えることがシンにおいて最重要だった。しかし、それは多面的な魅力を削ぐことでもあったために、単純に映ってしまうというのが、シンという映画の弱点で、僕は最初それを受け入れられなかった。

これは新劇のプロモーションの仕方にも言えて、Qまでの完全秘密主義のような形を(冒頭映像公開等は過去にもありましたが)シンで崩してきたのは単なる綻びではなかったとシンを観た後、確信に変わりました。コロナ禍の影響もあったかもしれませんが、それ以前からシンのプロモーションのやり方として一貫した変更はあったのだと思います。いや、違ってたらすんません。


ここまで、感想を書いてきましたが、時系列順に自分の気持ちを整理して、それが伝わるように、それでいて極力ウソが混じらないように、文章に残しておこうとするのは凄く大変でした。そして、こうやって感想を書くのは凄く恥ずかしく、これを読んだ人にいらぬ誤解を受けたり、嫌だなぁ、とか思われないか、不安になったりもしました。

けれど、忘れないように残しておきたかったし、それを誰にも読まれないのも寂しいと思いました。かといって不特定多数の人と語り合ったりしたいわけでもないと思ったのでこういう形になりました。ここまで読んでくれたなら、あざます。

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