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ときどき、きちんと嫌われる

「『キャラだから』って言ってるうちに自分が本当はどうしたいのかわかんなくなっちゃったもん。自分が本当にそうしたいときだけ、そうすべきだった」

違国日記』に出てくる、離婚したばかりのモツの言葉を思い出す。

自分が何をしたいのか、分からなくなる。
そんな誰しもが持つ、迷ったときの心理をよく表現しているように思う。

『違国日記』は、両親を交通事故で亡くした朝という少女と、少女の母親の妹・槙生との共同生活を描く。朝は中学三年に両親を亡くし、高校生活を送る中で自分が何者なのか分からず、もがき苦しんでいる。
両親という自分の根底を形作る存在を失い、グラグラと揺らぐ足元で、自分の新たな選択を迷う。やりたいことをすべきかどうか、迷っている。槙生の友人・モツが、迷える朝の背中を押す。
モツの言葉には、経験が伴う温度がある。温度のある言葉は、人を動かし、励ます力を持つ。朝は、新たな一歩を踏み出していく。

人は時折、嫌われることを過度に恐れて、環境に適応しようとしてしまう。適応しようとした結果、無理をしてしまい、自分を見失う。
他者が本当に何を求めているかを理解することなどできないのに、理解しようと必死になり、先回りしようとする。
バランスの取れているときは、「気遣いができる」「協調性がある」と言われるような態度は、行き過ぎると他者の評価に依存してしまい、身動きを取れなくしてしまう。

だから、ときどき”きちんと嫌われること”が大事なのだと思う。
自分の在り方を提示する行為こそが、自分を大切にすることであり、他者も大切に扱うことであると思う。
大事なことは、自分の在り方で互いを損なわないこと。相手への配慮をした上で、他者を否定する方法ではなく、自分を存在させること。
自分の在り方を提示することは、距離が近いほど摩擦が起きる。けれど、摩擦があるからこそ交わり、創発につながっていくのだと思う。

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