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スマホをなくしただけなのに 紙一重の世界に生きる

ある晴れた日のことだった。家族で近所の公園へ来た。何も特別なことはない。夫が子ども達を見ている間に久しぶりに本を開いた。読んでいたのは幻想的なおとぎ話ともいえる千早茜さんの本。いつもはスマホに目を向けているが、その日は違った。以前撮った写真を夫に見せたりしながらスマホをベンチに置く。ふと末っ子がトイレに行きたいとぐずり始める。私は急いで席を立ち彼女の手をとり家路に向かった。夫と長男長女は後ろから追いかけてくる。退屈で幸福な日曜の午後。家に着き買っておいたヴァニラアイスクリームを食べる。珍しく夫も一緒に。普段はやらないひらがなとカタカナのかるたをやる。勝った負けたで一喜一憂な子ども達をなだめつつテレビに誘導し、夕ご飯の支度を始める。この時だ。公園を出たのが5時頃。気づいたのは6時過ぎ。悪い予感が当たる。そう、スマホがないのだ。どこを探しても。

だんだんと募るいら立ちを隠しつつあらゆる場所を見てみるがやっぱりない。iphoneの検索機能を使ってもオンになってないので表示されない。記憶をたぐり寄せてもバッグに入れた確証はなかった。ベンチに座りながら本を読んだとき、本の下に置いたような。それから記憶はない。夕ご飯の準備もあるので夫に公園に見てもらいにいった。もしあったとしてもとうに誰かに取られているかもしれない。それでも仕方ない。AppleIDにアクセスできるしWhatsAPPやLineはパソコンでも見れるし。冷静になろうと頭をフル回転させる。全然大丈夫だ。自分がなくなったわけでも、ケガをしたわけでも詐欺や強盗にあったわけでもない。スマホをなくしただけなのだから。。それでもなぜあの時気をつけてカバンに入れなかっただろうと戻れない後悔は後から後から湧いてくるのだ。

そして、夫が帰ってきた。7時を15分程過ぎたあたり。おどけた表情でわかる。あ、あったんだ。夫曰くもといたベンチにあり周りに何か子ども達が遊んだような木くずなどがあったようだが盗まれても壊れてもいなかった。このルーヴェンという裕福なエリアでは子ども達にとって型落ちの古いiphoneなど盗むに値しないものだったかもしれない。それでもこの僥倖に心から感謝した。

ほんの一時の不注意でスマホや財布を入れ忘れて無くしてしまった人はたくさんいるだろう。ほんの一瞬の差で事故や事件に巻き込まれてしまった人も。そしてこちらの不注意とは関係なしに事故や天災、戦争など否応なしに巻き込まれ人生を壊された人もたくさんいるのだろう。それはほんの紙一重の差で起きている。そう実感した。たまたまスマホを取り戻したわたしは、そんな人生の苦い局面を知ることなくまた退屈で幸福な世界に戻った。まるでそんな不安や焦りや焦燥や絶望は存在してなかったようだ。空白の2時間。そこから戻ってこれない世界に生きている人たちがあたり前に存在していることだけは胸に刻んでおかねばと後回しになった夕飯の支度をいそぐ。


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