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ハリウッド映画「ファイナルファンタジー」を大真面目に再検証する


1、はじめに

 今日から20年前の、2001年9月15日。映画「FINAL FANTASY:The Spirits Within」、いわゆるハリウッド映画版ファイナルファンタジーが日本で公開された。
 FF好きだった小学生時代の俺はロクに作品の内容も調べず、「どうしても気になる映画があるから!」と父親にねだり本作を観に連れて行ってもらった。当時は確か「FF4」か「FF9」を遊んでいた時期。機械文明寄りの世界観を持つFF7・8・10は既に発売していたが、当時の俺は“FFといえば中世ヨーロッパ的な世界観で、剣を持った主人公が戦う物語”という固定概念を捨てきれていなかった。そのため本作の地味で暗いSF近未来描写・抽象的な脚本が受け入れられず、唖然として劇場を後にした記憶がある。FF原作もSF映画も好まない父親は俺以上に困惑したことだろう。ほろ苦い記憶だ。




 本作に対して芳しくない評価を下したのは少年時代の俺だけではなかった。世界中から飛び交う批判の声・興行面の失敗は、インターネットを使い始めたばかりの当時の俺の耳にも否応無しに入ってきた。本作の興行収入の低さが当時のスクウェアに大打撃を与えたことも、事業縮小によりアニメ「FF:U 〜ファイナルファンタジー:アンリミテッド〜」※が打ち切りに追いられたことも、本作の監督でありFFシリーズ産みの親:坂口博信氏がスクウェアを退社しFFに関わらなくなってしまったことも(直接的な原因ではないそうだが)。
 結果的に、本作の大赤字は日本のRPG文化に多大なる影響を与えてしまったことになるだろう。坂口氏は退社によって「FF12」を最後にシリーズを離れ、やがてスクウェアは「ドラゴンクエスト」の発売元であるライバル会社:エニックスと合併することになったのだから。



※アニメ「FF:U 〜ファイナルファンタジー:アンリミテッド〜」については、以前書いたこちらの記事をご参照下さい。


 さて、今日において本作は大コケしたという“事実”に尾ひれが付き、駄作であったという罵詈雑言をぶつけられている節がある。確かに巨額の赤字を叩き出している※ことは事実だが、コケた=駄作と一概に言うことはできない。
 俺の幼少期の記憶は薄れ始めている。“唖然とした”のは間違いないが、それは幼さ故の理解力不足の影響かもしれない。あれから1000本以上の映画を観てきて、審美眼はある程度養われたはずだ。本作は果たして本当に駄作と言えるのか、それとも…?その真偽を検証するために、俺は本作のDVDソフトを購入し改めて鑑賞した。


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※下に敷いてあるのは劇場鑑賞時購入したパンフレット。当時買ってくれた親父に感謝。付属の特典DVDは失くしてしまいました。





 ──結論から述べると、残念ながら本作は確かに面白くなかった。
 一方、とてつもなく酷い映画と感じたでもなく、ちゃんとした評価点も認めることができた。
 すなわち本作は名作でもなければ駄作でもない、佳作と凡作の間を行き来する評価の映画だったように思える。
 という訳で、本稿ではFFファン兼洋画ファンの立場から、評価点も問題点もひっくるめて本作の再検証を試みたい。



※Wikipediaによると、約137,000,000ドルの製作費に対し、全世界興行収入は約85,000,000ドルとのこと。


2、映画「ファイナルファンタジー」の概要

 本作は実写映像を一切用いない、フル3DCGによって制作されたアニメ映画である。FFシリーズ生みの親:ゲームクリエイターの坂口博信氏が監督を務め。「アポロ13」等のアル・ライナー氏・「アイ、ロボット」等のジェフ・ヴィンター氏(両者とも日本語版記事が存在せず)が脚本を執筆した。
 物語の内容については、ひとまず以下のあらすじをご参照頂きたい。


 西暦2065年の地球。
かつて隕石とともに現れた謎の侵略者ファントムの襲来を受け、人類に未曾有の危機が訪れていた。どんな物質も透過して進み、あらゆる武器が効かず、触れただけで命を奪う無敵の存在達に、残った人類はバリアシティに暮らしながら、生命力を兵器に転用し、わずかな抵抗を続けていた。

 そんな中、老科学者のシド女性科学者アキはファントムを無力化させる融和波動を発見、これをもつ8つの生命体を探して人類を救おうとしていた。一方で政府は最終兵器を用い、ファントムの本拠、隕石を叩いて一気に戦争を終結させ地球を守ろうと計画を進めていた。やがて知る驚くべきファントムの正体と生命波動の関係。果たして地球の運命は……。

Wikipediaより引用


 上記のように、本作は近未来の地球を舞台にしたディストピアSFファンタジーとなる。ゴブリンもチョコボも登場せず、格好良い刃物を手にしたヒロイックな主人公も現れない。近未来?地球?これがFF…?と、多くの人が首を傾げたことだろう。
 しかし本作はFFシリーズ生みの親が手掛けた作品。生みの親自身がFFと銘打ったのであれば、部外者が何と言おうと本作はFFなのである。否定のしようがない。
 そんな本作を改めて鑑賞し、個人的に“評価に値する”と思った点を以下より語っていきたい。


3、映画「ファイナルファンタジー」の評価点


・根幹設定、ストーリー
 まず、“本作には「FF7」「FF9」同様、作中世界においてガイア理論(的なもの)が実在する”というスピリチュアルな根幹設定を飲み込む必要がある。この前提をもって、本作はSF映画の皮を被ってはいるが確かに“ファンタジー”と言えるだろう。個人的にはストーリー自体も意外とシンプルで筋が通ったものと感じている。非常に抽象的で説明不足なクライマックスを除けば…。


・キャラクター
 キャラ造形やドラマパートはベタなアクション洋画的で、「午後のロードショー」の空気さえする。仲間キャラクターに関しては“戦争小隊モノ”的な楽しさ(お調子者の兵士・タフな女性隊員など)があり、物語設定が複雑な分こちらを単純化してバランスをとった…と考えれば、むしろ好ましいベタさといえる。また主人公:アキ博士が戦闘要員でない点は、今観ても新鮮かもしれない。



・楽曲
 クライマックスに流れる主題歌二曲:ララ・ファビアン氏の「The Dream Within」、そしてL'Arc-en-Cielの「Spirit dreams inside」は文句無しに良い。どちらも作品の世界観に合っている良曲だ。特に「The Dream Within」の透明感と壮大さは素晴らしく、多額の予算を掛けた超大作に相応しい楽曲と言えよう。



・クリーチャーデザイン
 故・韮沢靖氏が手掛けたモンスター“ファントム”達の造形は、氏の作家性が出ており非常に不気味でおぞましい。例えるなら“巨大な透明骨格標本といったところ。余談だが、韮沢氏デザインによる「仮面ライダーブレイド」「仮面ライダー電王」のキャラクター達の雰囲気にどことなく似ている。



 以上のように、本作には複数の評価点がある。良い部分をこれだけ語ることができるだけでも儲けものではないか。
 本当はこの部分だけで終わらせたいが、公平に再検証する以上はそうにもいかない。以下より俺が感じた、本作が抱える問題点について挙げていきたい。


4、映画「ファイナルファンタジー」の問題点





・クリーチャーの設定
 本作が発するつまらなさの最大要因。それは近未来的で難解な世界観のせいではなく、先に述べた“ファントム”があまりにも強すぎる点にあると思っている。奴らに近寄られて直接攻撃を喰らった人は即死する。しかも数が圧倒的に多い。敵味方間のパワーバランスが崩壊しているのだ。
 よってどの戦闘においても、主人公達は防戦一方を強いられる。いくら攻撃しても時間稼ぎにしかならないので、戦闘シーンが訪れるたびに話の停滞を招く始末。主人公サイドが能動的な戦いを仕掛けないことは物語のテーマと合致しているのだが、映画としては非常に単調で退屈な場面が増える結果になった…と言わざるをえない。




・キャラクターの動作
 2001年公開の映画であることを考慮すると、フルCGで描かれたキャラクターの映像自体は悪くない。しかしモーションキャプチャー技術の問題か、動きにぎこちなさを感じる場面が多々見受けられた。特にアキ博士はそれが目立つ。妙にフニャフニャした動きが多く、どうしても鑑賞時のノイズになってしまった。劇場公開の時点で発売済みの「FF8」「FF10」もモーションキャプチャーを導入していたが、本作ほどの違和感を覚えたシーンの記憶はない。アキ博士役のモーションアクターの問題なのだろうか…?




・世界観の魅せ方
 練られている世界観だと思われるだけに非常に勿体無い。基本設定の解説は無粋にも説明台詞頼りであり、舞台の“バリアシティ”に住む民間人のモブキャラ描写がほぼ無いせいで滅亡寸前に追い込まれた人類の文化レベルが判然としない。“人類がどれだけ追い込まれているか”の描写はディストピアSFの魅力の一つだが、その楽しみが全く感じられないのは大きな痛手だ。公開時期が近く、それらの要素を存分に味わえる「マトリックス」の偉大が再認識できた。


・地味な劇伴
 とにかく印象に残らない。記憶に残る曲は先に述べた主題歌二曲のみ。
 先述の通り、外面はともかく根幹設定はゲームと親和性があるのだから、いっそ劇伴もゲーム同様に植松伸夫氏を起用するべきだったと思われる。具体的にはどこかでFFシリーズを象徴する楽曲「プレリュード」或いは「FFのテーマ」のアレンジを流す等。本作が「FFっぽく感じられない」と言われがちなのは、SF色が強い世界観よりも毛色の違う劇伴の問題が大きいのではないか。




 なお、上記に挙げた評価点・問題点は、単なる俺の主観でしかない。
 その証左として、「好みではない」と先に述べた本作のSFデザイン面が、海外のゲーム「マスエフェクト」へ影響を与えたという情報がある。他の有名作品が影響を受けているのであれば、本作の文化的な価値を決して無視できない。また、劇伴を担当したエリオット・ゴールデンサール氏は、本作の翌年に公開された「フリーダ」アカデミー作曲賞を受賞しているそうだ。
 このような評価を見る限り、恥ずかしながら俺のセンス・見る目がなかっただけだけという可能性もある。なので本作の内容の是非については本稿を鵜呑みにせず、ぜひご自身の目で確かめていただきたい。


5、最後に




 以上が映画FFの再検証結果となる。悪い部分が目立つのも確かだ。しかし本作は完膚無きまでに酷い出来の駄作ではなく、そこそこ見所があるにも関わらずコケてしまった“悲劇の作品”であり、“決して葬り去るべきではないFFの歴史の一つ”だと主張したい。
 先程述べた通り、本稿に記した評価はあくまでも俺の主観である。果たして、皆様の瞳に本作はどのように映るだろうか。名作か駄作か凡作か佳作か迷作か珍作か…それは是非ともご自身でお確かめ頂きたい。少なくとも、坂口氏が思い描いていた“FFの一つのあり方”を感じ取ることはできると思われる。




 ──さて、FFのCG映像作品は本作以降も製作され続いている。
 2005年に発売された「FF7」の後日談となるCG映像作品「ファイナルファンタジー7  アドベントチルドレン」は大ヒットを記録し、“FF7ブランド”の確立に一役買った。FF7ブランドが坂口氏不在のまま存続してしまっている件については複雑な想いもあるが、本稿では触れない。
 2016年に上映された「FF15」の前日譚「キングスグレイブ ファイナルファンタジー15」は公開規模こそ小さかったが、映像・演出・物語・アクション・劇伴の全てにおいて素晴らしい完成度を誇る良作映画だった。この映画を鑑賞したことで、「FF15」本編に多大なる期待を寄せたファンも多かったことだろう。
 よって、今後もCG映像作品の製作は継続していってほしい。映画FFの反省を活かしながら、やがて「キングスグレイブ」をも上回る大傑作が生まれることを俺は願ってやまない。



 余談となるが、本作のスタッフロール終盤には“スペシャルサンクス”として沢山の旧スクウェアクリエイターの名前が記載されている。
 一例を挙げると、「サガ」等の河津秋敏氏、「ライブアライブ」等の時田貴司氏、「FFタクティクス」等の松野泰己氏、「聖剣伝説」等の石井浩一氏、「キングダムハーツ」等の野村哲也氏etc...。スクエニファンの皆様には是非、最後まで目を凝らしてご鑑賞いただきたい。
 ちなみに、先に述べた植松氏、ほか崎元仁氏、浜渦正志氏ら主要音楽スタッフの名前もあった。なら劇伴に起用してあげても良かったのに……!

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