野安の電子遊戯工房 ~テレビゲームとスポーツは、似ているようで、ちょっとだけ違う~


 日本でも、ようやくテレビゲームを"e-Sports"と位置づけ、本格的に大会やリーグ戦が始まる気配が漂ってきました。

 うん。これは、いいことです。

 とくに、複数の団体が、ゲーム大会という興行を行う準備を整え始めたのは、すごくいいことですよね。やはり娯楽産業は多様性こそが大事ですよ。このようにして複数の団体が競い合うことによって、より健全な発展が期待できると思います。




 でもね。

 このようにして、「テレビゲームを、スポーツの一種だととらえよう」という機運が高まってきている今だからこそ、わたし、ちょっと天邪鬼なことを書いておこうと思うのです。

 テレビゲームって、スポーツとは違うんだよね——ってことです。

 ともに楽しむものであり、競い合うものであり、勝敗を決するものであり——と、たしかに、その外見は、ものすごーく似ています。

 でも、テレビゲームとスポーツには、明快な相違点があるんですよ。e-Sportsが日本に普及しつつあるいま、その相違点を、きちんと認識しておくべきなんだろうな、と、わたしは思っているのです。




 まずですね。

 テレビゲームという娯楽には、ひとつの大きな特異性があるのだ——ということを、知っておきましょう。

 それは、プレイヤーに大きな実力差があっても、それらの人たちが、みんな同じゲームを楽しめてしまうことです。バリバリのゲーマーたちが「楽しかった。堪能したぜ」と感じるような作品を、7~8歳の子供たちも、同じように「楽しかった」という感想とともにプレイできちゃうんですね。

 これって、よく考えると、すごく不思議なことなんですよ。

 登山で考えてみましょう。バリバリの登山家たちが「楽しかった。登頂しがいのある山だったぜ」と感じるような山を、7~8歳の子供たちが、同じように登頂できちゃうんですよ。しかも楽しく感じながら。

 そんな山、世界のどこにもないですよね。

 でもテレビゲームの世界では、そんなゲームソフト、たくさんあるんですよ。これって、すごく不思議ですよね。




 どうして、こんな不思議なことが起きるのかといいますと。

 それは、テレビゲームが「見えないところで、さまざまな嘘をつく娯楽」だからです。

 たとえばレースゲームでは、レース中の順位が下になるほど、より有利なことが起きるように設定されていることが多いんです。「マリオカート」のように、順位が下がるほど強力なアイテムが入手できるようになる——といった、目に見える形でハンデが与えられるゲームもありますが、もっと巧みに、誰にも気づかれないよう、さりげなく下位のプレイヤーを有利にしているゲームもあります。

 たとえば、順位が下がるごとに、マシンの最高速がちょっとだけ上がったりするわけですね。こうすることで、前を走るマシンに追いつきやすくなり、接戦になるように演出されているのです。

 アーケードゲームでは、ゲームオーバー後にコインを投入する、いわゆる"連コイン"をすると、次のプレイ時には最高速が上がったりします。連続してプレイすると集中力が落ち、通常は成績が悪くなるので、その下落分をゲーム側がこっそりと補ってるんですね。

 スゴロク系のゲームでは、下位にいるプレイヤーがサイコロを振るときは、じつは「ゲームの内部処理的には、同時に3つのサイコロを振って」いて、その中から、もっともいいマスに止まれるサイコロの目を画面に表示する、なんてことやっているゲームもありますね。こうすることで、下位のプレイヤーが上位のプレイヤーに追いつきやすくなり、接戦になるよう演出されているのです。

 他にも、FPSなどの銃を使用するゲームでは、6発で弾切れになる銃は、最後の6発目の攻撃力が高く設定されてたりします。「ラスト一発で、ギリギリ倒した」という気持ちよさを、より多くのプレイヤーに感じさせるためですね。

 いまでは、プレイヤーのコントローラー操作をゲーム側が自動的に解析して、上手いプレイヤーと下手なプレイヤーで、出現させる敵の数を調整しているゲームもあるほどです。まったく同じゲームをプレイしているのに、プレイヤーによって、ゲームの難易度が自動的に切り替わっているんですね。




 とまあ、ゲームが上手くないプレイヤーや、成績が悪いプレイヤーに対して、気づかれないように「ハンデをつける」ということを、テレビゲームは当たり前のようにやっています。

 これが、テレビゲームという娯楽が持つ、最大の特異性のひとつなんですよ。

 テレビゲームというのは、ソフトを購入してくれたプレイヤーに対して、その全員が——は不可能だとしても、できるかぎり多くの人が楽しませるためなら、こうして「ゲームならではの嘘」をつくのです。それが普通のことなんです。そうすることで、ゲームの実力に関わらず、最低限、お金を払った分は楽しませる! という意味において、その全員を公平に扱うのですね。

 だからこそ、ゲームが上手い人も、さほど上手くない人も、まったく同じゲームを「楽しかったぁ」と感じるようになるのです。テレビゲームの進化の歴史というのは、じつは、こういった「プレイヤーの実力差をゲーム側で吸収して、あらゆる人にゲームを楽しませてしまうための技法を進化させてきた歴史」といってもいいかもしれません。

 



 でもね。

 これって、スポーツにおける「公平さ」とは、まったく逆の考え方なんですよ。

 スポーツでは、誰にも気づかれないようなところで、こっそりとハンデを与えるような仕組みがあってはいけません。実力差が、そのまんま結果に反映されるよう、すべての人に対して同じルールを適応するのが、スポーツにおける「公平さ」ですからね。

 ほらね。テレビゲームとスポーツって、似ているようでいて、このあたりに根本的な相違点があるんですよ。ちょっと面白いでしょ。

 ——といったところで、話が長くなってしまったので、この続きは次回に続きます。しばしお待ちを。

(2018/03/14)

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