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愛車のフロントガラスが割れた

 愛車のフロントガラスが割れた。

 よく晴れた初夏の朝10:00、片田舎のホームセンターの駐車場での出来事だった。僕は建設会社に勤めていて、その日現場で使う3m65cmという長尺の木材を、愛車であるシルバーのセレナの最後部から助手席に向けて積み込もうとしていた。しかしそれまでの経験上、その長さの木材がどう頑張ってもセレナに入らないことは、わかっていた。ギリギリ数cmが収まらず、バックドアが閉まらないのだ。ただそのとき僕は、現場への集合時間に遅れそうで、焦っていた。そのままでは入らないとなれば、ホームセンターの店員に木材のカットを頼まなければならない。そうなれば遅刻は確実だ。僕は一縷の望みをかけて、木材をフロントガラスに当たるまで斜めに押し込んで、勢いよくバックドアを閉めた。バン、という音とともに、奇跡的にドアは閉まった。いや、閉まってしまった。そんなわけがない、と我に返ってもう一度バックドアを開けると、木材の向こう端を中心にして、助手席の前方の風景がクモの巣状に歪んでいるのが見えた。

 元妻の両親から譲り受けたという少し複雑な生い立ちをもつ車だったけれど、よく走り、よく運び、とても頼もしい車だった。僕の元へやってきて1年と少しという短い間ではあったけれど、一緒にいろいろな場所へ行き、いろいろな人や物を運んだ。
 しかし走行距離を表すメーターはすでに6桁kmに達しており、燃費も決していいとは言えなかった。実は今年の秋には、僕は建設会社を辞めることを決めていた。そうなれば、もう毎朝遠くの現場まで高速道路を飛ばすことも、今回のように大きな荷物を運ぶこともなくなる。それに僕はどちらかといえばインドアな人間なので、大勢の仲間を連れてどこかへ出かけるということもめったにない。
 もはやこの愛車は、テトリスの正方形のピースのような、ただかさばるだけの鉄塊と化そうとしていた。僕は愛車との別れを覚悟し、軽自動車への乗り換えを決意した。

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 数日後、郊外の大型スーパーに併設されている大手チェーンの喫茶店で、ブレンドコーヒーにちょびちょびと口をつけながら、僕はネットで次の愛車を探していた。(フロントガラスにヒビが入ったのは幸いにも助手席の前だけだったので、引き続き僕はあの壊れかけの鉄塊に乗っていた。)
 僕はもともと車に詳しくなかったのだけれど、候補となるような中古軽自動車の価格帯は予想していたよりも数十万円高かった。当然だけれど、まだ走行距離の短い車、燃費のいい車であればあるほど、価格は高くなる。軽自動車にすれば今より維持費は下がるけれど、それを勘定に入れても、車の買い換えは僕の貯金残高には大きすぎる痛手だった。
 そうなると、今の愛車とこれからも走り続ける、という選択肢が見えてきた。フロントガラス交換の相場価格を調べてみると、最低でも7〜8万円とそれでも決して安くはなかった (この出費が自分の過失によるものだと考えると余計に高く感じる) が、車ごと買い換えるよりはよほど現実的な数字だった。それに駐車場で僕の帰りを健気に待っている愛車のことを今一度考えてみると、大抵の悪路は物ともしない安定した走りや、古きよきメカを思わせる無骨なシルバーのボディなど、それまで気にも留めてこなかった愛車の良さがいくつも浮かんできて、ああ、僕はこの車が好きなんだな、としみじみ感じた。車検もまだ1年残っていたし。

 とはいえいつヒビが広がってフロントガラスが崩れ落ちないとも限らないので、修理・交換ができる業者を探していると、一件の小さなガラス業者のWebサイトが目に留まった。大手が構えている某楽天的な市場を思わせる派手なサイトと比べると、至って地味な、個人ブログのような趣だが、そこで働く職人の人柄や、誠実な仕事ぶりが表れていて好感がもてた。せっかくなら、彼に仕事を頼みたいと思った。

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 後日、その会社まで愛車を走らせて、見積をお願いしに行った。会社といっても一軒家のガレージを作業場として使っているような佇まいで、辿り着くと奥から少し肌の焼けた、50代前半に見える男性が出てきた。挨拶を交わしたあと、彼は慣れた様子でフロントガラスの状態を確認しはじめた。サイトには「フロントガラス交換は最後の手段です!!」という、可能な限りは修理で対応するという旨の方針が書いてあったが (僕はここにも好感をもった) 、ひと目で交換が必要という診断が下された (実際ヒビは大きく広がっていたので想定通りではあった) 。さっそく見積を作ってくれるとのことで、僕はガレージ奥の事務所に案内されて少し待つことになった。
 小さな事務所には大きなホワイトボードが2枚並んでいて、マグネットで何枚もの写真が貼りつけてあった。そのほとんどが、先程の男性と、数人の外国人 (に見える人びと) が楽しげに笑っている写真だった。ホワイトボードに書かれたままの文字や、テーブルに積み上げられた本の山を見て、彼はここで日本語教室もやっていること、そしておそらくは個人経営であることがわかった。
 程なくして、彼が見積書をもって戻ってきた。ガラスの種類やUVカットなどの特殊加工が選べるらしく、ひとつひとつ丁寧に説明してくれたが、最終的には一番安い中国製のガラスをお願いした。彼はそれ以上しつこく食い下がることもなく、それで十分だと思いますと同意してくれた。保険が適用にならないかまで気にかけてくれたが、残念ながら最低限の補償しか掛けていなかったのでそれはできなかった。提示された見積金額は82,104円 (税込) とネットで調べていた相場と大きなズレはなく、そのまま一週間後に交換することを決めた。作業はわずか一日で終わるとのことだった。

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 一週間後、予定通り作業は一日で終わり、その日の夕方にはピカピカのフロントガラスを輝かせる愛車と再開することができた。非の打ち所のない、完璧な仕上がりだった。西日に煌々と照らされる愛車は、これからまた乗れることが楽しみになるような、誇らしげな顔立ちに見えた。僕はすばらしい仕事をしてくれた男性に心からお礼を言い、その仕事への対価を支払った。生まれ変わった愛車との帰り道、僕は上機嫌に欅坂46の『ガラスを割れ!』を熱唱していた。

 思えば最初は、つまらないミスから余計な出費を生んでしまった自分を呪い、愛車を買い換えることも考えていたけれど、結果的には良い職人さんと出会い、誠実で良質な仕事へのお礼としてお金を渡すことができ、なにより愛車への思い入れがより一層深まった。これからは愛車で出かけることがさらに楽しくなることだろう。そう考えれば、今回の一件も悪くない経験だったと思える。
 もっとも、会社を辞めて一時的に収入を失った僕にとって安くない買い物ではあったけれど、最近は自宅の作業環境を整え、車を使う頻度を減らすことで出費を抑えられているので大した問題ではない。

最後まで読んでいただきありがとうございます!