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新見の「悪性リンパ腫になりまして。」〜古橋敬一さんと対談〜

「ある日、いつものように文章を読んでいたら、目で追う文字の意味がまるで頭に入ってこないんですよ。ああ、これはちょっと変だな、と。違和感の原因は悪性リンパ腫でした――。」
2019年7月に悪性リンパ腫を発病した新見。その後の手術と治療で全快したものの、思考力や識字能力の低下を痛感。自らの活動の原点を忘れてしまわぬように、その初期衝動を共有した仲間たちと語り合い、再認識し、未来へのヒントを探る備忘録的対談企画。


新見永治(のわ代表)× 古橋敬一(愛知学泉短期大学講師・元港まちづくり協議会事務局)
interview:谷亜由子


出会い

古橋:新見さんとユルく語るっていい企画ですねー。でも、なんで僕が最初の対談相手に選ばれたんですか?

新見:えーと、なんでだっけ(笑)…古橋くんとの出会いもずいぶん前になるけどはっきり覚えてないことも多いし、今日はそこのところも確かめたいなと思って。

――古橋さんにとっては長年勤めた港まちづくり協議会を離れたタイミングですし、港での共通の思い出などを二人で振り返るいい機会にもなればと。

古橋:そうですねー。新見さんには港でもいろいろお世話になりましたもんね。でも出会ったのはそれよりもっと前ですよね。ビーグッドカフェ名古屋vol.0の時じゃない?

新見:やっぱりそうだよね。あれ、いつごろだっけ?

古橋:2002年か2003年ごろです。

新見:たしかその頃、瀬戸で活動してたよね。古橋くんはもう社会人だった?

古橋:いや、まだ大学院生でした。2001年にアメリカで貿易センタービルに飛行機が突っ込んだでしょ。僕、その前の年にアラスカに留学してて、あれ、日本に帰ってきてすぐだったんですよ。帰国して瀬戸でまちづくり的なことをやり始めた頃にあのテロが起きて、それがきっかけで東京でビーグッドが始まったんですよね。世界で起こっていることについて若者たちもちゃんと知ろう!っていうきっかけだったと思う。

新見:代官山で始まったんだよね。

古橋:そう。若者を集めてそこに社会問題に詳しい専門家を呼んだりしてトークイベントとかをやるんだけど、会場がめちゃくちゃお洒落な場所で。美味しいご飯もあって、アートの香りもして…とにかくスタイリッシュでカッコよかった。僕が初めて参加したのは、大阪のビーグッド。ボランティア活動で出かけた旅の途中で偶然知ったんですよね。それでめちゃめちゃ影響受けたんです。

新見:へえ、大阪でもやってたんだ。

古橋:全国展開してましたからね。そこで見たのはまさにヒッピーみたいな人たち。レインボーカラーのシャツ着て髪はドレッドで。みんな日本人なんだけどね(笑)。そんな人を見るのも初めてだったし、内心では「うわ、なんだこの人たち!」って思ってた。

新見:僕が行ったのは代官山の方だったからわりとお洒落な人たちだったな。大阪はかなりカラーが違ってたんだね。

古橋:そうだと思います。大阪は主張の強そうな人ばかりで、反戦とかフラワーチャイルドみたいな雰囲気。僕はそういうの全然知らなかったから余計にインパクトあったんですよ。当時はインターネットもダイヤル回線で繋げてた時代でしょ。時間かけてビーグッドのHPに辿り着くと「フランス革命はカフェから始まった」みたいなタイトルのコラムが出てきて、なんとなくカルチャーの香りがしてかっこよかった。まだ世間を知らない20代の僕にはなんだかよくわからない大人の世界って印象でしたけど。

新見:瀬戸でお店を開いたのもビーグッドの影響なの?

古橋:そうですね。世代を超えて人と人を繋ぐことにも興味があって、何か素敵な場を作りたいなと思ってました。自分もまだ学生だったし、社会に馴染めなかったり大人の世界に入っていくのが怖いって思っちゃう時期でしょ。社会人って言えばスーツ着て満員電車に乗って行きたくもない会社に行くみたいな典型的なイメージしかなかったところに、あ、こんな大人もいるんだって。ヒッピーはともかく、自由な風への憧れたのもあったし、そんなムーブメントを仕掛けている人たちがシンプルにカッコいいなって思ったんですよ。

――新見さんがビーグッドカフェを知ったのはどういうきっかけですか?

新見:正確には思い出せないんだけど、あれって最初はシキタさん(当時のNPOビーグッドカフェ代表理事・シキタ純氏)が立ち上げて代表やられてたでしょ。僕、その前からシキタさんの名前を知ってて…。

古橋:ビーグッドを始める前から?

新見:うん。

古橋:やっぱり~。新見さんてそういうところほんとに早いし感度がすごいよね。

新見:シキタさんのことはなんで知ったのかはっきり思い出せないけど、僕、谷崎テトラ(構成作家・音楽家)とも前からの知り合いで、その頃、名古屋でもビーグッドが始まるみたいっていうのをテトラから聞いて知ったんじゃなかったかな。

古橋:そうだったんだ。それで名古屋でもいよいよ立ち上がるってことになって、東京から代表のシキタさんを呼ばないといけないんだけど交通費をこっちで負担しなくちゃならないし、さあどうしよう、みたいなことを名古屋メンバーがカノーヴァンに集まって相談してたんですよね。僕もその場にいて、初めてそこで新見さんに出会うの。

新見:それが出会いだったんだ。あの時はほかにどんな人がいたっけ

古橋:アーティストもいれば日本一周の貧乏旅行してるヒッピーみたいな人もいた。フェアトレードの先端をいってるような人も。それぞれ活動もバックグラウンドもバラバラな面々でした。オーガニックフードのコーディネーターもいましたね。

新見:そうだったね。もう忘れかけてた(笑)。ちょうど20年前だから僕はすでに40代。43歳くらいのときかな。

古橋:じゃあ今の僕と一緒ってこと!? 今の自分があの頃の新見さんの年齢だなんて信じられない。めちゃくちゃ大人だなって思ってました。そんな大人たちの中で僕はまだ若かったし、ここは何なの?カノーヴァンてどういう意味?みたいな感じで周りの様子をうかがってた。謎の場所だなって思いながら。でもすでにその頃、カノーヴァンは新見さんが作った基地みたいな場所だったってことなんですよね。

新しい「場所」の概念を体現したカノーヴァン

新見:それまでは「新栄画廊」って名前で単にギャラリーとして貸し出したりしてたのを、展示だけじゃなくカフェもあってワークショップとかライブなんかも出来たりする場所にしたいなと思って始めたのがカノーヴァンだったんですよ。

古橋:へえ、そうなんだ。何かに影響を受けたんですか?

新見:80年代の終わり頃にポーランドの民主化運動が始まって、その様子を見ておきたいなと思ってポーランド行きの準備を始めてたら、89年末にベルリンの壁が崩壊したんです。それでベルリンにも行くことにして、せっかくだからついでに知り合いのイギリス人アーティストを頼ってイギリスにも行ったんですよ。その時に訪れたイングランド北部のニューカッスルというまちにはすでに当時そういう場所がいくつもあって、自分もそんなのをやってみたいなって思ったのがきっかけ。

古橋:いまだと「場」だとか「スペース」だとか「オルタナティブな場所」っていう概念が「カフェ」に集約されてるようなところがあるけど、おそらく当時はそういう空間を何て呼べばいいのかさえわかんなかったんだろうね。「場づくり」や「ワークショップ」なんていう言葉もまだ浸透してなかったし。

新見:そうかもしれない。

古橋:あの頃カノーヴァンにビーグッドのメンバーが集まってよく話し合いをしてたんだけど、いつも全然まとまらないんですよね(笑)。そんな中でも新見さんだけはずっとこんなふうだった。飄々としててフラットな感じで

新見:みんな仲間だし友達なんだけど名古屋のビーグッドカフェが目指す方向が僕にはよくわからなかったからですよ。これは一体どういう集まりなんだろうって思ってたし、どっぷり入り込むのを躊躇しててちょっと引き気味に見てたようなところがあったのかも。実際に活動が始まってからだって会場に行ったかどうかさえはっきり覚えてないくらいだし。

古橋:新見さんのすごいところはそんなふうに思っててもその場でバレないところだよね(笑)。だけどあの頃、僕にとって謎の空間だったカノーヴァンは、当時の新見さんがそういう思いで作ろうとしていた新しい場所だったんだっていうのを今日改めて知って、ようやく納得できた気がします。

万博前夜~閉幕後 それぞれの想い、港での再会

――新見さんはその頃の古橋さんのことを覚えていますか?

新見:もちろん覚えてますよ。何度かカノーヴァンにも来てたもんね。けどその後、あいち万博の開催が決まって、古橋くんたちがその中で店をやるということになってからはちょっと参加しにくいなって思ってた。僕ずっと万博反対って言ってたから。万博始まってからも会場には一度も行ってないし。

古橋:当時カノーヴァンに集まってた人たちって、ほとんどが万博反対派だったんじゃないかな。みんな環境系のことやってた人たちだったから。そもそもあの時はビーグッドカフェ名古屋として万博に出展したわけじゃないんですよ。環境博覧会というテーマのもと、シンボル的なパビリオンとしてメイン会場の中に地球市民村を作り、そこへ地球環境に関わるNPOやNGOを一堂に集めるっていうのは博報堂の中野民夫さんていう人の提案だったんだけど、そこでフードをやれるNPOって言ったらビーグッドしかないだろうってことで中野さんがシキタさんに持ちかけたのがきっかけでした。だから、ビーグッド東京本体への話が先で、それに協力しないかという打診が名古屋チームに来たという流れ。シキタさんは、「電通と博報堂が日本を悪くした。万博には反対だ。だけど、万博の中から『No』を唱えて持続可能性を訴えることは重要だ」ってスタンスでした。この話はあまり伝わってなかったかもしれないけど。

新見:へえ~そうだったんだ。全然知らなかった。とにかく万博については僕何も知らなくて。

――そうしてビーグッドカフェ名古屋のスタートをきっかけに出会ったお二人が、その後再会するのは港ですか?

古橋:そうですね。港でまた出会いましたね。その前に、新見さんが港に関わり始めたのっていつ頃なの?

新見:ヨーロッパの旅から帰ってきてからだから90年代の初めだったと思う。

古橋:30年前っていうとちょうど水族館ができた頃か…。名古屋港が産業港から観光港になって、古い倉庫を改装してそこに商業施設とか現代アートのギャラリーなんかが入った施設ができたりして。

新見:そうそう「Jetty(ジェティ)」。その中にCBCラジオのサテライトスタジオもあって、そこで僕、パーソナリティをやってた。『シーサイドミュージアム』っていう番組の。

古橋:港が一番輝いてた時代っすね!

新見:Jettyの中にあった「コウジオグラギャラリー」は当時の名古屋でもすごく規模が大きくて、面白いことをたくさんやってたよね。でもあれ、もともと長者町にあったんですよ。

古橋:そうなんだー。港にはその頃から続くアートの歴史やストーリーがあったから、今のまち協やアートの活動を進めることができたわけですよね。やっぱり新見さんってすごいですよ。そのカルチャー・シーンが始まる以前よりもずっと前から港に関わってるんだもん。

新見:港との関わりは、茂登山さん(名古屋芸大教授・茂登山清文さん)に呼ばれたのがきっかけだったんじゃなかったかな。古い倉庫群を使った一連のアートの取り組みが始まってて、僕もそこを使わせてもらったり手伝ったりしていたから。

古橋:その頃のことは僕も後から聞きました。当時、まちの人たちはアートだとかそういうの全然わかってなくて、ただ変な若者たちが大学の先生とやってきて何か始めてるな、ぐらいの認識だったみたい。けど昔から港って、出自がはっきりしない人や他所のまちから流れてきたような人たちを受け入れて成り立ってきたまちだから「何か面白そうなことをやってる連中がおるで手伝ってやれ」みたいな寛容な雰囲気はあったんだと思う。

新見:僕らの活動も最初は港でもずっと先端の方にあった倉庫あたりでやってたのが、だんだんと人が住んでるまちの近くへ移ってきて、古い喫茶店の跡とかを拠点にするようになるんです。

古橋:でも、やがてはそんなアートの動きも下火になっていく。JettyからはCBCも撤退してギャラリーもなくなって。

新見:そうなる前に僕がやってた番組は早々に終わったけどね。スポンサー付かなくて(笑)。

複雑な背景のなかで生まれた「まち協」

古橋:僕が港に来たのは万博が終わった後の2008年。瀬戸で一緒にまちづくりのことをしてた大学の先生に、やってみないかと声をかけてもらったのがきっかけです。新見さんと再会したのはその翌年か翌々年だったかな。新見さんは、防潮壁のプロジェクト(西築地小の六年生が卒業制作として防潮壁にアーティストと共に絵を描く取り組み)を手伝ってたんじゃなかったですか?

新見:うん、そう。港に昔「まち美委員会」ってあったでしょ。まちを良くしようっていう集まりが。僕もそこに長く出入りしてて、月一で集まってはああしようこうしようっていろいろ案を出し合うんだけど一度も実現しないんだよね。そういうのもあって僕はだんだん離れていった感じ。その頃、まちではボートピア(場外舟券売り場)ができるっていう流れが始まってたらしいんだけど、当時はまったく知らなかった。

古橋:あの頃、まち美の計画がなぜ実現しなかったかって言うと、予算がなかったからなんですよ。リーマンショックとかの影響もあって行政からも出せるお金が減っていて、港まちでも江川線の開発がすべて終わった時点で開発型まちづくりが一段落してしまった。お金があって、どうやるか一緒に考えて進められる頃はまちづくりも楽しかったんだけど、開発された地域のマネジメントとなると途端に難易度が上がるじゃないですか。本質は資金じゃないんですけど、ボートピア誘致の賛成派と反対派の議論が始まっていくのはそんな時だったんです。

新見:そうだったんだね。

古橋:まち協は特殊な成り立ちで、公営ギャンブルの補助金を使った活動です。でも、僕としてはまちに関わってみようと思ったきっかけは万博での経験が大きかった。地球市民村は博報堂の仕事ではあったけど国家予算を使って運営されていたでしょう。公金を有効に使えば企業やNPOにだって面白いことができるんだっていう原体験があったからそこに興味があったんです。僕にとっては万博がその実験版でまち協はリアル版みたいなもの。実際、僕が入る以前のまち協には、潤沢な資金を理由に大勢の人が寄ってきてたけど、公金の支出を管理する行政に噛みついちゃうようなやり方だと上手くいかない。そういうのを見ていて、本当に難しいなって思ってました。

まちとアート

新見:まち美の人たちにしてみれば自分たちの方が正統派で、ずっとまちづくりをやってきたっていう自負があったんだろうと思う。

古橋:その通りなんですよ。新見さんはそんな思いを上手に拾ってあげようとしてましたよね。そこには僕もすごく共感したし、まち協として何か手を貸すことができないかって思ったんです。

新見:防潮壁プロジェクトについては、それまでずっと続けていた武藤くん(アーティスト・プロデューサーの武藤勇さん)の手伝いを引き受けたんだけど、途中でアーティストと連絡が取れなくなったりして、もうやめたい!っていう気持ちになってたなあ(笑)。

古橋:僕もなんとかしたくてまち協の提案公募の枠組みを使って引き継いだりして。大変でしたよね(笑)。それでしばらくしてから新見さんに、そういえば古橋くん、昔、港でもらったジュークボックスがあるんだけどもらってくれない?って相談されて…。

新見:ああ、船員バー「ドリーム」!

古橋:それそれ!ちょうど僕らが「聞き書きプロジェクト」を始めた頃で、ジュークボックス?なんですかそれ?ってことで話を聞かせてもらったことからまたぐっと近くなって。そもそも聞き書きもアートプロジェクトがきっかけでしたね。さらに言えば、新見さんに吉田有里ちゃんたちを紹介されたのが、後にMAT(:MAT,Nagoyaは、名古屋の港まちをフィールドにしたアートプログラム)の活動につながっていくんですよね。

新見:ああ、そうだったね。2010年に最初のあいちトリエンナーレが開催されたのを機に、全国から優秀なキュレーターが名古屋に集まったんだけど、閉幕後にはまた全国各地へ散らばっていっちゃうでしょ。それがもったいないなって思っていて。このまま名古屋に残って活動を続けてもらう方法はないかと思って3人ぐらいを連れてまち協に行ったんですよ。

古橋:キュレーターって言われても当時の僕はそんな言葉さえ知らなくて、とりあえずまち協が作ったビジョンブックを見せたりしながら話を聞いてもらったんだけど、その時、吉田有里ちゃんだけは一言も口を開かなかったの。めちゃくちゃ観察されてるんだろうなーって思った。

新見:そうだったっけ(笑)。

古橋:でも後日、改めて有里ちゃんが一人でやって来て、今度は私のやってきたことを聞いてくださいって言いながら長者町の山車のこととかを説明してくれた。たぶん最初に来た時に港で何か面白いことができそうって感じてくれてたんだろうね。僕はアートのこととか何もわからなかったけど、そこにいる人を最大限に活かすとか、面白いことを仕掛けてちゃんと形にして見せるみたいな手法を聞いてると、僕らがやってることと同じじゃん!って思った。有里ちゃんには、違います!アートはまちづくりじゃありません!って思いっきり否定されたけど(笑)。

新見:有里ちゃんはずっとそう言い続けてるね。まちづくりとアートは別物って。有里ちゃんらしいね。ふふふ…。

古橋:彼女なりの自負があってそう言ったんだろうと思う。その後、児玉さん(元まち協スタッフ児玉美香さん)や青田くん(アーティスト・MAT nagoyaディレクター青田真也さん)を連れてきてくれて港が今みたいなことになっていくんだけど、当時は「私たちの活動はまちづくりではない」と主張する人を組織に入れるのは相当覚悟がいることでしたし、実際大変でした。言語が全然違う。それはお互い様でしたけどね。でも結局は、これってどうなるんだろう?っていう好奇心の方が勝っちゃった感じ。何だか面白そうだなと思う部分もあったし。何よりも新見さんが紹介してくれたっていうのがあったから。

面白いもの好きな「肩書きを持たない人」

――新見さんは港まちにとっての大きなターニングポイントにも関わっていたんですね。

古橋:本当にそう。僕自身、新見さんには、よくまちづくりの仕事のいろんなことを相談しましたよね。アートとまちづくりの活動を融合させることについても、新見さんには何かあるといつも話を聞いてもらってた。

新見:僕、そんなに頼りにされてるとは思ってなかった…。

古橋:うわ~、またそんな(笑)

新見:あの時もキュレーターたちを紹介はしたけど、まさか有里ちゃんだけが名古屋に残って、しかも港で活躍することになるとは思ってもみなかったから、僕としては嬉しかったですよ。まちそのものには興味がないって言ってる人がまちのことをやってるまち協で働くのも面白いと思ったし「まちに寄り添ったアート」みたいな、なんとなく美しいだけのことにはならないだろうっていう気がしたのでそれも良かった。

古橋:良かったっていうかさ、新見さんは面白がりですよね?いつでもどんなことでも面白がる。ほんと、面白いことが好きですよね。

新見:あはは…うん。そうだね。好きです。

――まちで何かが起きる、始まるっていう大きな転機に関わって、キーマン的な役割を果たしてきたのに自分でそれをアピールしないのも新見さんらしいですね。

新見:だって、そもそも僕、本当にこれといって何もしてないから。あ、それと何か物ごとが上手く行き始めたり盛り上がってきだすと必ずそこから離れるっていう性質がある。いつも「逃げていく人」っていう感じ(笑)。

古橋:だからみんな新見さんのことは知ってるのに、どこで何をしているのかわからないって思ってる人が多いのかもね。そうだ、新見さんって「肩書きを持たない人」なんだよね。

新見:いやいや。実はね、最近、名刺を作ってもらったんですよ。ちゃんと「営業品目」を書いて。

古橋:え?名刺できたの?

新見:そう。まだ誰にも渡したことがないんだけど。

古橋:じゃあ僕が一番?

新見:そうです。よろしくお願いします(名刺を渡す)。

はじめて名刺を渡す新見


やりくり下手が考える「お金」のこと

――名刺にある「営業品目」は、肩書きのない新見さんの活動にちゃんとお金に換わる価値があるということを知ってもらうための意味もあるんですね。

古橋:でも新見さん、お金のことだってちゃんと考えてる印象ありますよ。

新見:ええ、これでも一応は考えてますよ。やりくりはまったく上手くないけど(笑)。

古橋:「のわ」の前にパルルの「まち宣言」(まちに喩えて100人の住人でパルルを運営しようという試み)っていうのやったでしょ。みんなでここの運営を回していくっていうの。あれっていわゆるコミュニティビレッジ的な実験だったりするじゃないですか。でもそれ実際はめちゃくちゃ難しいこともよくわかるんですよ。だから僕は自分の生活も成り立たせながらそれをやるっていう選択はできなかったし、万博での成功体験もあったから行政のお金を正しく活かすっていう方向を選んでまち協の仕事をやってきた。でも新見さんはずっとそこに留まってそれを考え続けている。だから「上手くいくかどうかわからない、けど面白そう」っていう実験的なムーブメントの原初を生み出す人たちがみんな新見さんのことを知ってるし、一目置かれるんだろうなと思うんですよね。

新見: どうなんだろうね。僕は自分のやってることを決してすごいことだとは思ってないんだけど、やってきたことはいずれ何かしらの形になって返ってくるだろうなっていうのは常に思ってる。あ、そうだ、話が戻っちゃうんだけど、僕もあらためて古橋くんに聞いてみたいことがある。

古橋:なになに?

新見:まち協がアートと組んでまちづくりをやり始めた頃、古橋くん、アートのことなんて全然わからないって言ってたでしょ?でも今や港にとってアートは大きな軸になってるじゃない。それに古橋くんは、最近では本原さん(陶芸家・アーティストの本原令子さん)とか山下さん(ダンサー・振付師の山下残さん)みたいなかなり実験的な現代美術のアーティストたちとも一緒になってまちの中でいろいろやってるでしょう?そういうのを見てて、嬉しいなと思う反面、すごく不思議だなって思うんだけど…。

古橋:それはただ、僕がその人たちを面白いと感じてるからですよ。現代アートの人だとかそういうのまったく関係なく、人として面白ければ自然と繋がるし深まるし、続いていく。港に関わってくれたアーティストさんたちと何かやりたくなるのはそういうことなんです。

新見:アートってそれこそお金になりづらかったり、世の中の役に立たないみたいに言われたりもするけど本当は必要な存在だと思うし、価値のあるものだと思うんですよ。でもなかなか理解されないでしょ。だけど古橋くんはそこをしっかり捉えてくれているんだなって思って嬉しい。こう言うとなんだか上から目線な言い方になっちゃうのがどうも嫌なんだけど…。

古橋:わかりますよ、新見さんの言いたいこと。僕からすれば、こんな面白い人たちを放っておくのはもったいない!っていう感覚です。まち協という枠があればアーティストの価値を仕事にだってできるわけだし。

新見:港を見ていて、あ、こういうことって起きるんだ、起こせるんだ!っていう驚きもあった。

古橋:哲学者の鷲田清一さんが「アートは生きる技である」というようなことを言っていますよね。アートはお金にならないし役に立たない、どこに繋がるのかさえわからない。でもそれってまさに僕らがいまやっているこの対談だってまったく同じじゃないですか(笑)。仕事になる前のものを仕事にしていく面白さがあるし、それ以前に、大事だと感じれば仕事になってもならなくてもやりたくなる。そうしていると後から意味が見えてきたり、理解されたりするものだと思うんですよね。

新見:そうそう。まさにそうだと思います。

――新見さんの場合、自分の仕事を肩書きにして実績をアピールしないので、都合よく搾取されてしまうようなこともあると思います

古橋:え?そんなズルい人いるの?

新見:ああ、昔、カノーヴァンだった頃は「展覧会やりたいんですけどタダで使わせてくれるって聞いて来た」みたいなのはたまにね(笑)。まあ別にそんなに腹も立たないんだけど。

古橋:お金には換わってなくても、新見さんを介して起きた面白い出来事や価値のあることがきっとたくさん散らばっていて、そのままあちこちに埋もれているんだと思う。一旦それらを整理して目に見えるようにするのが大事かもしれない。新見さん自身はそんなに儲けたいとかは多分思ってなくて、ちゃんと回っていけばいいんでしょうけど。でも、面白いことが起きたら多くの人に知ってもらえた方がいいし、それがまた誰かの励みにもなるはずだから。

新見:そうですね。

現在進行形のアーリーアダプター

――こうして振り返ると、いつも時代が新見さんを追いかけてきた感じにも思えます。

古橋:そう。やっぱり新見さんはアーリーアダプターなんですよ。真っ先に仕掛けておいて、みんなが気づく頃には「じゃあね!」って言いながら次に向かってる。かといって、わざわざ「僕はいなくなるよ」みたいなことは言わないし、さりげなくフェードアウトする感じも嫌味がない。だから誰にも恨まれない。

――そういう古橋さんもついに港から抜けましたね。

古橋:僕の場合は、今回は運よく大学の仕事が舞い込んでそこに乗っかったっていう感じかな。いつまでいるの?と周囲からも言われ続けてきたし、若い人が働きながら修行できる場所だって自分でも言い続けていたのに自分が一番潔くないのがずっと課題だったんで(笑)。今だ!って感じで。でも僕の抜け方は、みんなにかなり迷惑や心配をかけたと思う。おそらく今でも…。

――やっぱり新見さんのさりげない抜け方は見事です。

新見:僕でも潔くないことはありますよ。パルルの「まち宣言」は、2012年に始めて2016年に終えるんですが、珍しくすっきりとした終え方じゃなくて強制終了させてしまったんです。それがすごく尾を引いてて、良くなかった終わり方をちゃんと良い結末にしたいっていうのは今でもずっと考えてる。

古橋:確かに、新見さんの名前を付けて何かを始めるとか宣言するって言うこと自体珍しいし、この場所に限っては新見さんはずっと逃げられないわけですもんね。

新見:そう。パルルのいまのあり様は僕にとっての一番の課題っていうか、ちゃんとしたいことの一つ。大きい病気を経験したからか、この先、自分がいなくなったら後はお好きなようにしてくださいとも思うんだけど。とはいえ、ちゃんと道筋については考えておきたいよね。

古橋:そうかあ。こういう感じって生きてる限りずーっと続くってことですよね。人生って大変だー。

新見:えらいこっちゃ(笑

古橋:だけどそれも悪くないって思えた方が…。

新見:うん。全然悪くないですよ。それと今日、僕は自分が何者でもないってことに改めて気づきました(笑)。特に若い頃は誰もがそうだと思うんだけど、何者かになりたいとか何者かでありたいって思うはずで、僕も一応はそう思ってきたつもりなんだけど、結局60年以上生きてきてまだ何者にも定まっていない。そこにコンプレックスを感じることもあったけど、今日やっと、何者でもないって案外悪くないし、そこにもっと自信をもっていこうと思いました。まあ、こんなのは誰も目指さないだろうし、人にお勧めもできないけどね(笑)

おしまい



□古橋敬一さんプロフィール


(愛知学泉短期大学講師・元港まちづくり協議会事務局)
1976年、愛知県生まれ。愛知学泉短期大学講師。博士(経営学)/
学部時代にアラスカへ留学。アラスカ原住民族の文化再生運動に触れ大きな影響を受ける。帰国後、大学院へ進学すると共に、瀬戸市中心市街地商店街の活性化まちづくり、愛知万博におけるNGO/NPO出展プロジェクト、国内および東南アジアをフィールドにするワークキャンプのコーディネーター等の多岐にわたる活動に従事。多忙かつ充実した青春時代を過ごす。2008年からは、名古屋市港区西築地エリアをフィールドにする港まちづくり協議会にて、公共事業としてのまちづくりプロジェクトに従事。「なごやのみ(ん)なとまち」をキャッチフレーズに、防災、子育て、にぎわいづくりから、音楽、デザイン、アートまで、多彩な活動に取り組み、生き方と働き方を結ぼうとする多くの人々との豊かなネットワークを築いた。2022年4月からは、これまでの経験を活かし、大学教員としての新境地に挑んでいる。人と社会とその関係に関心がある。







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