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学校教育から逸れた子どもの「学び」をどう考えるか


先日Twitterの相互フォローさんから宿題というか、問いをいただいたのでちょっと考えてた。

「精神疾患など学校教育から逸れた学生の学びの支援をどう考えるか」といったものだ。


確かに重要なテーマ。
心理士をしていると、精神疾患に限らず、人生で不測の事態が生じた際に学校教育による学びの機会が損なわれてしまうお子さんに多く出会う。

心が疲れた時、具合が悪くなった時、基本的に負荷のかかるものは課さないことが鉄則。
休むことが第一だ。
もちろん子どもによるが、多くの子どもにとって勉強は負荷が高い。

そのため、これまでの学校教育から距離を取り入院や自宅療養、不登校や部分、別室登校等の方法で本人の負荷が減る環境の調整が図られ、授業や宿題やテストは配慮され、医者やカウンセラーといった専門的なケアを受けさせられる。

もちろんこの間、授業は進み、同世代は学力を伸ばし差ができていく。
最終的にその差は「配慮」という名の様々な帳尻合わせでふんわり誤魔化され、中学生であればフリースクール、高校生であれば専門学校や低賃金労働、大学生であればハローワークや福祉サービスのラインに乗って、ふんわりと社会に包括されるよう誘われる。
ただ、その後、大人になり学校教育や福祉サービスを出た後はもちろん厳しい現実が待っている。

学歴社会故、多くの場合、スムーズに教育を受けてきた同世代との差は縮まらない。
厚労省調べでは中卒、高卒、4大卒の場合年収に200万ほど差があるし、専門、4大卒の場合も100万〜200万ほどの差がある。
精神障害者の場合も4大卒の年収と200万以上の差がある。
さらに未婚率や自殺リスクも4大卒に比べるとネガティブな差がある(ネットで検索して)。


こうして見ると、在学中に学校教育から離れる損害はとても大きい。
辛すぎる。
一度ドロップアウトした人はどうすればいいのだろうか。
「学校なんか行かなくてもいいんだ」と学校教育を享受してきた無責任な大人達は言うが、「じゃあ、代案は何かあるんですか?」と問い詰めたくなる。

じゃあどうすればいいのだろうか。
大人の責任として、ちょっと考えてみよう。



労働者になる教育、個性の教育


まず学校で提供される「教育」とは何か。
文科省の定める「教育の目的」を見てみよう。

第1条(教育の目的) 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
教育基本法制定時の規定の概要(1947)

とのことだ。
なんだかすごい。
僕は一応大学院まで教育を受けたが、一つも当てはまる気がしないのがすごい。笑


これを見てみると、どうやら「教育」の目的の一つは、国、社会のための「人材育成」という側面がある。

国家及び社会に労働力と平和を提供できる国民になるため、学校教育が定めたカリキュラムを一斉授業の中で従順に一通り学ぶ。
その結果、「学歴」という「平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民」であることのお墨付きをもらい、社会の一部として社会経済的基盤を享受する。

しかし、現代の教育はそればかりではないらしい。


少し時を戻し1980年代。
日本の教育は「いじめ」や「校内暴力」「不登校」といった問題に立て続けに直面した。
それは高度経済成長期、激変する社会構造と従来の学校経営システムのズレが生んだ歪みだった。
ここらへんはまた別の話しになるので割愛するが、河合隼雄の「物は豊かになったがこころはどうか」という問いが学校教育にも突きつけられたのだ。

そのため臨時教育審議会は学校教育制度の改革を行った。
その内容は「個性重視の原則」「生涯学習システムへの移行」「変化への対応」であった。

要は生涯学習システムで平等な教育機会を提供し、個人の能力と自由を尊重した教育を行うというものだ。
従来の人材育成教育のオルタナティブとしての、個人の個々の人生を重視する「個性の教育」という方針である。


しかし「生涯学習システム」への移行を提言したユネスコ生涯教育部門のジェルピは、現代の教育が抱える矛盾を指摘している。
それは「人材育成」と「個性の教育」は矛盾するといったものだ。
教育畑でこの二つの言説が抱える矛盾はかなり議論されたらしい。


決着がどうついたのかは分からないが、結局のところ、日本の現状を見ると歪な形でそれらは共存しているらしい。
概ね、「人材育成」システムから溢れた学生の受け皿として、「個性の教育」があるという感じだろうか。(もちろんそんなクリアカットにできるものではないが)
実際、学校の教育システムに乗れないとなると急に「今は多様な生き方がある」と自由度の高いフリースクールを紹介されるし、学校教育システムに乗れている限り、本人が「YouTuberになりたい」と言っても「とりあえず。4大まで卒業しろ」といったアドバイスが進路指導で飛んでくる。

まあ、人材育成システムから溢れてしまう子ども達の受け皿が用意され、なんとなく社会の中に抱えられるようになったのはとても喜ばしいことである。大切なことだ。


しかし問題はその先の社会にある。
「個性で飯は食えない」ということだ。
つまり人材育成のオルタナティブは用意されたものの、実質、社会に出た後のルートが不明確すぎる。



「個性」を「金」にする支援


少し視点を変えよう。
そもそも学校教育から逸れるということは損害ばかりなのだろうか。
そんなことはない。
人生の不測の事態、傷つき、歪み、失敗、欠損こそが「個性」というものを創り出す。

これはウィニコット、レイン、ユング、数々の心を考えてきた巨匠たちが指摘してきたことだ。
人間は予定調和から逸脱し、歪むからこそ、そこにその人物のユニークさ、らしさ、オリジナリティ、つまり「個性」が形成される。

そうした意味で言えば、入院にせよ不登校にせよ休学にせよ、ドロップアウトし、苦境に立たされたからこそ得る事のできる重要な学びがある。
ある意味で学校教育システムに収まっている子どもよりも、「個性の教育」機会に恵まれ取り組んでいるとも言えるだろう。
そもそも道徳のテキストで「個性」は教えることができない。
それはそれまでの環境からズレ、摩擦を起こし、孤立し、異物となり、強烈に「自己」について考える体験を無くしては発見することができないものだ。


しかし、だ。
しかし、先に述べた通り「個性で飯を食うルートが不明確すぎる」。
何故なら、社会は学校の「人材育成の教育」システムに乗ることのできた人材を優遇する。
「人材育成の教育」レールに乗っていれば、ほぼ自動運転で生業を手に入れる事ができる。

では、「人材育成の教育」システムから逸れた子どもの「学びの支援」をどう考えればいいのだろうか、冒頭の問いに戻ろう。


自論であるが、ここで支援すべきなのでは「人材育成の教育」システムに再び乗せることではなく、「個性」を「金」にする方法を支援することだ。
「個性の教育」と「社会生活」のルートを明確にしてあげることだ。


『躁鬱大学』『坂口恭平 躁鬱日記』などの著者である坂口恭平氏は、2012年から自身の携帯番号をオープンにし自殺志願者の電話相談に乗る「いのっちの電話」という取り組みを行っている。

その中でとある男子高校生が自殺を考えて電話をかけてきた。
坂口氏はそれに対して、その気持ちを詩にするようアドバイスを行い、「男子高校生が書いた詩」としてオンライン販売を行ったのだ。
結果、詩は売れ、男子高生は現在も生きている。


もちろん、坂口恭平というブランド力あってこその結果ではあるし、この男子高生が学校教育から逸れていたかは分からないが、支援の方向性は概ねこういうことなのだろうと思う。

学校教育システムから逸れた子どもを「人材育成の教育」システムに再び乗せることはとても難しい。ブランクを取り戻し、同世代との差を縮めるには相当な負荷がかかる。
もちろん本人の選択で、後で取り戻すことは可能だが、一度逸れてしまったのなら、まずは逸れた道で生きる方法を模索した方がいい。
遭難したら、むやみやたらに帰ろうとはせず、まずはその場に野営地を作るのが鉄則だ。

幸い、人材育成の教育システムから逸れたおかげで「個性」は爆発し、ユニークさがあふれ出している。
というか、学校教育から離れるほど心に余裕のない時は、自分が本当に興味を持ち、モチベーションを維持できるものしか行えない。

先の男子高生を例にするならば、爆発する「個性」で社会をサバイブする術をアドバイスするといった支援だった。
人は死にたいほど思い悩むとき、「死ぬ理由」「生きる理由」「死とは」「生とは」様々な哲学的問いに頭が占められ、その人の個別的な価値観が創造される。
そこに「詩」という表現媒体と、それを販売し生業にするルートを形作ったと言えるだろう。


こうした支援は臨床の中でも行ったりする。
ゲーム三昧の不登校の子供とゲームで金を稼ぐ方法を一緒に探したり、
音楽に興味のある引きこもり青年と音楽作成ソフトを一緒にいじりYouTubeにあげてみたり、
アニメ好きの子に漫画を描かせTwitter上で同人誌販売をしてみたり。


「人材育成の教育」とは異なり、「個性の教育」レールでは生業を自ら作り出していかなければならない(もちろん、現実はここまでクリアカットにはできないため「そうした面が大きい」と言っておこう)。

そこを支援することが重要なのだと思う。

「学びの支援」といった時、どうしても国数英やら、学校のカリキュラムをどうするかといったことを大人は考えてしまう。
「人材育成の教育」という自動運転ルートに如何に戻すかを考える。
もちろん、事態が改善し、本人もモチベーションを持ち、差を埋めることが可能な場合はそれがいい。何事も楽な方がいい。

ただ、そうはいかない時、もしくは自動運転ルートに戻る余裕がない時、オルタナティブな生き方のルートをどう開拓するか、その「学び」を「支援」していった方がいいだろう。
結果的に運よく自動運転ルートに戻れたとしても、オルタナティブな生き方の切り札が増えるだけで、デメリットはない。
もっと言えば、「個性で飯を食うルート」というのは、個別性が高すぎて一斉授業のような学校教育では十分に教える事ができない。
だからこそ、学校教育から離れた個別的な支援の中が格好の教育チャンスでもある。


そうした「学びの支援」が重要なんではないだろうか。
そんなことを思ったりする。

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