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読書ノート#3 太田啓子「これからの男の子たちへ」

太田啓子と言えば、アニメ絵等のフェミニストが気にいらないポスター等を燃やして、後は鉄砲玉ツイフェミに戦わせ、自分はその後言及しないでサッと深海の底に潜る、ツイフェミのラスボスで理論的支柱という認識を持っていた。

そんな太田啓子にはふたりの息子がいて、子育てエッセイ的な本を出したという。太田啓子はシングルマザーで、息子ふたりはフェミニズムのシャワー(呪詛)を浴びながら、父親によって解毒されることもなく純粋培養されていくのかと思うと、これは公開虐待ではないかと思い、怖いもの見たさで定価で買った。

結論から言う。
あれ、太田啓子って案外まとも‥?

もちろん僕はいつも心に鎌倉武士のアンチフェミニストであるので、太田啓子の認識の大部分に賛成はしない。けれども、実態に即しているかはともかく「モテることにそれほど価値はない、人生の幸せは別のところにある」と息子に言うのは将来救いになるかもしれないし、母性愛に溢れたいい言葉だなと思った。

まあチラホラいいことも言っているのだけれど、息子がいるとはいえ大人の男の現実をわかってないなと思うところが多々あることはある。けれども対談のゲストでヤバいのが2名いて、こいつらと比べたら太田啓子は他人の嗜好や価値観はどんなものであろうと一応は留保する態度は崩さないので、公平ではあるのかなと思う。

さて、メモを取りながら読んでいたのだけれど、40箇所以上にわたってしまった。もちろんほとんどは反対意見であるが、最近これだけ真面目に本を読んだことはない。しかも定価で買ったので、太田啓子は僕が書いた、女子小学生がセックスしまくるエロ小説も買いなさい。メモは整理せず、各章で引用に対して意見をただ並べていくだけ。メモだから引用部分と関係ないように見えたり、行間読みすぎなところもある。頭あんまり良くないんでね‥

はじめに

「男脳・女脳」などという言葉を使って、男女の行動や考え方の違いを脳の性差で説明しようとすることは、科学的根拠に欠けていると思います。

大規模社会実験のキブツ運動の結果を知らないのだろうか。松山大学の入江重吉氏の論文「ダーウィン『人間の由来』におけるリアリズムとユートピア論」でキブツ運動の結果についてかなり割いている部分があるが、文化的影響を排除する処置をした上で行動に性差が出るのは、脳以外の何の要因があるというのか。解剖学的には同じ器官でも、出力される行動が異なるなら、それは単にまだ解明されていないということだろう。

むしろ、息子たちを見ていて感じるのは、周囲の大人やメディアの情報を通じて「学び」、外から「刷り込まれ」、彼らの内面に無意識に根差すようになるものが、かなり大きいのではないかということです。

僕の息子ふたりは何も教えなくても仮面ライダーを好み、プリキュアを極端に恥ずかしがる。それぞれの番組は男女の特性に合わせてターゲティングされており、その逆ではない。このことは以前書いた。

第1章 子育ての中で日々感じるジェンダーバイアス

「ごめんちょっと待って、今『男なら』って聞こえたけど、そういうのお母さん気になるんだ」と言ったら、長男から「うんうんわかってるよ、何かいいことをするのに男だからとか女だからとか関係ないよってことでしょ、わかってるから見てるの邪魔しないで」と言われました。

序盤でこのくだりが出てきてホッとした。長男はちゃんと親をあやす方法を心得ており、社会実験のモルモットにはなっていない。中学生になったら「人が好きで見てるモンにガタガタうるせえんだよ、失せろババア」ぐらい言うようになると思う。

「有害な男らしさ」

一応「有害な男らしさ」とは単に男らしさのひとつの側面であることは理解しているように見える。

第2章 男の子にかけられる呪い

もちろん、近年では女性でも過労死・過労自殺に追い込まれる例は少なくありません(電通の女性社員やNHKの女性局員は記憶に新しいところです)。でも、傾向としてはやはり圧倒的に男性が多数です。

女が死ぬと大騒ぎするが、男の死は日常。

仲間集団から疎外感を覚えたり、からかわれたりするのは誰でも嫌で、勇気がいることでしょう。でもその結果、「排除されたくない」という思いでホモソーシャルな結びつきに組み込まれた男の子たちが苦しむ姿は見たくありません。

企業も含め組織というのは元々ホモソーシャルな絆がその根本にあり、それを否定することは今享受しているあらゆるサービスを無にするに等しい。いいとこ取りはできない。「排除されたくない」という思いであっても組織を維持する原動力になっている。

子供が自分の希望として大人に伝える内容が、すでに社会の中にある固定観念に影響されたものにも関わらず、「児童の主体性」を尊重する教育の中ではそれも「子供の主体的意思」と捉えられ、受容されてしまう傾向があるということですね。

これは子供の主体性の結果が必ずしも自分の都合の良いものだけではないという、当然のことであり、自分(と仲間たち)だけが特定の価値観を子供に押しつける権利があるというのは誤りである。まあ、押しつけにならないように、というのは強調しているが、押しつけたくてウズウズしているのを感じる。

たとえば、私が担当する離婚事案では、「自分に口答えした」という理由で妻を殴ったり、「誰のおかげで生活できてるんだ」「文句があるなら俺と同じだけ稼いでこい」などと暴言を吐く男性をしばしば見ます。口答えされてかっとなるというのは相手を下に見ているからです。収入を得ていることで相手より上にいると知らしめようとするのは、上に見られたいという欲求。こういう男性は、妻と対等の関係性では我慢できず、常に上にいると感じたくて仕方がないのですね。

男のことを判ってない第1号。

僕は妻と喧嘩になるとこの暴言とやらをよく使うのだが、なぜダメなのか全く判らない。同僚に聞いたことがあるが「そんなに奥さん追い込んで楽しい?」と言われたがピンとこない。この言葉で追い込まれるということは事実関係は正しい、反論できないと言うことではないか。

そもそもこの言葉で被害者感情をこじらせる前に、妻の方に夫の稼ぎに対する感謝と尊敬はあったか。子供に感謝と尊敬をきちんと教えていたか。それをないがしろにしているから、あるいはきちんと伝わっていないから、夫の不満が募るのではないか。

少なくとも僕は、朝見送る、最初に風呂に入るぐらいのささやかな庇護者としての特権があれば、父として夫としての権威が脅かされていないと感じる欲のない人間なのだが。それさえ面倒なのか。

そして、口答えは自分の権威に対する挑戦なので、全力で受けて立たなくてはならない。ましてや子供の前なら。必ずしも腕力に頼らなくてもいいが。

もっと本質的に言えば、庇護者と被庇護者は対等でも平等でもない。そこを根本的に勘違いしている。庇護者と被庇護者が平等で対等なら、庇護者の不満は募るばかりだろう。そこを押さえつけられる、我慢させられるものであるという考えの蔓延が、夫をATM呼ばわりする妻を生む。

夫は稼いで当たり前ではなく、生活費は天から降ってこない。感謝と尊敬を受けるに値する大業である。それを家父長主義だとか言って男の権威を消滅させようとするフェミニズムは邪悪そのものである。

全部書くと、とりとめもなくこれだけで終わってしまいそうなので、このへんでやめる。

可能な限り若いーむしろ幼いうちから、性差別的な価値観を持たせないための教育をすることに、もっと力を注ぐべきではないでしょうか。

洗脳。

当時の私は「バレンタインデーというのは、男子にとっては自分の『モテ度合い』を露骨に可視化する、残酷なイベントなんだな」と感じ、自分だってその立場に置かれたら嫌だろうな‥とそれまで考えたことのなかった男子の心中を想像して反省したものです。

いい人じゃん。

(ゲストの清田隆之は)「男の子はホメられるのが好き」というより「ホメられないと機嫌を損ねる」という方が実態に近い、これは男性が自尊感情を自分で供給できないことのあらわれではないか、と喝破しています。

自尊感情を自分で供給できないのは、女と違って存在価値が身体に付属してはいないので、男の価値は社会的価値によって規定されるためである。家柄、収入、学歴等々、自分が生まれ持ったもの以外の価値で決められる。

なので、外部から(社会から)の自尊感情を高める働きかけに最も価値があり、内発的な自尊感情は、他人からは自惚れ、自己満足などと呼ばれる。

対談「清田隆之」

ゲストの中では最もまともだけれども、男が男社会で生きることの意味を言語化できる人と対談した方がいいのでは。噛み合わないかもしれないが。()は筆者追記。

「釣った魚に餌をやらない男」(清田)

女は男を決めた瞬間から、選ぶ側だった特権を失う。別の言葉なら「お客様ではなくなる」。そのことは自覚しておいた方がよい。特別から平等になったということ。

負けを認めたら何が困るのか、自分が弱いと何が怖いのか、何が不安なのか。そういう自分の感情の揺れを見つめてむきあうというのは大事な作業だと思いますが、インチキ自己肯定をしてると、その向き合いをせずに済んでしまうわけですね。自分に対するごまかしみたいなものですが、重要なところでこれをやってしまうのは危ういですね。(太田)

同意。しかし、男特有の話でもない。己を省みない女はいくらでもいる。

配偶者を恋人を対等なパートナーとしてではなく、自分の成功に付随する財貨のように捉えるという。そういう人は、パートナーを他人に自慢したりして一見愛しているように見えるんだけど、大事にはしてないですよね。(太田)

夫の地位立場で、自己肯定や他人にマウントを取る女も非常に多い。社宅で夫の役職が妻の序列になっているのは昔からの常識であるし、SNSでもプロフィールに「医者の妻」「会社役員の妻」とこれみよがしに書いている女もよく見かける。女同士の彼氏自慢など最たるものだろう。

全男性がそういう(非モテで悩む)苦しい罠に落ちないためにはどんなことが必要なのかな……と真剣に考えてしまう。(太田)

大正までのように年上女性による集団性教育実習、戦前のように先輩に遊郭で自分に合った相手を世話してもらうなどの文化が消滅したことにより、女体を知らないあぶれオスが増えた。また、戦後の民法改定により結婚に親等の許可が不要になったことにより恋愛至上主義が進展し、己の魅力に依らず金で性欲を満たすことを恥と感じる男が増えた。そのことは共同体の継続を個人に自由意志に任せるという非常に危うい状態を生むと同時に、恋愛弱者の自己無能感や共同体への非協力的な態度を醸成する。

第3章 セックスする前に男子に知っておいてほしいこと

性に関する誤った都市伝説や、バイアスのかかったアダルトコンテンツしか情報源がないと、子どもは自分や他者を危険にさらすような性行動を取ってしまいかねません。

夜這いと遊郭で実地に覚えていた時代の方が、現実的な性知識を得られていた。

日本の子供にも包括的性教育を

海外の「進んだ」性教育を取り上げているが、海外は性犯罪の件数が文字通り桁外れに多いので、そのような教育が必要なのだ。日本の治安ではそこまでの緊急性はない。

「自分はいま暴力シーンを楽しんでいるのだ」と自覚してAVを視聴している男性はどれほどいるでしょう。

コナンを見て「自分はいま殺人事件や強盗事件を楽しんでいるのだ」と自覚する人はいるのか、と考えてみればこの問い自体がナンセンス。娯楽の価値を無視した空論。

仮に女の子が「避妊しなくていい」と言ったとしても、男の子は絶対、コンドームを着けて避妊しなくてはいけません。もしその女性が妊娠・出産した場合には、一緒に子育てをするというくらいの関係性や、経済力など将来への見通しがない限り。

そういうのを「甲斐性」と言っていた。ひるがえって、女体に縁のない男には「それ以前の話なんだよ!」とまったく響かないだろうなと思う。また、女側にとってみても「絶対避妊するからセックスしたい」というブサイクと「中出しさせろよ」というイケメンなら、中出しイケメンを選ぶ女が多いように見える。フェミニストは「中出しイケメンより避妊ブサイクを選べ」と女を啓蒙していこう。

もし彼に避妊を求めるのが怖いなら、それは彼と対等な関係ではないということに気づかなくてはいけない、ということも。

優秀なオスを求めるメスは「対等なオス」になど魅力を感じない。優秀なオスは、どんな手を使ってでも引き留めたい。「対等」などと言うのは、オスを手に入れた後に自分が主導権を握るための方便に過ぎない。

「対談「星野俊樹」

ヤバいゲスト1号。これで教師というのだから恐ろしい。

小さいうちから男の子は間違った「強さ」像を内面化してるんですよね。(星野)

「間違い」ではない。間違いと押しつける大人がいるだけ。初っぱなから自分の正義に疑義を抱かないヤバさを感じる。

(学級通信で)「保護者の皆さんからジェンダーバイアスを強化するような言葉がけをされている子が多いようです。今後、皆さんのそういう発言にお子さんが意義を唱えることもあるかもしれませんが、どうか怒らず、ご自身の言動を冷静に振り返って、お子さんのジェンダー平等への意識の高まりを褒めてあげてください」(星野)

息子たちがこんな学級通信をもらってきたら、たとえモンペと言われようと仕事を休んで学校へすっ飛んでいく。「特定の思想を子供に押しつける教師がいる!」と全力で攻撃するだろう。息子たちには「先生の言うことは聞きなさい」と教えているが、残念ながら「ただし星野先生の言うことは聞くな」と教えなくてはならない。というか「ご自身の言動を冷静に振り返って」とか何様のつもりだ。

(息子たちに)「そんな競争で勝って何の意味があるのか、ちょっと考えてみて?」と言葉をかけたりしますが、響いている実感はあまりなく……(太田)

男のことを判ってない2号。

女(他人)から見て意味がなくても、勝つこと自体に価値がある。

第4章 セクハラ・性暴力について男子にどう教える?

「女性を支配することが『男らしさ』の証」

母親による子供への虐待を見ても判るとおり、女が支配欲に淫することがないとは言わせないが、性的支配というものがピンとこない。イカせたり感じさせたりすると嬉しく感じるのが性的支配ということだろうか。一方で、女はイカせられない早漏や短小を蔑む。僕がエビデンスである。

幸いながら妻は満足しているようだが、女をイカせられないことは男性的魅力に欠けるとみなされ、それが理由の浮気も多い。すでに枯れた夫婦ならともかく、女は自分を性的に満足させられない男を愛せるのか。女は性的満足を与えられない男でも愛するべきという、女の意識改革をフェミニストの側から言っていかないといけないのではないか。

第5章 カンチガイを生む表現を考える

もしも、男性異性愛者の性欲だけが特権的な地位を得ているのでないなら、駅の売店に、セクシーな男性の裸体が載った女性向けポルノ雑誌や、レズビアンやゲイの人向けの雑誌も並んでいるはずです。

単に駅の売店での購買層の話では。書店ではそちら向けの本も並んでいる。

嫌がる表情を「エロい」と描くことの危うさ

嫌がろうが悦んでいようがエロいものはエロい。危うさとは書きながら、しぶしぶ性癖の多様性は認めているのは良い。

内心で子どもに性欲を抱くのは自由でも、それを外に出す行為は、仮に現実の被害者がいなくても、無制限に許されるものではありません。

「無制限に」と留保をつけているのを、姑息ではなく良識だとは思う。殺人に置き換えてみれば「ぶっ殺すぞ!」と叫んでいると、ただそれだけで通報されるのは理解できる。

息子たちが見ているアニメでそういうキャラ(オネエ系)が登場し、息子たちが笑っていると、私は笑わずに真顔で「ママは全然おもしろいと思わない。失礼な描き方だと思う」と伝えることにしています。

息子たちはつまんねえママだなとしか思わないだろう。「僕は面白いんだから邪魔しないで」と言われるのが関の山。

ドラえもんで、のび太君が、しずかちゃんの入浴シーンやスカートの中を偶然見たり、見えそうになったりして「ラッキー」と喜ぶ場面があります。

記憶にない。タイトルを出せ。

私は、現状では、通常のテレビ番組や子供向けとされるコンテンツであれば、基本的に制限はしていません。が、一緒に見て、気になるシーンがあればそれがなぜ気になるのかをかならず伝えています。それによって子どもが自分自身で考える力、リテラシーをつけさせるしかないと思っています。

頭ごなしに押さえつけないのは、一応偉い。

少年マンガ雑誌などでもそうした(萌え絵的デフォルメ)描き方が普通に見られることは、海外から見るとかなり異様なことなのではないかと思います。

よそはよそ。文化的志向も国民性も受容されてきた歴史も何もかもが違う。文化的価値観を海外視点で批判することに何の価値があるのか。

「お色気」を入れたいのであれば、女の子が恥ずかしがったり嫌がったりしておらず、主体的に性的接触に関心をもったり快楽を感じている場面や、主体的に裸になるような描写でもいいのでは? と素朴に思います。しずかちゃんが自分から性に関心をもつのではなぜだめなのでしょうか。

そのへんのエロ漫画を読んでみれば、女が主体的に性的接触に関心をもったり快楽を感じている場面や、主体的に裸になる描写など、最初の1冊目で出てくるだろう。

でも、自分から性に関心をもつしずかちゃんは、想像すると極めてシコリティが高い。家の玄関の前でのび太の股間を撫でながら「今日、ひとりで留守番なの……」とささやいたり、どこでもドアが風呂場に現れたときに「一緒に入らない?」と挑発的な視線を向けるしずかちゃんはぜひ見てみたい。

というか18禁だ。息子たちに「月曜からよふかし」は見ることを許す僕でも、こんなドラえもんは絶対見せない。太田啓子はこんなエロ同人的なドラえもんを自分の息子に見せたいのだろうか?

性差別的な表現を指摘されても、あれこれと言い訳をして認めなかったり、「表現の自由の侵害だ!」などと逆ギレするような礼が多いなか、メディア側がそれを素直に認め、さらにその後の改善につながる意見交換までできた(ヤレる女子大生RANKINGのSPA!のこと)

SPA!はご意見承りましたでいいのに。

対談「小島慶子」

ヤバいゲスト2号。星野とも共通して、自分が絶対正義であると信じている。

小島 母たちの本音って、言ってしまえば「自分の娘には男に従属しない自立した生き方をしてほしい。でも自分の息子には、どこかの女がちゃんと従属してくれないと困る」

太田 そうそうそう! 受け止める娘側には、大変な引き裂かれが生じる願望なんですよね。それも抑圧された世代の女性たちの切なる願いではあったと思いますけど……

小島 痛ましいけれど、私たちの世代はそれをアンインストールしていかないといけないですよね。

正直だなあと苦笑する。フェミニズム先進国の北欧で、当国の女がキャリアを積むために他国の貧しい女を安くメイドで使ったりする構図と共通している。「息子」が「当国の女」になり、「どこかの女」が「他国の貧しい女」になっただけだ。フェミニズム先進国でさえこの価値観をアンインストールできず、それどころか当国の女のための言い訳に終始しているところを見ると、太田たちの世代どころかこの先も無理だろう。

小島 (フェミニズム的にアウトな発言をした夫を激詰めして)でも、夫はいまひとつ腑に落ちていない感じで。

小島慶子のような女を嫁にできるのだから、これぐらいのおおらかさがないと不可能。僕ならそもそも近づかない。

小島 弱音を吐く男性に対して「情けない」「キモい」といった評価を無自覚にしてしまってないか。女性側からジェンダーバイアスを強化している部分が間違いなくあると思います。

男らしい男を女から求めている現実。自覚するのは偉いので、フェミニストとして女どもに啓蒙してほしい。

小島 だから男性にも、あなたの敵は女性やフェミニストではなく、弱さを見せた男を負け組に追いやる社会構造や、家父長制的な価値観だと理解してほしいわけです。

出た、論点先取! その敵は小島が敵だと思っているものであり、男の実際上の敵ではない。そしてそれを敵にしている自分たちこそが正しい側にいるという傲慢さをプンプンと感じる。

そして、弱さを見せた負け組に追いやる社会構造については、最近興味深い記事があった。

小山晃弘氏は「メンヘラ.jp」という「診断名を超えた分野横断的なメンヘラの互助」を目指すサークルを立ち上げていたのだが、あるトピックへの反応をきっかけに「誰もが生きづらさを語れる場」を作ることは不可能であることを確信した。

あるトピックには、今まで溜めた1000以上のトピックで唯一、痛罵と冷笑が山のように投げつけられたという。

そのトピックは「弱い男の生きづらさ」に関するものであった。
「男」という属性を持つだけで、誰からも共感されない「真の弱者」となり、しかもその意見を肯定しようという小山氏までが罵倒の嵐にさらされた。

罵倒するのは男女を問わない。男が弱音を吐けない社会構造は今現在強固に現存していることを思わざるを得なかった。

太田啓子は味方とばかり対談していないで、フェミニズムが弱者男性の包摂を通じて家父長制的価値観を無効化し、それが女性のためにもなると言う建前を大事にするなら、まさに小山氏と対談してみたらどうか。

小島 「風俗に行っても家族を大切にするならいいじゃないか」というのにも同意しない。「モノ扱いしていい女性」と「尊重すべき女性」を線引きするのは、人間に対するまなざしとして間違っているでしょう。一緒に暮らす家族としては絶対に許容できないです。

風俗に行くのに妻にバレるような男は甘すぎる。僕は一度もバレていない。妻の性格からして知っていたら激詰め不可避だが、そのようなことは一度もない。男はバレないように行く。

第6章 これからの男の子たちへ

世の多くの男性はこうした女性の不安や悩みについて「気づかずに済む/知られずに済む/傷つかずに済む」人であり、やはり「マジョリティ」なのです。

女と男を入れ替えてもまったく成り立つ。男も女の「無職でも結婚できる」「稼がなくても文句を言われない」等々の特権を感じている。そして、それに異議申し立てをすること自体が、男として劣等であるという評価を下される。その価値観を、女も積極的に支えている。

女性を人間として、ふつうに尊重すること。

いつもこういう言葉がでるたびに「人間」とは何を指しているのかと思う。男と同じように接して文句がでるなら、女は甘やかせと言っているのと同じで、まさに家父長制そのものである。

読書感想文まとめ

大越愛子の「フェミニズム入門」を読んだときには、あまりの毒性の強さに吐き気とめまいがして2割も読めなかったが、この本は最後まで一気に読むことができた。

表現の自由の敵と一部界隈でみなされている太田啓子だが、性の自己決定権を重視するあまり、淫乱しずかちゃんを肯定してしまうというウルトラCを見せた。

まあ、フェミニストとしてはベーシックであり先鋭的ではないなというのが率直な感想で、小島慶子の方がヤバい。普通に、話は通じるのではないかと思う。息子たちに対しても、本人の意志を尊重することを重視しているように見えた。

本人の意志を重視することは僕の子供たちへの態度でも同様だが、やりたくないことをやらせようとするのは本当に疲れるのだ。僕はアンチフェミニストであり、息子たちへは「男は強くなければ生きていけない」「強くあるべし」と陰に陽に現実を教えているが、まさに笛吹けど踊らずというやつで、そこは太田啓子と同じである。

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