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R・M・スマリヤン『タオは笑っている』

☆mediopos-2577  2021.12.6

なにも考えたくないほど
疲れたときにはとくにタオがいい
そんなときでも
「タオは笑っている」からだ
もちろんどんなときでもタオでありたい

はじめて老子と荘子を知ったのは中学の頃だが
それ以来ずっとタオの「風狂」と
ともにありたいと思うようになっているようだ

それは仏教から影響をうける
ずっとまえのことだ
だからどこか仏教にもタオの風を感じ
さらにずっとずっと後になって
キリスト教について知るようになっても
イスラムのスーフィーについて知るようになっても
そこにはいつもタオの風を感じている
逆にいえばそうでないものにはどこか違和感がある

とくに分別くさいのはお断りしたい
ちょっと疲れたこんなときだからだろうが
ほんとうに久しぶりに(40年ぶりだ)
スマリヤンの『タオは笑っている』をパラパラ

そのなかから今回は
「35 風狂の哲学と分別くさい哲学」を引いてみた

なにも言うことはない
この章の最後もそうだ

「本章に関してお詫びしなければならないことがひとつある。
それは本章が分別くさいことだ。
ただ、友人がこう言ってくれたのがせめてものなぐさめだ。
「分別くさくはあるがどこか狂っている。」」

狂っているのには
二種類ある
じぶんが狂っていないと思ってる狂い方と
じぶんからすすんで狂っている狂い方

もちろん世の中で偉いと思われ
評価されるためには前者でなければならないが
そんな者にはなりたくもないので
いつも風狂とともにありたいと思っている

引いたなかで
とくにそうありたいと思っているのは
分別を捨て寛大になり
狂うことで
「ぞっとするような「まともさ」も
堪えがたいものでなくな」り
「さらに狂気が進むと
狂気か正気かの二元論は無意味になり、
両者は同じにみえてくる」というところだ

ぼくのような中途半端な狂い方だと
まだ「ぞっとするような「まともさ」」に
いまだ耐えきれずにいるところが多分にある

だからこそそのなかで
なんとかやっていく必要があるのだろうが
もっと狂気を進めることができたときには
もう狂気であることにさえ
こだわらなくてもすむようになれるのだろうか

■R・M・スマリヤン(桜内篤子訳)
 『タオは笑っている』
 (工作舎 1981.4)

(「35 風狂の哲学と分別くさい哲学」より)

「哲学はおおざっぱに言ってふたつに分けられる。「風狂の哲学」と「分別ある哲学」である。わたしは当然、前者のほうが好きだ。後者はきまじめで、正当で理性的で分析的である−−−−要するに、ひじょうに分別くさい。一方、風狂の哲学はどこか狂っている。そして自然発生的でユーモアがあり、従来の思想の枠にまったくとらわれない。道徳的でない。自己規制がない。整然としてない。それはこの世を超越していて、美しく、詩的で、真っ正直で、矛盾とパラドックスに満ち、要するに魅力的である。分別くさい哲学と較べて、いちばんまさっている点は真実にずっと近いということだ。こう書くと、当然、分別ある哲学者の多くは異議を唱えるだろう。風狂の哲学のほうが真実に近いという証拠はある。ただしどれも分別ある哲学者が認めてくれそうにない狂った証拠ばかりだ。
 哲学者にかぎらず、人はだれでも、だいたいどちらかのタイプに属するようだ。一般的に、心理学者、精神分析家、経済学者、社会学者、政治学者は分別あるタイプだ。そして芸術家、詩人、音楽家、(うれしいかな)化学者、理論物理学者、数学者(とりわけ数理論理学者)は風狂の傾向がある。経験から言うと、ひじょうに優れた論理学者は分別あるものに深い理解を示すと同時に、風狂なものにもすばらしい感性をもっている。これは当然と言えば当然だ。理屈を超えた哲学は新鮮であるばかりでなく、ひじょうに啓蒙的であり、風狂の哲学を理解できない人は真実をもほんとうに理解できない。
 分別を捨てることによって、人間はより情深く寛大になる。さらに狂うことによって、この世の、ぞっとするような「まともさ」も堪えがたいものでなくなる。さらに狂気が進むと狂気か正気かの二元論は無意味になり、両者は同じにみえてくる。
 わたしは分別ある哲学に反対しているわけではない。分別ある哲学があるからこそ狂気の哲学のすばらしさが引き立つのだから。
 それではふたつのタイプの例を示そう。文学、とりわけ西欧の文学には分別の哲学が幅をきかせている。アリストテレスの作品をみるがいい。どのページを開いてお分別だらけだ。一方、風狂の哲学とはざっとこんなものだ。つぎの荘子の言葉によく表されている。

  古代人の知識は完全だった。なぜ完全だったかというと、ものの存在を知らなかったからだ。これほど完全な知識があろうか。足りないものはなにひとつない。それからやがてかれらはものの存在を知った。しかし区別はしなかった。それからしばらくたって区別するようになった。だがそれぞれにいいとか悪いとか判断を下すことはなかった。人間が判断を下すようになったとき、タオは崩壊した。そしてタオの崩壊とともに個人の選り好みというものが始まったのである。

 本章に関してお詫びしなければならないことがひとつある。それは本章が分別くさいことだ。ただ、友人がこう言ってくれたのがせめてものなぐさめだ。
 「分別くさくはあるがどこか狂っている。」」

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