見出し画像

川上弘美×森郁恵「引き寄せ合う芸術と科学」/最果タヒ「きみを愛ちゃん 6」 「誰かの機嫌を誰もとらない/『動物のお医者さん』菱沼聖子」(『すばる2022年9月号』)

☆mediopos2827  2022.8.14

『すばる9月号』にたまたま載っている
直接には特集的にも関係ないだろう
2つの記事に興味をひかれた

「生命は歓ぶ」という特集の最初にある
川上弘美と森郁恵の
「引き寄せ合う芸術と科学」という対談と
最果タヒの「きみを愛ちゃん」という連載の
懐かしい漫画『動物のお医者さん』の登場人物の話だ

どちらも決してむずかしい話ではないけれど
とてもだいじな話だ
そして日頃からそのことを切実に思っている人には
深く頷くしかない話だけれど
そんなことをあまり考えたことがないという人には
あまりぴんとはこない話でもあるだろう

前者は「個性」「多様性」の話

「多様性がある、個性がある、わかりました、で
終わってしまっては駄目」で
「同じ経験をしても、個体個体によって違う
という点が結構大きなポイント」であって
しかも「個対個だけの問題じゃなくて、
一つの個体の中にもいろいろな部分があ」り
なぜそんな違いが生まれるのかということについて
話を深めていく必要があるということ

後者は「みんな」も「普通」もどこにもなく
他人も世界もわからない存在であることを
笑って誤魔化したり怖がったりしなくてもいい
そのことを
「不明瞭な世界の中をマイペースに泳」いでいる
『動物のお医者さん』の登場人物である菱沼さんへの
共感を通じて学んでいく話

「個性」「多様性」と「共感」というのは
少し考えるだけで矛盾してしまうところがある

「個性」「多様性」を認めるといことは
言葉をかえれば「他者」というわからなさを
認めるということでもあり
そこには「共感」の困難さ
さらにいえば不可能性があるということだ

その困難さや不可能性に鈍感な人にとっては
「みんな」はそうだとか
「普通」はそうだとかいうことに
違和感をもったりはしないだろうけれど

少しでも意識的であれば
「みんな」や「普通」は
いかに「みんな」でも「普通」でもないことか
そしてそこには「他者」という超えられない境があり
それこそが「個性」「多様性」の謎だということが
切実なまでに理解されるはずである

ひととひとのあいだあるいは世界で
さまざまな争いが起こるのは
じぶんが思いこんだ「みんな」や「普通」
あるいは「正しさ」を
じぶんにはわからない存在であるはずの「他者」に
押し付けることに疑いをもたないからだろう

逆説的だが
他者を理解し共感をもとうとするならば
その不可能性というところから
歩み始める必要がある

■川上弘美×森郁恵「引き寄せ合う芸術と科学」
■最果タヒ「きみを愛ちゃん 6」
 「誰かの機嫌を誰もとらない/『動物のお医者さん』菱沼聖子」
(『すばる2022年9月号』所収)

(川上弘美×森郁恵「引き寄せ合う芸術と科学」より)

「森/線虫だけでなく、人間についてもいろいろ調べて、芸術家や小説家が持つ個性のルールや根拠を探したい。これは、小説家に限らずなんですけど、結局なんでも、「個性が違うから」と言った途端に、話が終わっちゃうんですよね。それも嫌で。
川上/なるほど。
森/そこから話が深まらない。だから、単純に個性という言葉に落とし込むというのではなく、やっぱり認知というか、どういうふうに世界を見ているのかというところを・・・・・・。
川上/個性という言葉の先にあるもんを追求する感じなのかな。
森/内部状態というか、学習している、記憶している、経験していることと、いま見ている世界が相まって、どういうふうに出力の違いになるかという仕組みについて研究したいわけです。
川上/あと、そもそもの内部状態のつくられ方も・・・・・・。
森/謎よ。
川上/謎だよね。同じ経験をしても、個体個体によって違うという点が結構大きなポイントのような気がする。芸術の分野でなくとも、たとえば、ある一つのストレスが非常に強くのしかかってしまう人と、そうではない人がいて、それって内部状態のつくられ方の違いなのかなって思う。
森/それは今の科学で解明されていない。
川上/その違いがもしわかったら、とても面白いし、すごいことだと思う。個性、あるいは多様性をつくりだすシステムが解き明かされたら、
森/うん、そうだね。
川上/多様性を尊重すべきだということはもちろんみんなわかっている。だけど、その多様性のなかで、どうやって折り合って生きていくかというところが・・・・・・。
森/そう。個性の話と同じで、「多様性を認めましょう」で終わっているんです。
川上/でも「認めましょう」のかけ声だけでは実際に認め合うのは難しい。
森/多様性がある、個性がある、わかりました、で終わってしまっては駄目。
川上/それだと、おのおのの裁量に任されて、自分がどれぐらい心が広いか、狭いかの問題になってしまう。それは違うのではないかと。
森/本当にそう。だから、いま、みんながなにかおどおどしていない? 多様性があるとか、個性があるとか、この人が個性的なのを認めなきゃいけないとか。なにか妙に腫物に触るみたいなことになっていて。
川上/うん、そうですよね。だから、たとえば、Aという場合はこういう因果関係があって、Bという場合はこういう因果関係だというメカニズムを、感情を交えずに分析できたら・・・・・・。
森/そう。その分析は、緻密な作業かもしれないし、地味な作業かもしれない。だけど、私はやっぱりそれを研究することが非常に重要だと考えている。
川上/個性と呼ばれるものが、恣意的なものじゃなくて、たまたま、ランダムなんだけど、なにかの理由があって現れ得ることなんだってわかれば・・・・・・。
森/なんだ、たったこれだけの違いなのか、というところに落ちたらいいですよね。ほんのちょっとのささいなことが原因で、考え方が全然違うとか、物の見方が全然違うっていう非常に単純な問題かもしれない。その仕組みは今のところまだわかっていないけど、そこに科学的根拠が出せれば・・・・・・。
川上/もしそれが解明できたら、みんなが多様性を認められるということにつながってくると思います。ただ、解明、というと、単純な因果関係、たとえば○○を食べたから血圧が下がった、というようなわかりやすい一対一対応だと思われがちだけれど、そういうのではなく、この条件ではこんなことが起こり得るけれど、そこには幅もあって・・・・・・というような、フレキシブルで立体的な解明であってほしいとは思います。
森/うんうん。
川上/そうなれば、個対個だけの問題じゃなくて、一つの個体の中にもいろいろな部分があるから、自分の中の制御しづらい部分に対しても違う感情で向き合えるようになるかもしれない。」

(最果タヒ「きみを愛ちゃん 6」より)

「『動物のお医者さん』の菱沼さんが好きだった。獣医学科を舞台にした物語で、菱沼さんはこの博士課程の学生だ。ぼんやりした喋り口調と図太い神経、不思議な体質と妙なタフさで、作中でも極めて変わった人。その割に世の中とずれていることを気にしていなくて、自分というものにこわだりがなく、テキトーな面がとても強い。
 私は菱沼さんが好き、というか、菱沼さんがいる世界が好きだったのかもしれない。菱沼さんになりたかった。でもそれは、菱沼さんが生きていられる世界に「私」として生きたいだけだったのかも。『動物のお医者さん』の中にいる人々は基本的にとてもマイペースで、他人と合わせたり空気を読むことを大切にすることがさほどなくて、何よりそのことが「当たり前」として貫かれている。自分が自分のペースでいることがおもしろおかしいわけがなく、自然なことであるはずなのに、現実の世界でそれは面白さとして受け止められたり、癖の強さだと指摘されたりする。他人が、癖が強くないわけないだろ。自分と違う生き物がすぐそばにいることが本当はとても怖ろしくて、だからそういった事実が明らかになろうとしたとき笑い飛ばしてしまうのかもしれない。
 変わっているねと言われることが昔とても怖くて、それはそう言って話を済ませようとしているとどこかで思ったからだろう。変わっていない人があなたの住んでいる世界にはいるんですか? そう見せかけているだけではなく? 変わっていない人なんて一人もいないはずなのに、それを誤魔化さなければうまく会話ができない、と思うとき、私はどこかで「誤魔化す」ことを悪いことだと思っている、と気づく。(・・・)
 他人、というのは怖ろしい存在だ、何一つ自分とは同じではないし、それなのにどう違うのか予想することさえ難しい。それなのにそんな人たちと完全に無関係でい続けることってできなくて、全くわからなくても、ついていけなくてもそんな人たちと肩を並べて生きていかなくちゃいけない。」

「菱沼さんはこの作品の中でも特段奇妙な人で、同じくマイペースであるはずの周囲をひたすら困惑させてしまう。けれど作品の外にいる私は菱沼さんのことを面白い人だ、と思っているが、登場人物たちが、菱沼さんを「面白い」とは思っていなくて、困ったり戸惑ったりしているだけだ。私はその作り方が何より好きなのかもしれない。」

「変わった人間を前にした時、それを笑い合うことは、どちらかが自分こそ正常側だと優位性を主張するこよでもあるのかもしれない。正常側になることは楽しいことだろうか、実はそうでもないのではないか。そして笑う人だってそれに気づいている人も多くいるのではないだろうか。ここで笑わなければ、互いが異質であることを許していくことになる。誰も正常でいなくていいし何が普通なのかいちいち決めなくても済む。多分、苦しくなるのは笑っている方も同じで、それでもどこかに「正しさ」があると思った方が安心できるからとそこに縋ってしまうのかもしれない。」

「気持ちを共有して一緒に分かちあうことが絶対に必要とは思わない。そんなものを分かち合わなくても、共に食べてるものや今目の前に見えているものや近くで起きた出来事について話すだけで、それだけで十分だと思う。そしてそう思う時「みんな、そんなに怖がらなくてもいいのに」と思うのだ。そう思えることが、私にとって一番誇らしいことかもしれない。他人がわからないことをそんなに怖がらなくてもいいのに。私のことが理解できないからってそんあに怯えなくていいのに、私は「変わっているとね」と言って私のことを笑おうとする人がいつからかすこしも怖ろしくなくなった。昔は「みんな」という名前の世界が自分に対峙しつづけて、それに抗う形でしか「私」であり続けられなかったのに、みんなが言う「普通」に反論するように自分を見つけ出すことにいつの間にか飽きてしまって。みんなが何を「普通」とするのかにそんなに興味がなくなって、私は多分理想的な「菱沼さん」に擬似的に近づいていっている。それは、絶対に関わらなければならない人間の数が減って、続けなければならない集団生活からも卒業することができたからだろう。昔は、菱沼だんは自分をはっきりと持っていて偉いな、と思っていた。でも、今の私が読み返すと、菱沼さんは自分がどう思うかを判断するのが適当で、そして焦ってもいなくてそこが好きだなあ、と思う。世界に抗いたいなんて微塵も持っておらず、そして世界に抗う違和感だけで自分を彫り出すようなことはせずに、まっさらな、不明瞭な世界の中をマイペースに泳いでいる。菱沼さんは他人にとってわからない存在だが、菱沼さんにとっても世界はわからない存在のままだ。多分、彼女は「みんなはこう言うんだろうけど」とか、そんんふうには思わない。みんな、なんて人間がどこにもいないことを、誰よりも彼女が知っている。」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?