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中井久夫『私の日本語雑記』

☆mediopos2935  2022.11.30

今年八月に亡くなった精神科医・中井久夫が
二〇〇六年七月から二〇〇九年五月まで
一か月おきに雑誌『図書』に連載していた日本語論

「ポール・ヴァレリーの研究者となるか
科学者、医者となるかかなり迷った」
とも語っているように
文学や歴史・哲学にも通暁している

ギリシャの詩人カヴァフィスの
全詩集などの翻訳もあり
そうした言葉への意識が
精神科医としての視点で深められながら
この日本語論は語られているようだ

そのなかから二つ
言語についての興味深い視点をとりあげてみた

ひとつは
自閉症の世界における言語と
そうでない人間の言語との違い

「言語を学ぶことは世界をカテゴリーでくくり、
因果関係という粗い網をかぶせることである」が
「言語によって世界は簡略化され、枠付けられ、
その結果、自閉症でない人間は自閉症の人からみて
一万倍も鈍感になっているという」のだ

「言語以前の強烈で名前を持たない感覚を
因果律とカテゴリーとによって
整理してくれるのが言語表現」である

しかし分節化されない世界をそのまま
敏感に受け取るってしまうのは「恐怖」だろう
言語は世界を分節化し
そのことで「生の現実」から隔てられているのだ

もうひとつは
「第二の視覚」としての感覚と「質」としての言葉

一酸化炭素ガス中毒で視覚を失った女性の患者は
「物体を三次元に定位している形では把握できない」が
「石ころがごろごろしている山道を歩くことができる」し
「差し出された棒を的確につかむことができる」のだという

「視覚」といっても
それは「見える」というだけのことだけではないらしい
それ以外にも別の「質」をもった「視覚」があるようだ
そして私たちが通常「見る」というときにも
「両者が協同して一つの視覚を成り立たせている」

これに関連して「認知症」において
「いちばん犯される言葉」は
「固有名詞、普通名詞であるよう」だが
「に」や「を」といった格助詞の
「間違いに的確に異議を唱え」たりするように
これもまた「目には見えねど、つまずかずに歩ける
「第二の視覚」のようである」という

「言葉」を覚えることは
世界を分節化し
そうすることで「生の現実」から隔てられ
そのなかで生きることであり
また「言葉」を忘れることは
その分節化が解れ「生の現実」へと
還っていくことなのかもしれない

そんなことをとりとめなく考えると
あらためて「言葉とは何か」をめぐる謎が
ますます深まってくる

■中井久夫『私の日本語雑記』
 (岩波書店 2010/5)

(「3 日本語文を組み立てる」より)

「自閉症の世界はいわば絶対音感の世界であるらしい。絶対音感の人の苦しみは最相葉月の『絶対音感』にあるが、それが音だけでなく、すべての感覚にわたってそうらしい。テンプル・グランディンという、自身が自閉症である動物学者の『動物感覚』を読むと、この「リアル」な世界がいかに大変かがわかる。言語は、その世界の圧力を減圧するために生まれたのではないかと彼女が言うのもうなずけるような気持ちになる。
 言語を学ぶことは世界をカテゴリーでくくり、因果関係という粗い網をかぶせることである。言語によって世界は簡略化され、枠付けられ、その結果、自閉症でない人間は自閉症の人からみて一万倍も鈍感になっているという。ということは、このようにして単純化され薄まった世界において優位に立てるということだ。
 しかし何事もよいことずくめではない。彼女によると言語のない世界には恐怖はあるが葛藤はないという。言語は葛藤を生む。その解釈がさらに葛藤を生み出す。
 さらに、言語の支配する世界はすべてにわたっていわば相対音感の世界ということになる。相対性、文脈依存は成人の記憶において明らかである。誰しも、生きてゆくにつれて、過去の事件の比重、意義、さらには内容、ストーリーさえ(たいていは自分に都合よく)変わる。しかし、人間はどこか生の現実(「即事」「もの自体」「現実界」など)から原理的に隔てられている虚妄感を持つようになる。

(…)

 私たちは、言語以前の浮動的で多重的な思考のマトリックス(母胎)状態にとどまるのも苦しい。私たちは、水中でもがく溺れかけた人のように急速に言語世界に向かって浮上しようとしないではおれない。こうして前言語的なマトリックスは言語の衣を着せられてゆく。
 そうなるとマトリックスは、言語に変換されて、イメージは漢字や知っている同義語、類義語に変わる。外国語が裏打ちされることもある。言葉の並ぶ一種の「パレット」となってゆく。そして、この「パレット」は、徐々に言語優位になってゆく。まだイメージがまとわりついているかもしれないが、これも絵画的・模式的にされてゆく。絵画や写真や記憶像は素のイメージではない。それあはイメージを減圧し、手なずける人間的手段の一つである。」

「同時に二つのことを言えないというのは、大きな限界でもあり、また精神の安全保障でもある。世界が同時に無数の言葉で叫び出したら私たちは錯乱するしかない。
 言語の直線性すなわち一次元性は雲のような発想に対して強い規制をかける。言語以前の強烈で名前を持たない感覚を因果律とカテゴリーとによって整理してくれるのが言語表現である。妄想も言語表現であり、その意味では混沌に対する救いではある。」

(「14 われわれはどうして小説が読めるのか」より)

「最近になって、第二の視覚ともいうべき、私たちがほとんど意識していなかった視覚が発見されたという(『もうひとつの視覚——〈見えない視覚〉はどのように発見されたか』M・グッディル/D・ミルナー著、鈴木光太郎/工藤信雄訳、新曜社、二〇〇八年)。
 こういう場合の多くは患者の出現で初めてわかる。ある女性患者は一酸化炭素ガス中毒によって、視覚を失った。彼女は全くものが見えないのであるが、報告を信じれば、石ころがごろごろしている山道を歩くことができる。また、差し出された棒を的確につかむことができる。
 彼女は、物体を三次元に定位している形では把握できない。輪郭すら全く見えない。色彩もない。わかるのは、面のやわらかさ、あるいはザラザラした感じ、ひだひだのある感じであるという。視覚の楽しみの大部分は奪われているだろうが、この「視覚」によって、行動はそれほど支障なくできるということである。
 そういう視覚があれば、それも一種の「質」であろうか。あるいは高速道路を運転している時にすれちがう車の三次元形態にはそれほど注目していないのかもしれず、道路のコンクリート特有のキメと車の滑らかな塗料のキメとの違いに反応しているのかもしれない。老練な漁師が観天望気を行う時も、キメを認識しているのかもしれない。これは明確な輪郭を持つ三次元的存在よりも古くからある視覚と推定される。カエルは動くものにしか反応しない。運転者もあるいはキメ的視覚と私が仮に呼ぶものに大きく助けられて行動しているのかもしれない。もちろん、一酸化炭素ガスのやために分離されなければ、両者が協同して一つの視覚を成り立たせているに相違ないであろうが……。」

「認知症の場合に、いちばん犯される言葉は何であろうか。
 私は確言できないが、どうも固有名詞、普通名詞であるような気がする。私は、キーワードをいくつか思い浮かべ、イメージが何かあればそれも目の前に浮かべて「思い出せ!」と自分に命じる。すると、二時間くらいで言葉が突然浮かび上がってくることに三十歳代から気づいている。思い出そうとして苦悶するよりもましな方法である。うーうーと苦しみながら思い出そうとするより、命じておいていったんはほかごとに転じるほうがよく浮かんでくる。
 思い出せなくても、候補に挙げても違っているものには「どこか違うぞ」という感覚はある。この感覚は言うに言えないようなものであるけれども、たしかにある。
 認知症の人が格助詞の間違いに的確に異議を唱えるのを耳にしたことがある。まさに「格助詞の違い」を咎める時の、警笛のような鋭さを持っていた。(「に」じゃなくて)「を!!」というふうに。
 格助詞は私たちの中で、お粥のようにぷかぷか浮いているのでなくて、意外にしっかりした体系を持っているようである。ただ、自分の頭の中にどういう形で入っているのか。どうしても思い浮かべることができない。
 「これ、それ、あれ、どれ」の「こそあど」体系も、似ている。
 では格助詞や「こそあど」体系、一般に小辞といわれるものは全くイメージを持たないか。何か、あるようでありながら、もどかしいのである。さっきの「第二の視覚」の話ではないけれども、それに似て、目には見えねど、つまずかずに歩ける「第二の視覚」のようである。」

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