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西郷信綱『古典の影』

☆mediopos-2347  2021.4.20

御多分に漏れず
(というよりもむしろずいぶん遅れて)
ぼくにとっても古典が
とくに意識されるようになったのは
やっとここ十年ほど前からのこと

もちろんここでいう古典とは
通常いわれるような古典だけではない
汲み尽くせないほどつねに
新たな問いを投げかけてくれる
という意味での古典である

その問いは
正解がひとつだけ用意されているような
Q&Aクイズのようなものではない
ひとつの問いが種となって
そこから育ちはじめるような問いである
Q&Aクイズ的なものは
「しょせん死物にすぎず、
成長するということがない」

学ぶということは
教わるということではない
教育はすべて自己教育だから
学ぶためには
みずから問いを見出し
それに対してみずからを
教えていかなければならない

古典が古典たり得るのは
「一にして万にゆく」ための
「一」たり得るからだ

「一」が「一」しか導き得ないのは
ただの検索機械に過ぎない
それがどんなに複雑かつ精密な知識であっても
「技術や操作」に過ぎないのだ

「一にして万にゆく」ということは
そこに問いを作用させ
それに向き合うことで
みずからの「経験」とするプロセスだ
しかもそれは「日常の生活や経験の世界を
抽象し」たところでは成立しえない

真の問いを見出すのは難しい
ゆえに古典の助けが必要となる
古典は答えを与えてくれるものではない
問いそのものを与えてくれるものでもない
問いを生み出すための種や
それを育てるための養分を与えてくれるものだ

■西郷信綱『古典の影/批評と学問の切点』(未来社 1979.6)

「伊藤仁斎『童子門』の一節にいう。「一にして万にゆく、これを博学といふ。万にして亦万、これを多学といふ。博学は猶、根あるの樹、根よりして而して幹、而して枝、而して花実、繁茂稠密、算へ数ふべからずと雖も、然れども一気流注して、底(いた)らずといふ所なく、いよいよ長じて、いよいよやまざるがごとし」。これにたいし「多学」は布で作った造化で、らんまんと咲きみだれ人の目をよろこばせはするが、しょせん死物にすぎず、成長するということがない。両者は一にすべきでなく、「駁雑の学を以て博学とするは誤れり」と。
 古典が偉大なのは、たんにそこでいわれていることじたいによってではなく、そこでいわれようとしていること、すなわちそれが私たちに投げかける志向性の影によってである。文学史とか思想史とかよばれる学問が、おおむね無味乾燥で、現代とひびきあうことがまれなのは、古典にいってあることをたんなる歴史的事実として対象化し、それが私たちに投げかけてくるこの影をうけとめようとしないからである。右の仁斎のことばにしても、一古学派儒者の言として、当時の儒学史の系譜や枠組のなかでたんに事実的に読むなら、せいぜい朱子学批判の一節にすぎず、おそらく引用にも価しないだろう。しかし、このことばで仁斎が何をいわんとしているか。つまりこのことばの背後に、目に見えぬ、仁斎のいかなる種類の、いかなる量の経験がよこたわっており、それはここにいかに表現されているかという点を読みとろうとするならば、それは私たちの精神を強く照射することばとして、とみにそのこだまをひろげてくる。」
「今の日本において、学問的成熟がひどく困難であり、私たちの学問が結局、若いときにやった仕事の因習的なくりかえし、それの解体または水ましといった尻すぼみの状態に終り、「一」にしてついに「一」にすぎぬような形になりがちなのも、「一にして万」に至るその「一」なるものの根源的定立に欠ける点があるからではなかろうか。少なくとも現代の私たちの学問はおしなべて、どこかで決定的に故障しており、しかもそのことがほとんど反省されずにきているため、この故障はいっそう不気味なぐあいに深まり。かつひろがって行こうとしているのではあるまいか、と。」

「私たちの学問の故障は客観主義の故障なのだ。しかもその故障を、客観主義の技術的精密化によって克服し癒やすことができるかのような錯覚が支配していて、故障を蔽いかくそうとするため、ますますからまわりはひどくなろうとしているといえる。主観主義への寝がえりによってもどうにもならぬことは、すでに証明ずみである。森有正氏もしばしば私的していることだが、経験ということばが、日本でなかなか市民権をもつに至らないのは、非常に象徴的である。客観主義者は、経験のもっている不透明さをあっさりきりすて、それを主観から独立しその外にある事実そのものという概念のなかに解消してしまう。一方、主観主義者はその不透明さを、科学への不信や神秘主義的美学にたやすくすりかえ、ひとりよがりに上空を飛翔する。また体験主義者というのがいて、経験の本来もっている開かれた地平に、情念の幕をすっぽりとかぶせてしまう。おきてきぼりをくらい、みずからの意味や形式を見出すことのできぬ経験たちが、亡霊のように地上にさ迷わざるをえないのは当然である。ちなみに、いわゆる新興宗教へのなだれこみ現象を見るだけでも、いかに日本の社会で、経験の世界が渾沌とゆれうごき、はけ口を求めてひしめいているかわかる。このひしめきの音がきこえるかどうかは、学問にとっても一つの大きな別れ目となるのではないか。
 そんなことは大衆の問題、あるいは政治的に解決されるべきことであって、学問とはあまり縁がないというかもしれない。しかし、かりにどんなに進んだにせよ、学問は虚空にひとりだちしているのではなく、それをつくるのは学者であり、学者ーーーー学問を論ずるにはぜひとも学者を論じなければならぬーーーーも人間として多くの人とともに経験の世界を共有しつつ生きているのであるから、これが学問と無縁な話であるはずがない。それが無縁と思えるのは、私たちの学問が、仁斎のいわゆる「卑近を忽(ゆるがせ)に」し、「耳目の見聞するところを外にし」、「地を離れ」て、つまり日常の生活や経験の世界を抽象してしまったあたりで、論理的な自転運動をおこしているからに相違ない。もっと悪いことに、それを学問の進歩と思い誤っている向きさえなくはない。果たしてそこで支配的なのは、(・・・)研究における技術や操作の「緻密さ」(Exaktheit)であって、思考や精神の「厳正さ」(Strengheit)ではない。技術や操作の精密さも、それじたいとしてはむろん結構だけれど、それは、しょせん《エジプトのピラミッドの合理性》であり。それがそのまま学問の科学性や合理性を保証するものではないことは明かである。」

「主体としての自己または自我について、その実体的な主張でもなく否定でもない新たな視点をみちびき入れ、主体の意識を省察することが同時に相関的に対象の認識でありうるような方法を探求することによって、これまでの学問を疎外し消耗させてきた邪悪な二元論的分裂をのりこえねばならぬところに、私たちの道は、いろいろさしかかっているのではあるまいか。」

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