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ジャン=マルク・ドルーアン『昆虫の哲学』

☆mediopos2990  2023.1.24

冬になると
野山に出かけて虫たちを観察する
そんな楽しみが減ってしまうこともあり
おりにふれ虫の話が読みたくなってくる

虫の話は
比較的少数の虫好き以外
「虫が好かない」という言葉もあるように
虫嫌いにとっては生理的に避けたい話かもしれない

けれど昆虫は形態や生態が多種多様で
しかも地球上の動植物を合わせた総種数175万種のうち
54%にあたる95万種も存在している
その昆虫が今や世界中からその昆虫が激減しているという
(世界の昆虫種の40%が減少し
数十年で絶滅の可能性さえあるという)

激減しているのは昆虫だけではないが
昆虫のばあい虫好きを除けば
感情移入がむずかしいため嫌われることも多く
それが減ることに抵抗感も少なく
それに気づいたとしても
その意味を深く考えないときには
それを切実に考えることさえ持てないのかもしれない

本書は『昆虫の哲学』である

古代から現代まで
ダーウィンやファーブルはもちろん
昆虫をめぐる議論を多角的にふりかえりながら
生物多様性・ユクスキュルの環境世界論・デリダの動物論にまで
さまざまに言及され示唆に富んだ科学エッセイとなっている

著者としては「法の哲学」「芸術の哲学」
「科学の哲学」「自然の哲学」などと同じ意味で
「哲学」であると位置づけているのだが

それは「哲学者は、昆虫を含めずに生物を考えることはできず、
昆虫学が問いかけてくるものに耳を貸さずに
昆虫を考慮することはできないという、
哲学的信念をあらわ」しているからだという

そして「昆虫学とは異なる分野でなされた
昆虫にかんする研究について調べ、
そのエピステモロジックな寄与を見出」すものであり
さらにそれは
「「動物の世界」についてのより広い観点からの問いかけ、
そして、倫理的次元での可能性と限界についての
問いかけへとみちびく」ものだともいう

引用部分には各章(序文から最終章の第八章まで)から
各章のテーマについて参考までに拾い出しているが
著者が示唆しているように
とくに現代において「昆虫学が提起しているのは、
むしろ、生物多様性の問題、
人間と他の生物が共存するための倫理的課題」であり
その意味で本書は、
「昆虫にかんするエピステモロジーの書」であるともいえる

哲学者にかぎらず
「自然」と言挙げする方のなかにも
昆虫についてあまり関心のない方もいるかもしれない
そんな方にとっては今まさにこうした視点をもった
「昆虫の哲学」にふれることが必要だ

■ジャン=マルク・ドルーアン(辻由美訳)
 『昆虫の哲学』(みすず書房 2016/5)

(「序文」より)

「昆虫の世界は二つの異質性がきわだつ。私たちにとって不可思議で、そして、形態がひどくてんでばらばらなことである。」

「日常の言葉では、「昆虫」という語はひろい意味に使われ、クモやサソリなども含まれている。「昆虫」という語のこうした使いかたは、用語として適切でないだけでなく、分類学的にまったくまちがっているが、それは動物についての無知からきている。実際、古生物学や比較解剖学は、昆虫とクモ類との区別は恣意的どころか、進化の歴史のなかにその論拠をみいだせることをしめしている。」

「一般的にいって、昆虫がどんな位置を占めるかは、文化によって異なる。アンドレ・シガノス著『昆虫の神話学』は集団的な想像の世界の構造のなかで昆虫が占める位置を分析している。最大の相違のひとつは、昆虫の食用。食用を当たり前とする民族もいれば、論外とする民族もいる。といっても、その人たちも、エビなどの海生甲殻類は食しているのだが。」

「二、三〇年前から、「昆虫が来襲する世界で、私たちはどうなるのだろう」という不安にとってかわって、エコロジーに対する関心の高まりとともに、「昆虫(とくにミツバチ)が消滅した世界で、私たちはどうなるのか」が問われるようになった。この問いに答えるには、環境の倫理にとどまらずエコロジーの知識の活用が必要とされる。
 「昆虫の哲学」とは、さまざまな昆虫の哲学ではない。それは、私たちが当たり前のように口にする、「法の哲学」、
「芸術の哲学」、「自然の哲学」などと同じ意味での「昆虫の哲学」なのだ。哲学者は、昆虫を含めずに生物を考えることはできず、昆虫学が問いかけてくるものに耳を貸さずに昆虫を考慮することはできないという、哲学的信念をあらわすものである。(…)
 となると哲学は、大きさと尺度といったような、いくつもの本質的な問いに直面する。昆虫という概念は、さまざまな近縁種がそぎ落とされて、できあがっていきたものであることを知る。動物行動学や、それを昆虫の行動に文学的に敷衍したものは、昆虫についての言説が、どれほどの擬人化に染められているかをしめしている。擬人化は、追放したはずの亡霊、乗り越えたはずの障害なのだが、ほんとうに決別してはいない。したがって、哲学は、昆虫の社会という概念を検証する。集団的地性という概念の出現に問いを投げかける。私たちの社会・経済生活における昆虫の位置を考慮しながら、害虫・益虫・有用・無用を区別する図式の根本的変革から生じる方法論的、認識的、実践的結果について考察する。昆虫学とは異なる分野でなされた昆虫にかんする研究について調べ、そのエピステモロジックな寄与を見出す。さらに、「昆虫の世界」は、「動物の世界」についてのより広い観点からの問いかけ、そして、倫理的次元での可能性と限界についての問いかけへとみちびくのである。」

(「第一章 微小の巨人」より)

「昆虫は、別の世界、法則が異なる世界に生きているという幻想は、同じ法則が働いていても、小さなスケールではその効果が異なるという事実からきている。法則の一貫性こそが、異質な現象をひきおこすのであり、奇想天外な印象の原因なのである。」

(「第二章 コガネムシへの限りない愛」より)

「生物学者ホールデンは、ある日、神経学者たちのグループと同席していたとき、創造にかんする研究から創造主の本性についてどんな結論がひきだせるか、と訊ねられた。「コガネムシへんも限りなき愛」、ホールデンはそう答えたという。(…)もし、つくりばなしだったとしても、甲虫類の膨大な数に対する、生物学者の戸惑いをこめた驚嘆が表現されていることは確かだ。今日では、三十万から四十万種が知れていて、昆虫全体の四〇パーセントにあたる。キチン質化した前翅——鞘翅——が、飛翔するとき以外は、膜状の後翅を覆っているのがコガネムシの特徴で、ひとめでそれと分かる。加えていえば、幼虫かた成虫まで完全変態をする昆虫で、長いあいだ均一の種と考えられてきたことも、おどろくにあたらない。しかし、この群の内部構造は、他の昆虫にしてもそうだが、自明の理だったわけではなく、その概念の構築は方法論にもとづいた選択が重ねられた結果なのである。」

(「第三章 昆虫学者の視線」より)

「昆虫学者が昆虫やほかの節足動物に向ける視線の特徴は、描写や分類学的な正確さが文体の多様性に重ねられているところだが、捕獲という行為や観察場所の入念な選択もまた特徴的であり、昆虫に魅せられた学識ゆたかなアマチュアたちのにもそれはある程度まであてはまる。そんなわけで、昆虫学者にも視線を向けてみたくなる。」

(「第四章 昆虫の政治」より)

「ミツバチは王制、アリは共和制。ミシュレの発想も同じで、「アリはまちがいなく強固な共和主義者」で、ミツバチとちがって、「共通の母の崇拝」によって精神的ささえを得ることさえ必要としていない。(…)
 昆虫の社会は共和制だとしても、平等とはほど遠い。何よりもまず、ミツバチとアリにおいてオスとメスのあいだのバランスはいちじるしく不平等だ。オスには受精させる役割しかない。」

「ベルクソンは昆虫の進化と人類の進化との対照性を強調する。はやくも一九〇七年、彼は『創造的進化』のなかでこのテーマについてふれている。(…)
 ベルクソンが第一線の科学書を読んで得た博物学の知識は、その著書『創造的進化』の昆虫について書かれたページにみるとおりだ。(…)ベルクソンは、進化説を、生物の歴史を考察するのにふさわしい枠組みとみなしていた。

(「第五章 個体の本能と集団的知能」より)

「昆虫の社会と人工組織体との類比は、どんな条件のもとなら有意義かを見きわめようとするこころみは、アンリ・アトランの最近の著作『ポスト・ゲノム生物——自動組織とはなにか?』にみることができる。アトランは科学が哲学にあたえる影響力に感心をいだき、自動組織のモデル化の研究者として知られていて、「ときには複雑さをきわめるアリやミツバチの建築物」の建設のような社会性昆虫の「《知的》集団行動」に言及している。「群の知能は、単純な個体の群から発生する集団的知能」であることを想起させ、こうつけくわえる。「こうした集団行動を人間社会におきかえるには、個々の生態の個別的な行動にかんする仮説の批判的分析が欠かせないのはこのためだ。
 アンリ・アトラン自身が言っているように、すべての人間の行動がこの種の分析に適しているわけではない。個人の行動の多くは、「単純でもなければ、ありきたりのものでもない」からだ。けれど、こうしたモデルは、「たとえば、車の交通や群集の動きのような、人間の集団的現象」の研究には適している。」

(「第六章 戦いと同盟」より)

「自然の現実を記述し、社会的価値をあたえるのに、ふたつの方向がみえてくる。エコロジカルサービスという概念と、共通の遺産という概念である。いっぽうは経済の分野から借用したもので、もういっぽうは文化遺産の領域からきている。両方とも昆虫に非常によくあてはまるもだから、昆虫と人間によってひきおこされる飢餓や病気、あるいは、他の種の絶滅をまねきかねない種の繁殖を考慮すれば、無意味にみえるかもしれない。実際、昆虫とともに生きようと模索することは、蚊の命に人間の命と同等の価値を与えるということではない。それはただ最適な共存の条件を追加することであり、同時に、人間の歴史において、昆虫が、直接的または間接的に、ひそかにまたは劇的に、よい意味でまたは悪い意味で、はたしてきた役割、そして昆虫がもたらした新しい概念がはたした役割を考察の対象とすることである。」

(「第七章 標本昆虫」より)

「文化遺産としての価値をこえて、これらの標本のすべては生命の形態の多様性を研究するのに不可欠な道具となっている。これらの整理そのものが、種の分類の物質的裏づけである。多数の標本の収集はその重要性を失うどころか、ますます必要になってきた。種の内部における多様性の概念が、種の本質的特徴という概念にとってかわりつつある。昆虫コレクションは、異なる種のあいだの多様性と同じきくらい、それぞれの種の内部も可変的であることをしめす傾向にあるからだ。だが、コレクションの有用性は分類学に寄与するだけでなく、生物多様性のメカニズムの理解の助けになる。擬態はその一例だ。」

(「第八章 世界と環境」より)

「昆虫やダニやクモ類の命が、哺乳類に比べると、軽くみなされるのには、ふたつの論拠がある。ひとつはまったくの主観に属する。もうひとつは、客観性の外観をとる、実際、小型の陸生節足動物(昆虫、クモ類、ムカデ類、ワラジムシ類)と自分を同一視することの難しさは一種の思考のうえでの経験によるか——サイズや構造が違いすぎて、感情移入をしようにもしようがない——、もういっぽうでは、これらの動物は苦痛を感じないとする考えは、知的な推論にささえられていて、そこに介入してくるのは、観察と仮説である。」

「昆虫や、他の小型体節動物が、私たちにとって意味をもっていることは理解できる。けれど。こうした動物の行動と私たちの行動はとほうもなくかけ離れていて、私たちが感じとれるのは、つかの間の感情移入にすぎない。これに対して、脊椎動物、なかでも恒温性脊椎動物——鳥類ちょ哺乳類——は、私たちに共感をあたえるようなかたちで、感情を表現する。つまり、苦痛をあらわす。」

(「訳者あとがき」より)

「「昆虫の哲学」というタイトルは、いささか意表をつくような印象をあたえるかもしれないが、本書をひとことで要約するとすれば、古代から現代にいたるまで、人間が昆虫をどのようにとらえ、昆虫とどのように接し、どのようにかかわってきたかを、きわめて多面的な視覚から綴り、さらに、エコシステムの機器が叫ばれる現代において昆虫がはたしうる役割を示唆しようと試みるものである。
 昆虫観は文化によって異なるとドルーアン氏は指摘する。たとえば、江戸時代の歌麿の『画本虫撰』に象徴されるように、昆虫は古くから日本文化にとけこんでいて、それは現代にも引き継がれていると述べている。」

「本書は、昆虫をめぐって展開されたありとあらゆる論争について考察する。昆虫とはなにか、この単純にして複雑な問いは歴史的論争のまとになった点のひとつであった。アリストテレスはクモやサソリまで昆虫に入れていたし、十八世紀フランスの博物学者レオミュールは、ワニまで昆虫に分類することを提案していた。また、人間に比してはるかに小型なその存在は、スケール効果に関する議論のきっかけになった。ハチやアリの巣に君臨しているのは王か女王かも、さんざん論じられた謎だった。昆虫学者の文体はプルーストのような作家にも影響をあたえ、社会生活をする昆虫は、共和制、王制、奴隷制度、労働といった人間社会の制度をめぐる議論とかさねられ、その議論はカール・マルクスまで動員した。
 こうして昆虫学は生物学の他の分野はもちろんのこと、医学や物理学や数学ともかかわりをもってきたし、文学や芸術の着想の源となり、政治や哲学の議論の素材となった。現代では、昆虫学が提起しているのは、むしろ、生物多様性の問題、人間と他の生物が共存するための倫理的課題だろうと、著者は示唆している。そうした意味で、本書は、「昆虫にかんするエピステモロジーの書」とも言えるだろう。」

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