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偉くなることの目的

1.休めないのか休まないのか


組織に属していたサラリーマン時代。30年間同じ会社に勤務していることを疑問に感じたことは一度もなかった。かと言って大した忠誠心もなく、会社を大きくしようなんてベンチャー的な考え方も持ち合わせていなかった。
争って上に立つことに意味を感じていなかったのか、ただ自分の出来ることを繰り返していただけの毎日。でも、忙しいというよりも「充実」という言葉がフィットしていた時代だった。休まないのか休めないのか、そんなことを考える暇もない日々だったから、糸が切れてしまえば脱線が待っている状況で、よく30年も続いたものだと思っている。


2.周りの支えに気づくことのできる年齢


それが40代後半になると、周りが人を比較し始めている空気感に気づく。休めない日々から、少しづつ時間に余裕が出てくると余計なことを考えてしまうのである。しかも、走り続けてきた自分の手元に何も残っていないような錯覚にまで陥ってしまう。
そこで初めて気づくことがあった。自分だけが必死に走ってきたつもりが、実は周りの支えがあったからこそ、よそ見せずに走って来られたということが現実として見えてくる。そこに気づかなった自分が恥ずかしいような感覚になってしまうことがあった。
走る環境は自分で作った訳でもなく、あくまでも与えられた環境にあることの認識が欠落していた。人に与えられた場所で、人の目を意識せずに走ることが滑稽な気がしていた時期もあった。


3.必死に走る時間


偉くなろうなんて思って走っていたことは一度もないから、人に認めて欲しいという承認欲求もなかった。そんな事を考える余裕もなかったのかもしれないし、振り返ることもできなかった時代だった。
そんな時、自分の必死さに共感してもらえる人がいたことが唯一の救いだった。格好とかスピードとか過程を意識せずに走ってきた姿を見てくれていた人が本当の理解者がだった。自分が必要だと思ったことを信じて必死にやる、生きてるうちにそういう時間があるべきだし、そういう時間が人を成長させていくということ。


Retiro駅の周辺の様子


4.人間関係で偉くなっても何も残らない


組織が大きくなると、人間関係だけで偉くなれる(なってしまう)人が必ず存在するもの。そういう人がその立場を失った時の姿を想像できるだろうか。真剣でなりふり構わない経験のない人が偉くなると、必ずその先は行き詰まり人が近寄らなくなる。周りの支えに気づくことなく、いつの間にか自分の損得(出世)だけで立ち回っている滑稽な姿からは人は離れていくもの。自分が積み上げてきたものを伝える力のある人にこそ、偉くなった後の信頼が厚く、人が積み上げたものの上で偉くなった人の末路は、結局薄っぺらなままの一人ぼっちなのである。


5.必死の見極め


人生には必ず分岐点があって、必死にならなきゃいけない時期がある。その見極めができる人であってほしい。偉くなった先にある、楽ちんな時期があったとしてもそれは「終わりの始まり」なんだろうなって思うから。組織に属していれば、人間関係は切っても切れないものではある。でも、嫌いな人とのやり繰りに時間を割くくらいなら、自分が走るために何を信じるのかを見極めておいた方がいい、経験上からそう思っている。
パフォーマンスじゃなくて、人の真似とかじゃなくて、あとで振り返った時にきちんと理由のある必死な行動だったことが人に伝えることのできる人生でありたいって思うことが重要なんだなって思う。


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