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「日本に帰りたい?」の意味

Haruの通うインターナショナルスクール(小学7年生)でのエピソード。


1.学校で交わす会話のひとコマ

Haruのクラスには日本人がいない。ただ、日本語の授業があることでちょっとした会話は成立するけど、こちらから何かを伝えるレベルではない。
学校内には通訳替わりをしてくれる先生も存在していて、何か困ったことがあれば相談に行ける仕組みにはなっている。その方とは自然と話す機会も多くなり、何気ない会話をするようにもなってきている。


2.そこでいただく言葉

「日本に帰りたい?」と毎日のように聞かれるという。その通訳の方も純日本人ではないので、挨拶の取っ掛かりとしてお声がけいただいているだけだと思ってはいた。
13歳にすると毎日続くと「なぜ?」と思ってしまうみたいで、そんな事を思ったことも言ったこともないのにという自問自答モードに突入していた。まさか善意の言葉に困惑するとは思ってもいなかった。でも、日本語に触れる機会が減り、感性が敏感な状況でのこの言葉が染みてしまう感覚は何となく理解ができた。



3.あえて発しないまま今日まで来た

「日本だったらなぁ」と思うことは山ほどあった。でも、ここはアルゼンチンだからと二人で言い合ってきたからかもしれない。便利すぎる日本が特別で、アルゼンチンという現在地で自分を掻き立てていたんだと思う。
「帰りたいね」と話したことは一度もないし、日本を懐かしむことはあったけど、アルゼンチンの日々を振り返る時間もなく明日だけを見ながらもうすぐ半年が経っている環境なので、そういう感覚は全くなかった。


4.時間の経過が解決すること

1週間経つと1週間先が見えてくるし、1か月経つと1か月先が解るような気がしてくる。今が半年ということはアルゼンチンに来た1月に向けて、自分が今度の1月にどんな立ち位置にいるのかが見えてくる時期。
二人で話したこともない、「日本に帰りたい」というワードが日々の生活の中で、必要以上に心に刺さってしまうという敏感さに気づくことができた。
「日本に帰る」ことを二人で話す暇なんてないっていうのが、親子での無意識の共通認識。アルゼンチンで過ごす日々の中で、気候や気温・時間の使い方などの1日を有効に使っていくことをスケジュールしていこうって話しているところだから。


5.日本人であることの強み

自分で行動するということ。言葉の問題もあるが、どうしても思い通りの時間で予定が消化できないのがアルゼンチン。それだけはこの6カ月で身に染みてわかってきた。
人をあてにしない、と言うと語弊があるのかもしれないが、時間通りに自分の予定を遂行することができるのは日本の習慣でもあり日本人の良いところだし、それだけで大きなアドバンテージになると思っている。
時間に待ち合わせすると、5分前に着くのが日本人なら、その時間に家を出発するのがアルゼンチン(違うか?)。認識の違いをストレスにするのではなく、そこを強みに変えていこうって思うようになれたのが大きい。


6.せっかちのままでいい

日本でも相当なせっかち一家だった我が家。ただ歩くにしても子供のペースで歩くことはせず、子供が頑張って合わせるという歩調でここまで来た。
子供の荷物を親が持ってあげるのがアルゼンチン。我が家は小学生の低学年から「自分のことは自分でやる」ことに変わりはない。
自分の足で歩いてこそ身につくことがある。今はとにかく歩き続けることがこれからの半年をデザインすることになる。いい意味で日本人らしく、アルゼンチンで生きる術を作りあげていこうと思うんだ。


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