感謝の心が無い。

ふと、自分の数年前のことを思い出していた。

僕はいろいろな場所を転々としてきた。躁鬱なので病んで働けなくなって仕事をやめることが多かったのだ。学校だって、何度も行かなくなって…

そして今思う。
「僕って感謝の気持ちが無かったな」と。

そもそも、僕は「感謝感謝」とスローガンのように掲げている人が苦手だ。感謝できる自分に酔っているように見えて仕方がない

ただ、反対に僕のように、何に対しても感謝がない人間も多いに問題である。それは自覚している。

「ありがたい気持ち」というものがなかった

まず、どうして僕には感謝というものがないのだろうか。ありがたい、ありがとう、感謝しています……礼儀として話すことはできる。僕はありがとうございます、と言えない人ではないのだ。
ただ、僕は本当に社交辞令で上部だけで、なーんも心がこもってない、その場で「こう言えばいいんだろうな」という感覚で、
「ありがとうございます〜」と、にこにこしてるだけなのである。

なにも、ない。僕にはまったくもって心の奥底から他人にありがとうなんて思ったことが無かった。だからこそ、余計にありがとうやら、感謝やらを繰り返し述べる人が胡散臭く感じたのだ。自分が、感謝をできる人間ではないから。感覚を知らないから。だから、僕と同じように上部だけで、何にでも感謝できる優しい自分に酔ってるんでしょ、と勝手にそういう目でしか見れないのだ。

話を戻そう。どうして僕は感謝できないのか。
その場で「そう言えば丸く収まる言葉」としか思えないのか。
生育歴だろうか。発達障害も関係しているのだろうか。

調べたらなるほどって思える記事が出てきた。

その中で感謝できない人は脳機能が低下していて、こんな人が脳の機能が低下する、とある。

・生まれつきその能力が非常に乏しいタイプの人
・不適切な育児によって共感能力が非常に低下している人

僕だ…!
発達障害である僕は共感能力がまず低い。他人に興味がない。
かつ、僕の家は家庭環境が良くない。
どちらも、だったのだ。

納得できた。
だから、今までの人生、何をされても感謝という気持ちが湧かず、なにもかもがどうでもよかったのか。他人に価値を思えなかったのか。
もちろんこれは、自分の自尊心が低くて自分がとんでもないメンヘラだったから、というのもある。

最近変わってきた

いつだったか。最近なんだが、ぽろりと涙が出た。
僕って幸せ者なんじゃないか、と。

全然なにも良いことがあったわけではない。
毎日鬱だし、体は怠い。しんどい、気持ちが落ち込む。それを無視して前を向いて、唇噛み締めて、泣きまくって。悔しい気持ちになったり、情けなくなったり、虚無感だったり。羞恥心もあったり。
結果を出してるわけじゃない。出しても褒めてくれる人はいない。ちょっとした結果を家族に見せても、別の人の話題になって、
やはりうちの家族は僕を手放しで「すごいな!」と言ってくれる人はいないのだ。

ただ、僕は家族からいま、働けと言われてるわけではない。言われてるのは薬をやめろという、そんなことしたら僕はまたおかしくなるからやめないし病院にも通うんだけど、それを強制的に邪魔されているわけではない。
絵を描くことを否定されているわけではない。やめろ、と言われているわけではない。
ある意味、放置。

でも、過干渉で育った僕には、なんてありがたいことなのか、

そう思ったら、涙が出た。
やっと、自由にされてる。手助けが必要ではなく、自分がやりたいことに、手出し口出しをされていない。やっと、やっと。

やっと、好きに絵を描けてるんだ。許されているんだ。お金にもならない。むしろ家族にお金を払ってもいない、何も手伝えるわけでもない(むしろ手伝うと母が怒るのでやれない)

家族は僕を見限ったのかもしれない。
好きにさせろ、ほっとけ、未来なんかない。
そんなかんじで見捨てたのかもしれない。

それでも、家にいれて、絵を描けて。
それだけで、僕って幸せ者じゃないのか。

初めて僕は感謝ってものを知った。
さっきの引用した記事の中に書いてあるように、家族がどれだけ家の家賃を払って税金も払って、ガス代や電気代、水道代。それから食費。他にもかかるお金がある中で、
僕には一銭もお金を要求してこない。
それでも、いて、いいんだ、って。

やっと見えた気がして。
やっと、他人の努力やらが見えてくるようになってきて、具体的な想像ができるようになった。

もちろん、家族に対するいろんな感情はあるけれど。それでも、今否定されてない、攻撃されてない事実にほっとしているのも事実だ。

関わると、怒られたり理不尽なことを言われたり、理解できないことを言ってくる人たちだけど、

この家に放置されて、居場所があることだけは、感謝できた。

そのあたりというか、やはり、他人の努力を理解できるようになったあたりから、僕の見る目線は変わったと思う。

他人が尊く、自分も尊い。
自分の努力も結果が出てなくても、蔑ろにしてないし、他人も努力してることを理解して。
他人もすごい、僕もすごい。それを理解できるようになってきて。
そこから感謝ってものがじわじわ芽生えた気がする。上部で、その場に合わせた言葉をとりあえず発してるんじゃなくて。
僕のためにここまでやってくれてる、の過程を想像できるようになったというのかな。さっき引用した記事の通りで言えば。

たぶん、この、「僕」にいままで価値がなかったから、想像できなかったんだと思う。僕というものは価値が無く、価値のないものに費やす人たちも価値がない。だから、僕は想像できなかった。

そういう意味では僕はたしかに自尊心を獲得し始めているんだと思う。

まだまだ鬱だし、何もできなくて毎日が泥沼だけど。それでも、それでも確かに成長している自分を認めてあげたい。

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