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やよい軒とニーチェ

「おかわり自由」をテーマに文章を書こうと思うくらいには「おかわり自由」が好きだ。

絶対もっと良いテーマがあるような気もする。おかわり自由はお茶の間とも若者の流行りともかけ離れている。ずっと流行っている割に、みんなが話題にする言葉ではない。

いま茶の間で人気の人と言えば、なんだろう。まだ米津玄師か。ギリおかわり自由と関係ありそうな名前だな。米だし。僕はviviが一番好きだ。あんなに良い曲はないよ。悲しい別れの歌だ。人間関係もおかわり自由だったらよかったのにな。


19歳。僕は若者だった。生まれてこの方驚き続けたご飯のうまさにようやく慣れて、食も単純作業になろうかという頃。若さとか賢さとか強さとか、有限のものばっか信じていた僕は都会に出た。そしてやよい軒に目を丸くすることとなる。

味の濃いおかずと美味しい白米。薄利多売の極地のようなコストパフォーマンス。そして何より、おかわり自由。無限なのだ。サイコーだ。

僕の田舎では「ご飯のおかわり自由」なんて、いつどこがやってるかも分からなかった。そもそもそんな店が近くになかったのかもしれない。それがなんだ、やよい軒はいつでもどこでもおかわり自由じゃないか。

おかわり自由の絶対王者、やよい軒。食のバランスブレイカー、やよい軒。駅前のモンスターコンテンツ、やよい軒。おかわり自由の素晴らしさを崇め、それを広く布教する宗教法人だと言われても驚かない。

現にやよい軒の存在により、大学生時分の僕は「おかわり自由」に取り憑かれた。券売機に寄附金を。ご馳走を賜る。ご利益が即時だなんて霊験あらたかにも程がある。


半年ほど前か、やよい軒がおかわり自由をやめるとかいう噂を聞いたとき、僕はニーチェの「神は死んだ」という言葉を思い出した。

どうかしている。よく寝た方がいい。ニーチェとやよい軒はどうなったって出会わないくらい遠くにある言葉同士だ。いやまあ、ニーチェの「神は死んだ」が、原典をきちんと解釈したら「やよい軒がおかわり自由じゃなくなること」の予言だった可能性はある。でもニーチェがそんなお気楽な奴なら、あんなに髭を伸ばさない。よって僕が悪い。

おかわり自由をやめたらしいやよい軒へ、僕の足が向かうことはなかった。

しかし、こないだ確認したところ、やよい軒では今もおかわり自由を楽しめるとのことだった。死の後に復活したというのか。いよいよやよい軒とキリストがダブって見えてくる。こうなったら行くしかない。


そして僕はやよい軒へ向かった。数ヶ月前のことだ。しかしそこで、悲劇に直面した。僕はおかわり自由を、かつてのようには楽しめなかったのだ。

あんまり食べられなくなった、とかじゃない。ちょっと気を遣ってしまうようになっていたのだ。


「ご飯のおかわり自由」とは何か。その本質は、そしてその魅力は、「限られたおかずを用いてどれだけの白米を食べられるのか競うゲーム性」にある。

やよい軒のおかずは何も考えずに食べていたらご飯1.5杯で枯渇してしまう量だ。それをうまいことやり繰りして、3杯、4杯、5杯と食べきることを誇るゲームこそが「ご飯のおかわり自由」なのだ。力への意志を忘れるな。食こそがパワーだ。僕も歴戦のおかわり超人だ。5~6杯くらいのスコアをコンスタントに残してきた。


しかし数ヶ月前のあの日、気付いてしまったのだ。

自分が大人だということに。

僕は呆れるほど確かに大人だった。成人式で偉い人が「20歳だから大人の自覚を持って」と言っていた。その言葉が必要だったのは、僕たちが大人とも子どもともつかぬ曖昧さを、まだ持っていたからだ。いま僕にそんなことを言ってくれる奴はいない。嘘みたいにはっきりと大人だ。

そうなってくると、「ご飯をいっぱい食べる」という行為はもうだんだん恥ずかしい。たくさん働く大人は偉い。いいことを言う大人は偉い。そしていっぱい食べる大人は、いっぱい食べる大人だ。間抜け過ぎる。

ご飯をおかわりしようと立ち上がったときだ。「え、大人なのに?」という声が頭をよぎった。それも、ギャンギャンにディストーションのかかった轟音でよぎった。それは容易に食欲を蹂躙した。


ああ、もう断言してしまおう。認めるしかない。僕は大人だ。大人になった僕とって「やよい軒のご飯のおかわり自由」とは「自由」ではない。

「ごはん2杯」のことだ。

1じゃないの?1じゃない。2だ。脳内ハードロックバンドに蹂躙された最悪の食欲で、しかし僕は2杯目を食べた。なぜ最悪の食欲でなおも2杯目を食べたのか?これもやはり、僕が大人だからだ。

「ご飯のおかわり自由」と言われている手前、「ご飯一杯」では堂々と帰れない。大人ならば、その辺の空気を読まなきゃいけない。やよい軒に入った時点で、「1」はハナから許されないのだ。

そして「3」以降はさすがに恥ずかしい。大人の僕にとって「自由」とは「2」だったのだ。

こうして神は死んだ。殺したのは僕だ。あるいは時間の流れだ。ニーチェの言葉は半ば当たっていた。大人になったばかりに、僕がおかわり自由へのニヒリズムを抱くとは。今度やよい軒に行ったら、勇気を出して3杯目を食べ、もう一度神を復活させたい。


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