エンニュイ「無表情な日常、感情的な毎秒」観劇レポ

エンニュイ「無表情な日常、感情的な毎秒」

1 本作の概要

「無表情な日常、感情的な毎秒」は、長谷川勇貴主宰の劇団「エンニュイ」による演劇公演である。「エンニュイ」とはエンジョイとアンニュイを掛け合わせた造語であり、ピースの又吉直樹により名付けられたものである。

本作は「芸人が一年かけてネタを叩き続けるように、同じ戯曲をずっと叩いて強化してみたらどうなるのか」という試みから生まれた実験作であり、2021年2月より、12か月かけて進行していく長期プロジェクトだ。

■ 原作・演出
長谷川優貴

■ 出演
青柳美希
荒波タテオ
浦田すみれ
小林駿
長井健一
ヨシオカハルカ(演劇ユニットRe-birth)

本記事は、本作の2月段階でのゲネプロ公演を受けてのレビューであり、一年にわたって展開される本作の長いストーリーの、ほんの、ほんの端っこをつまんだだけのものに過ぎない。きっと本作は、僕の現在時点での理解を超えて、変幻自在に進化していく。その行く末を僕自身見守る決意として、あるいは2021年2月時点での参照点として、この文章を残しておく。


2 はじめに───漫才コントの暴力的自由

本作について述べる前に、手始めに漫才の話をさせてほしい。演劇公演のレポを書く上で何が漫才だと思われるかもしれないが、無関係ではない。

M-1グランプリ2020が終わった直後、「漫才の定義」に関する議論が巻き起こった。あれは漫才なのか否か、あの何周目かもわからないような堂々巡り感は、まだまだ記憶に新しい。今さら触れたい話題でもないのだが、本作はあの話と無関係ではない。

今一度、漫才における「しゃべくり漫才」と「漫才コント」の分類について確認しておこう。

まず、素の二人が終始そのまま日常会話のように掛け合う漫才を、一般に「しゃべくり漫才」という。一方で、漫才の中で設定を伴った役に入り、何らかのロールプレイを行うことを、一般に「漫才コント」という。そして昨年末から続いているのは、「漫才コントはコントではないか」という議論だ。

この議論は、何も最近始まったものではない。10年以上前から、波打つようにたびたび話題になってきた。厄介な話ではある。ただ確実に言えるのは、漫才コントは漫才から生まれたものだということ、そして漫才コントをしている人間が漫才師であるということだ。(不思議なことに、そこが疑われているのは見たことがない。「あれは漫才じゃない」と言うなら、「あいつらは漫才師じゃない」まで言えばいいのに)

それにしても、なぜ「漫才コント」は疎まれるのだろうか。色々な回答がありうる。「しゃべくり漫才こそ漫才」という伝統や権威があるから、とか。漫才というジャンルの自立性を守るためにも、コントとの線引きを明確にしたいから、とか。

いずれにせよ、背景に「漫才コントは楽そう」という固定観念が働いていることは、まず間違いない。しゃべくりに比べるとなんだか簡単そう。なんか邪道っぽい。なんだろう、楽そう。

実際どうなのか。そりゃ常識的に考えて、漫才コントを作ったり演じたりするのが他に比べて楽なわけはない。そんなはずはない。しかし一方で、漫才コントはちょっとズルいというか、あまりにも柔軟で融通の利く、「強すぎる手法」であることもまた事実だ。

考えれば考えるほど、漫才コントとはとんでもない手法だ。

「漫才」とは、しゃべくり漫才であろうが何であろうが、そもそもが演じられたものだ。「漫才コント」はその中でさらにもう一つ何かを演じるため、構図としては単なる「劇」ではなく、「劇中劇」に近い。この点において、単なる「劇」であることがデフォルトの「コント」とは明確に区別される。(漫才コントが漫才かどうかは知らないが、少なくともコントとも違う)

ただし、「漫才コント」は純粋な「劇中劇」でもない。漫才コントは劇中劇に入る・出る際の手続きをすべて詳らかに見せる。そのために、劇中劇を始めてもなお、劇のレイヤーも維持し続ける。

分かりやすい例でいえば、人気漫才師・EXITが仮に寿司屋の漫才コントに入ったとして、それは「寿司屋」でありながら、同時に「寿司屋を演じるEXIT」でもあるということだ。観客は一つの場面について、「劇次元」としてのEXITと、「劇中劇次元」としての寿司屋を同時に眺める。つまり、漫才コントは「劇かつ劇中劇」として観客に提示されるのだ。「劇かつ劇中劇」という響き、「2.5次元俳優」くらいよくわからん。あまりにも手法として浸透し過ぎていることで我々は麻痺しているが、本来「漫才コント」とはかなり複雑怪奇な演芸なのだ。

そしてそんな複雑な手法を取るからこそ、「漫才コント」では「コント」でやると不自然になりかねないことを、自然にやれてしまう。

分かりやすいところでいえば、「さっきのシーンもう一回やって」をさも当たり前のようにやれるのは、漫才コントの特権だ。あるいは、「じゃあ次、俺が店員やるから」なんて風に役柄を急に交代することだって許される。

知らぬ間に時間が流れていたり、場面が変わっていたりしても大丈夫。「駅着いたね」と言えば駅に着くし、「海だ」と言えばそこには海があるし、「やっぱ川だった」と言えば川だったことになる。漫才コントには、暴力的なまでの自由度がある。

さらに、漫才コントには演出上の効果も存在する。すなわち、「いま喋っている人物は劇中のキャラクターなのか本人なのか」だとか、「いま喋っているセリフは台本なのかアドリブなのか」だとか、虚実の境界を曖昧にする効果がデフォルトで備わっているのだ。

「虚実を曖昧にする」だなんて、「しゃべくり漫才」や「コント」では相当工夫しないと成立しない効果だ。あるいはそれを成立させられたとしても、その効果に引っ張られてネタを進めるのが難しくなることだってある。そんな扱いの難しい特殊効果を、「漫才コント」は初期装備しているのだ。あまりにも恐ろしい。ふだん「コント」をしている身としては、羨ましいと思う部分がかなりある。漫才コントは恐ろしい。


3 漫才コントと演劇の出会い───手法の導入とその効果

さて、やっと本題に入れる。前段で述べたような、漫才コントの持つ演出上の圧倒的ポテンシャル、暴力的なまでの自由度、それを輸入した演劇が本作「無表情な日常、感情的な毎秒」だ。作・演出を務めた長谷川優貴は、お笑いコンビ「クレオパトラ」として長く活動しており、実際に漫才コントを演じた経験も豊富だ。本作には、その蓄積が存分に発揮されている。

本作は、「自己紹介します」「芝居をします」だなんて、虚も実もへったくれもないほどにゆるっとはじまる。舞台上で6人の役者が順繰りに喋っていくが、きわめて日常会話に近いノリだ。誰か1人の発話に対して、他の5人は思い思いにリアクションする。声がぶつかることもあるし、リアクションがまとまらないこともある。特に中身があるわけでもない。それは、我々が普段している不毛な会話そのものだ。

次第にターン制も消失し、ごくごく日常会話をしているだけに見え始める。6人の会話の輪に、自分も参加していい気さえしてくる。「それ知ってる知ってる」とか「えー」とか「え、本当はどこ出身なの?」とか。本当に他愛もない言葉を挟みたくなる。

しかし、徐々に話題の輪郭が見え始める。登場人物のうち一人が恋愛相談を始めるのだ。それもそれで他愛もない話なのだが、5人は集中してその話を聞く。「どうやら、何かが始まるぞ」と僕も構える。日常会話から話題が抽出され、その場にいる全員の視線が一人に集まるあの感じ。そうか、この話を主軸に進めていくのかな…と思ったところで、急に、急に、急に、

「じゃあ、俺○○やるからお前○○やって。シミュレーションしよう」

漫才コントが始まるのだ。

僕はびっくりした。めちゃくちゃ漫才コントじゃん、と。しかも漫才コントにしても、「そこまで丁寧に入る?」というくらいの、ド直球の漫才コント。そう、ここに至るまでの日常会話のようなトーンの何気ないやり取り、それらはすべて「前説」「フリ」だったのだ。

そこからは変幻自在、漫才コントの最大の強みである「誰が何をやってもいい」そのものな展開のオンパレードが続く。何をきっかけに話題が移ったんだっけ、何をきっかけに場面が移ったんだっけ、そんなことを考える間もなく、6人のうち誰かを中心とした複数の場面を行き来していく。だって漫才コントだもん。「居酒屋だね」って言えば居酒屋になるんだもん。照明や舞台装置を駆使しながら、場面は次々と動いていき、さながらイリュージョンのよう。

それぞれの場面は会話劇であったり、独白めいていたり、微妙にひな壇テイストだったり、やはり変幻自在なのだが、どれも現代的・時事的なテーマと接触していく。

新しい時代が来るらしいよ。今の時代は終わるらしいよ。テクノロジーが進化しているからね。どんな変化が起こるんだろう。人間って何だろうね。心って何だろう。コミュニケーションって難しいね。飲み会が苦手なんだ。スピリチュアルに系統する人。おかしくなってしまった友達。現代のSNSのコミュニケーション不全な状況を象徴するようなカオティックな盛り上がり。

それらはまさしく我々の日常会話のスケッチであり、一つ一つが「あるある」的な角度を持ったものであり、めまぐるしく動いていく現代そのもの(より正確には、我々が普段見ているような現代そのもの)である。

さて、そのように「漫才コント」に始まって、それ以降怒涛の展開を見る本作において、一つ重要なことがある。それは、「漫才コント」が演出・導入には明確かつ意識的に用いられている一方で、漫才コント的な「ボケ」「ツッコミ」はまるで強調されていないということだ。

むしろコテコテの「ボケ」「ツッコミ」は意識的に禁欲されている。それぞれのシーンの広げ方、展開の方法、山場の作り方など、随所の手触りは演芸的ではない。むしろ、極めて演劇的である。

すなわち、本作は「漫才コント」ではない。「漫才コントと演劇を折衷したもの」でもない。「漫才コントの手法を参照した演劇」であるのだ。

したがって、場面の全てには、漫才コントが持つ演出上のポテンシャルがこれでもかというほどに発揮される。「これどこまで台本なんだろう?」「このセリフ言ってるのって役の中の人?それとも本人?」という問いが頭の中に浮かんでは消える。

このとき、話題が極めて時事的であること(それも、身近な生活の観測範囲における時事であること)が極めて有効に働く。舞台上で役者が発しているはずのセリフが、「あれ?もしかしてこいつ本当にそう思ってるんじゃないか?」「こいつこういう奴なんじゃないか?」と思わせるほどの説得力を帯びるのだ。

おかげで僕は観劇の結果、役者6人のうち3人を好きになり、3人を嫌いになってしまった。身近にこんな奴いたら仲良くしたい・したくない、くらいの意味合いにおいて、である。

この後味、何かに似ている。そうだ、漫才コントの後味だ。人気漫才師・和牛の名作「結婚式を抜け出す花嫁」を観た後の「うわー、マジで嫌な奴だな」感といえば分かりやすいだろうか。漫才コントが持つ、あの「人」についての説得力が演劇と融和し、役者から生身の人間らしい波動が伝わってくるのだ。そして、そんな生身の人間たちが、身の回りのことをああだこうだ言う。そこに、本作のテーマと手法の相性の良さが存分に発揮される。


4 今後の可能性───1年後の役者たち

そんな本作が、ではこれからの一年で、どう変わっていくのか。本作は、時事的な話題をもとに、時代の転換点とそれに直面した人間を捉えようとしている。そして、そのために最もふさわしいであろう、「漫才コント」という非常に優れたエンジンを搭載している。

あとは、あとはこれからの一年に何が起こるかだ。現行の感染症対策は終局するのだろうか。五輪が開催されるのだろうか。政治や経済にどのような問題が発生するのか。科学は何をもたらすのか。どんな歌や言葉が流行るのか。我々に降りかかるこれからの12か月が、本作の一つ一つのセリフにさらなる文脈を与えていくはずだ。

そしてそのとき、役者の一人一人がそれらをどう体験し、何を思い、何を考えるかだ。彼らには一体どんな一年がやってくるのだろう。そしてどんな思想が、経験が、学びが、気づきが、忘却が、諦観が、希望が、失望が、現実が、幻想が、暮らしが、食事が、睡眠が、性愛が、作為が、無作為が、蓄えられるんだ。ロングラン公演として見たときの本作は、作品の成長過程であると同時に、あるいはそれ以上に、6人の役者の成長物語であるようにも思える。

どういう風になっていくんだろう。ある種の人間力依存、そしてランダムに訪れる出来事と世情に左右されるであろう内容。日経株価みたいな公演になっていくのかもしれない。「一年かけてたたく」という実験的コンセプトとも非常に相性がよく、この12か月とともに大きく動いていくのだろう。何になるとも分からぬ生き物の胎動を見た思いがした。


(以上、すべて敬称略)

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