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「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」の女性描写が気になる年になってしまった

私とエヴァンゲリオン

ついに公開の「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」。

「これ、ウダウダしていると、ネタバレに遭うな」と思い、大急ぎで鑑賞して来ました。

以下、極力ネタバレを避けて、感想を書かせてもらいます。

「エヴァンゲリオン」がTVシリーズで放映されていた時は大学生で、最初の数話は見逃しましたが、ほぼリアルタイムで夕方に見ていました。ビデオテープに録画して、擦り切れるほど・・・・・ではないにしても、何度も見返して、「これは、どういうこと?」「ここは伏線?」「この単語って、なに?」と頭を悩まし(今と違ってインターネット黎明期だから、解説サイトなんかなかったんですよ。もっともネタバレ回避も容易だったとも言えますが)、テレビ放映とは思えない超絶クオリティの作画を楽しんでいました。(難解な設定でありながら、説明は最小というのは、製作者側としては、複数回見られることを想定していたんだろうなぁ)

で、すっかりハマってしまい、第弐拾弐話でアスカが追い詰められて、第弐拾参話で綾波の爆死からのクローン発覚、第弐拾四話でラスト間近なのに新キャラ・カヲル登場で直ぐに退場、おいおい、後二話で、どうやって話まとめるんだよ!? とボルテージも最高潮で、第弐拾伍話放映。「はぁ?」という驚きと、でも後一話残っているし、と恐れと期待で迎えた「最終話」は、最早伝説となった自己啓発エンドで、劇場版の制作が決まっていたので、「待つか」という気持ちにもなったけれども、いざ、公開されると、これまた、ほとんど総集編で、新作はわずか。「エヴァシリーズ・・・完成していたの」というラストでのアスカのつぶやきが印象的でしたが、観客たちは「おいおい、完成してねーよ」とツッコミを入れたものです。さんざんに焦らされて、ようやくの完結編は、TV版の最終回ほどではないにしても、なかなか独創的。エヴァによる派手なバトルを期待していたけど、内面の葛藤を実験的な表現で描くシーンが多くて、ラストも、どうとでも解釈できるような難解なオチで、面白く見れたことは事実にしても、素直に、「ありがとう」とは言い難かった。

さて、新劇場版

さて、新劇場版。
「序」「破」くらいまでは、細部に違えはあれども、旧作を現代のクオリティで再構成したという映画でしたが、三作目の「Q」は、かなりぶっ飛んで、ついに公開された完結編。

・・・・・・うん、まずね、「エヴァンゲリオン」ですから。やっぱり、訳分からないですよ、ぶっちゃけ。

過去作に比べると、けっこう、ちゃんと説明してくれるんですが(逆に、今作は、説明台詞が多過ぎると思えるくらい。最後の最後で焦ったのか?)、それでも、情報量が多くて展開も早いので、やっぱり訳分からんです。

でも、基本線としては、世界の破滅(昇華?)を防げるかどうか、という戦いで、そこさえ押さえていれば、まぁ、なんとなくは楽しめると思いますし、最終的なオチにしても、「旧作とは違うと言えば違うけど」という感じで、むしろ、落着点に関しては、今回のシリーズの方が、分かりやすいかな?(「分かりやすい=良い」ということではないですが)

父との関係

旧作との違いを指摘しようと思えば、いくらでも指摘できるし、それこそ、「ネタバレ」になってしまうので書きませんが、それでも、一つ重要な点としては、最後の最後、主人公と父親の関係については、ちゃんと踏み込んで描写したことは今回の特徴だろうなぁ(しかし、設定の難解さに比べて、この人物描写・関係性は平易ね・・・・)。

旧作でのオヤジは、最後けっこうあっさりと終わってましたが、今作では、たっぷり時間を取って過去・内面の描写がされており、より「ダメ人間」な側面が分かるようになっています。

ちょっとしたネタバレになってしまうのですが、旧作にしろ今作にしろ、結局、碇ゲンドウって、「自分が変わることを拒否」でありながら、「無条件に自分を受け入れてくれる女性」を求めていたわけで、どんなに言い訳しても、どんなに美しく描いたとしても、「駄々っ子にとっての寛容な母」という、セックスが出来るか出来ないかの違いはあるにしても、「都合の良い母性」を永遠に探し歩いている男なんだよね。(碇ゲンドウによる、綾波・アスカの扱いは、完全に「道具」だし。)

で、そんな父親の息子ですから、「父親を修正」か「父親を超克」の、どちらかでなければ物語はキレイに終わらないわけで、もちろんのこと、自分は、父親とは、違う選択をしなくてはならない。
今回の物語序盤では、アムロ・レイから続く伝統的なネガティブモードの碇シンジだったけど、終盤からは、綾波に対しても、アスカに対しても、「男らしい」わけじゃないけど、それなりに立派な選択をしていたかな・・・・?(まだ一回見ただけなので、確信は持てないですが)

ただ、母親との関係は、うーん、そうか、そうですか、そうなりましたか・・・・と思わないでも。(母親の視点からしたら、その選択は当然なのかもしれない? でも、やっぱり、男性視点のご都合主義の臭いは消えないなぁ、今回も)

母、少女、女

「毎度でしょ!」とツッコミを入れようと思えば入れられるのですが、しかし、今作は、より「成長」「成熟」が重視されていました。
庵野秀明監督にとっては、代表作であるけれども、呪いでもある「エヴァンゲリオン」ですが、主役も、どうにか大人になれたようで、監督としても、これで、ようやく足を洗うことができるんじゃないかなぁ~と思うような、すっきりとしたラストであったのは事実です。

アスカや綾波といった少女に頼るだけの少年ではなくなった、めでたしめでたし・・・・・、それは、そうなんだけれども、でも、やっぱり触れざる得ないのは女性キャラの描き方。

極論すると、ほぼ全ての登場人物たちは、碇ゲンドウ・碇シンジの壮大な親子喧嘩に巻き込まれたと言えるんだけれども、アスカ・綾波に限らず、マリ、ミサト、リツコ、マヤ、さらに今作では、名前はあるけど、モブキャラみたいなもんか? と思われていた女性キャラが話の筋に絡んで来たりして、少年が主人公で、なんだかんだ言っても、男性向きの映画なんだろうけど、脇で活躍するのは、女性が多いんだよね。
全部が全部、主人公にとって都合の良い女性って訳ではなないし、銃後で控えているわけではなく、マリやアスカなんか、むしろ主役よりも戦闘シーンでの活躍が多いし、それぞれに理由があって戦いに参加している。

その点は、気にはならないのだけれども、ビジュアルとしての描き方は、・・・・うーん、「都合の良い母性」から脱却するどころか、むしろ、どっぷり浸かっているのが、気になると言えば、気になってしまった。

個人的な嗜好では、アニメ絵に拒否感はないし、カワイクてエロい、またはエロくてカワイイのは、別に結構だと思うんですが、「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」は、特にサービスシーンが多かった。
アスカの私服は、ほとんど半裸だし、女性に限ってケツからのアングルは多いし、綾波は風呂に何度も入るし、マリのおっぱいは案の定揺れるし、それどころか自ら巨乳アピールするのは、いかにもアニメ・マンガに登場する(男性が創造した)女性だよなぁ・・・・。
宇宙空間におけるアスカとマリの浮遊シーンは、なんとも艶かしくて、うーん、まぁ眼福とも言えるのだが、深夜の知る人ぞ知るというマニアックなアニメ作品ではなく、「エヴァンゲリオン」の新作となれば、あらゆるメディアで喧伝される大作なんだから、こういう少女愛で揚げ足取られるのはもったいないし、そもそも、「成長」「成熟」が重要な主題なのに、女性描写が少年誌のお色気と大差ないというのでは相反するわけで・・・・、でも、まぁ、「それも含めてエヴァンゲリオンだ!」と言ってしまえば、そうなんだけど。

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