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ハンドルネームがごっくん

 これはいわゆる無駄話、おやつタイムの雑談として読み流していただければ幸いである。近年の若年層にとってSNSは切っても切り離せない繋がりを持つようになり、アスリートは否応なしに自分に対する評価を際限なく目にする。仮に一切インターネットを見ないようにしてもその巨大空間の中にそれらの文言が存在し、増幅し続けているだろうことは無いことにできない。一方で、自らを応援してくれる人々の実在も感じやすくなり、激励のメッセージを受け取ることも多々あるだろう。自分を認めてくれるのではないかという期待が、インターネットからの個人の分離を困難にさせる。現実における自分とインターネットにおける自分の「名前」が一致している人々にはそのような葛藤がある。

 では、そうではない人々——つまり、現実で生活している自分とインターネット上の「名前」が違う人々はどうなのだろうか。インターネットから自分を分離し、「それはそれ、これはこれ」と認識することができるのだろうか。結論から言えば、それは難しい。SNS上の自分も間違いなく現実で生活する自分の一部として生まれ、インターネット空間で「生活」している存在であり、ぴったりと癒着している。現実の自分とSNS上の自分は管理・被従属の関係にあり、安定してその状態であることが望ましい……はずなのだが、そうもいかない場合も多い。そしてそれが個人にとっての問題になる。
現実の自分とは違う、インターネット上の自分の名前をハンドルネームと呼ぶ。一般の人々は実名ではなくハンドルネームでSNSをすることが多い。そうではない人もいるが、それは危機管理やメディアリテラシーについての知識が薄いか、仲間内のみに限定した輪の中でのみそうしているだけで、特にこんなことを唐突に書き始めるSNSヘビーユーザーは大抵の場合ハンドルネームを持っている。


 ハンドルネームは実名からエッセンスを抽出して作るもの、実名とは無関係になんとなく思いついたもの、実名とは無関係にしっかり考えて作るもの、がある。多くの人は②であり、ハイフンやアスタリスク含めて名前になることもある。イラストレーターや歌い手、バーチャル系配信者に多いのは③であろう。凝ったネーミング、ありそうな苗字、逆に全く存在しないような特徴的な苗字、私の知るシンガーには“名無し”という概念の名前の人もいる。(本当にユーザー欄が空欄であり、YouTubeの投稿者名もどういうわけか空白で、アカウントコードすら特に意味のない顔文字になっている。そのため、検索によって出すことはできないが、非常に高い歌唱能力を持つためオススメ機能によってある日突然出現し、人気を獲得していった。歌い手 名無しと検索すると彼?彼女?についての記事が出てくるため、そこからチャンネルに行くことができる)


 私もハンドルネームを持っていて、かつ②のタイプである。最初は他の人が書いた漫画や小説を読んでいただけだったが、次第に私も何か作品を投稿したいと思うようになっていった。そのため、「そこに時計があったから」程度のノリで登録した名前で今や50本以上の何やらを書いては描いては投稿している。創作は、周囲の人に見せる・自己完結させる範囲でやっていたのが二年、ぽつりぽつりと投稿をしていたのが二年、そこから他の人の作るものに集中していた時期を数年挟んで、去年から本気でやり始めた。どうしたらいいものになるか・自分の思っていること・表現のために必要な技術の練習を織り込みながら作り続けていくと、ありがたいことに、いつの間にか私の作ったものを好きだと言ってくれる人でそのハンドルネームの人は囲まれ、私は一定の承認を得た。私の作るものを見ていいねを押す人、コメントをくれる人、感想文を送ってくれる人(!)は私の顔も本名も服装も知らない。作品を認められることは、「外見じゃなくて内面を見て認めてほしい」という学校生活や社会ではなかなか実現不可能なよくある願いを本当の意味で可能にする。これは、実際の自分とインターネット上の自分の名前が一致している人には与えられない利用結果である。


 アスリートがタレント的役割を持たされて書かれた記事、努力ではなく容姿に社会での評価が左右されること、「顔はいいのに下手」「上手いけど顔が残念」そういったどうしようもなく人間に備わる根源的欲望に強く結びついている「外見」、それによる支配と束縛を実感するたび辟易する。うんざりするのだ。そして自分もまたそうであることにげんなりする。変えようがないからこそ。いくら素晴らしいことをしても、それが美しい人によってのものか、そうではない人によるものなのか、性別、人種でも評価は変わるのだ。同じ結果、同じ行いであったとしても。顔は変わらない。手を加えたとしても、人が価値を感じるのはそのヒトが遺伝子上に持つ外見情報であり、それが優れているか劣っているか——言い方が悪い、社会において有利であるかが肝要なのであろう。人が原始から続く方法で殖え未来をつなぐ動物であるかぎり、諦めるしかないことだ。


 しかし、感染症による影響で、一定深度未満の人付き合いであればルックスによる競争は表面上やわらいでいるようにも感じる。確かに目も外見には入るだろうが、まぁそれほどの差は発生しない。それでも競争の場に身を置く人々はアイメイクをして武装する。私は彼女たち——最近ではメンズメイクというものもあるようだが、含めてそういう人々のことが本当にすごいなと思う。素直に感嘆する。髪を茶色に染めて肌のコンディションを常に整え、高い粉で顔を白くし、技法を動画サイトで研究して目を少しでも大きく見せ、異性に好かれるような言動をし、そのような場に準備をして赴き、しかし「やっぱり本当の美人は化粧しなくても映えるもんだな」などと耳にする、そんなところで私は生きられない。最近の大学の恋愛は、良さげな雰囲気の人にマスクありで目星をつけ、恋愛対象とするかどうかを食事に誘った後で判断するのだ。好きな人を食事に誘う、のではなく食事に誘ってから恋愛対象とするかどうかを決める。コロナ以前とは真逆で少し面白い。


 話を戻そう。こうしてみると、顔や外見を介さずに人と接することができるSNSは理想的であるように思える。だが、そういう役割におけるインターネットにも問題はある。
それこそ、作家で例えるとわかりやすいのではないだろうか。作家はペンネームを持ち、作品を発表し、それによって社会と接する。インタビューを受ければ、本名ではなくペンネームに先生を付け足した呼称で認識される。届くファンレターは自分宛ではなく、ペンネーム宛である。本名とペンネームが同じであるなら何も思わないかもしれないが、そうでない作家さんの中には、生まれ育ってきた元からの自分という存在が飲み込まれるような感覚に包まれている人もいるのではないだろうか。恐怖や不安といった種類の感覚である。特に対面での人との関わりが薄れたコロナ共生社会において、今や私は自分自身の本当の名前よりもSNS上のハンドルネームで人と関わる機会の方がずっと多い。寮や学生の多いアパートではなく実家で暮らしていることも要因の一つだろう。サークル活動も感染リスクを考えるとあまり参加したいとは思えず、結局入らないままである。友人と遊ぶにしてもどこへ行くのか。カラオケ? ショッピング? ファミレスで雑談? どれも今の社会では「不適切」とされる行いである。だから自然と、ネット上の自分への比重が大きくなっていく。先ほど述べた管理・被従属の関係が、次第に逆転していくのだ。よく挙げられる例で言えば、インスタに上げる見栄えのいい写真を撮るためにカフェへ行く、チャンネル登録者数を増やすためにピアノを練習する、感想を書き込んでいいねをもらうために漫画を読む、などがあるだろうか。私は、絵を上手に描くために技法を紹介する動画で勉強し、早ければ四日、遅ければ一ヶ月以上かけて一万字から三万字の小説を書き、上手く描けないもどかしさを努力によって解消しながら一週間に一度漫画を投稿する。好きでなければできないことだが、やはり膨大な時間を費やして——というか、学校の課題と生活活動をするとき以外は大体ずっとパソコンか教本かノートに向かっている。高校生の頃まではその対象が読書(他者が作ったもの)だったわけだが、現在はその対象が創作(自分が作ろうとすること)になっている。自分の本質的な特徴は変わっていないのだろうとは思いつつ、これは本当に自分がしたいと思っていることなのか、「したい」と思っていることにいいねがついているのか、承認が欲しいから創作をしたいと思ってやっているのかわからなくなる。現実の自分がSNS上の自分に管理・被従属する構造は、まぁ、健康とは言えない。なぜなら、SNS上の自分というのは他のユーザーからの認識が強くなるほど存在が確かになるものであり、ある意味で他人任せの存在だからだ。その他人任せの存在に現実の自分の行動を決められることは、自分の手綱を他の人に握らせることと同じである。好きな小説に「あたしの主人はあたしだけだ!」という言葉があるのだが、それほど強くあれたなら理想だなぁと思う。実際はそうはいかない。


 これから春休みに入れば、よりSNS上での自分に割り振られる比重は大きくなるのだろう。自分が他人任せになる。外見ではなく内面を見てもらえること、それはとても嬉しい。けれど、「創作をする自分」が私の大部分になることに漠然とした不安を感じる。本当にTwitterのアカウントなんて作らない方がいい。しかし、先日私の書いた小説にとても感動した人がかなり長いメッセージを送ってくれた。私より二歳は年上なのだが、「尊敬してます!!」らしい。これだからSNSはやめられない。
というわけで、こういった読んでも仕方のないようなものをレポート課題より多い文字数と勢いで書きたくなるほどフニャフニャしなくても済むように、休み明けの講義が対面に戻っているといいなと思う。新型コロナウイルスくんにはいい加減どこか遠くへ行ってほしい。

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