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掌編  誘惑  高北謙一郎

  

こんにちは。週に一度の掌編投稿。今回は、7年間続けていた朗読イベントの最終回に読んだ作品。この前、飲み会の場で偶然「青い街」の話題が出たことで、ふとこの作品を思い出しました。「あぁ、そういえばそんな作品を書いたなぁ」と。あれからもうすぐ1年。なんだか懐かしい。

今回も投げ銭設定。お楽しみいただければ幸いです。



 【誘惑】                高北謙一郎

もうすぐ、雨が降り始めるよ――その言葉は、長い間ぼくが記憶の底に封印していた過去を、あっさりと呼び覚ました。開け放たれた窓から雨の匂いが流れ込んでくる。テーブルを挟んで向かい側に座る女が、その口もとに妖しい笑みを浮かべた。


あれは、今から二十年以上も前のことだ。当時まだ学生だったぼくは、一年という長期の休学を申請して、ひとり旅に出た。これまでにも気ままな旅行を楽しむことはあったが、その年のバックパッカーめいた長い放浪は、初めての体験だった。

退屈な学生生活に嫌気が差しての、日常からの逃避だった。ぼくは世界中を旅してまわった。見るものすべてが新鮮だった。そして見るものすべてに貪欲だった。氷の大陸、緑のジャングル、砂漠のオアシス……何かに獲り憑かれたように新しい景色を求めた。

「蒼い街」の噂を耳にしたのは、旅に出て半年が過ぎた頃のことだ。標高三千メートルを超える山の頂に、その街は存在する。雲よりも高い場所に位置するその街は、かつて一度として雨に降られたことがなかった。はるか昔、住民たちは雨を求めて街を蒼く染めた。家々はおろか通りも広場も、ありとあらゆるものを雨の色に染めて空の恵みを願った。それでもやはり、雨は降らなかった。皮肉としか言いようがないが、蒼い街はやがて「雨の街」と呼ばれるようになった……そんな古い物語めいた噂は、ぼくを惹きつけた。

およそ一週間後、ぼくは街に辿り着いた。まだ朝の早い時間だった。眼下に広がる雲海の向こうから、眩い朝陽が姿を見せた時、ぼくはその街を見た。本当に、蒼い世界だった。不可侵の領域に踏み込む畏怖とともに、入り組んだ路地をゆっくりと進んだ。ひっそりと、静かだった。街全体が眠りに就いたままのように思えた。

ふと、視界の隅に赤い影が過った。ハッとそちらに目を向けたもののすでに何ら気配もない。あの時どうして消えた残像を探し求めたのか……あまりにも漠然としていたが、自分にとってひどく大切な何か……いつか今日という日がぼくの人生を左右するのではないか……そんな切迫感に駆られて走り出した。路地を曲がる。しばらく進む。立ち止まり、耳を澄ます。軽やかな足音。再び走り出す。曲がる。赤い影……今度は、捉えた。

少女の背中が、蒼い石段を駆けあがっていく。まだ十にも満たない子どもだろうか。赤いレインコート。手には真っ赤な傘。鮮やかなコントラスト。長い髪が、背中で弾んでいた。呼び止めることもできず、そのうしろ姿を呆然と見つめる。と、石段の途中で少女が足を止めた。ゆっくりと振り返る。まるで最初からぼくがあとをつけていることを、知っていたかのように。彼女は真っ直ぐにぼくを見つめた。そしてその口もとに笑みを浮かべると、小さく首を傾げながら告げた。

「もうすぐ、雨が降り始めるよ」


少女が前日の午後に両親とともにこの街にやって来たこと、明け方になってひとりで宿を抜け出したこと、それらはすべて後になって知ったことだ。あの時、ぼくに言葉を返す余裕はなかった。雨が、降り始めたからだ。初めは街全体が濃い霧に包まれた。次に、ポツリと雨粒が落ちてきた。それはすぐに断続的な降雨となって、街に降り注いだ。

「わたしね、雨の匂いが好き」

呆然と立ち尽くすぼくを横目に、少女は笑った。


どこに潜んでいたのか、瞬く間に街中がひとびとで溢れ返った。その天変地異とも呼べる事態に、街中が驚きと歓喜に包まれた。いつしかひとびとは、少女の周りに集まり始める。少女を取り囲み、大勢のおとなたちがひれ伏した。不思議な光景だった。まるで、彼女が雨をもたらしたとでもいうかのようだ。

これもまた後になって知ったことだが、少女は前日にはこの雨を予告していた。街に到着すると同時に両親に知らせたそうだ。明日、雨が降るだろうと。当時はまだ、少女の力を知る者はなかった。それどころか彼女自身も、己の力に気づいてはいなかった。覚醒前夜。我が子の言葉を面白がった両親は住民たちに伝えた。小さな予言者が、雨が降るとお告げですと。雨が激しさを増していく中、ひとびとはその力を称えた。

「家が……」と、不意に誰かが叫んだ。「家が、崩れるぞっ!」

近くの建物がけたたましい音を立てて崩れ落ちた。それがすべての始まりだった。雪崩のように次々と家屋が倒れた。道路や広場は陥没した。かつて一度として雨に降られたことのない街は、一度の雨に耐えきれなかった。降雨はやがて豪雨となった。乾ききった地盤はたちまち流砂となって山の傾斜を滑り落ちた。成す術もなかった。ひとびとはパニックに陥った。それはやがて怒りへと変わり、その矛先は少女へと向けられた。

魔女だ! 悪魔だ! 彼女を糾弾する声が湧きあがった。呪われているのだと、少女に指を衝きつける。出て行け! 立ち去れ! 彼女は捕らえられた。波にさらわれるように、ひとびとによって流された。殺してしまえ! 大きなうねりが、彼女を押し流す。

その手を掴んだのは、考えがあってのことではなかった。ただぼくもいつしかひとびとの波の中に取り込まれていて、すぐそばに彼女の手があった。咄嗟だった。そして必死だった。彼女の小さな身体をひとびとから引き剥がす。強引に、波に抗う。浴びせられる罵声、追い縋る手、殺意……なりふり構わず山を駆け下りた。
 

「あの時あんたがいなかったら、本当に危なかったよ」

窓の外に目を向けながら、女が言った。その横顔は、あの時の少女の面影を残していた。「両親と再会できるまでの数日間も、ずいぶんと迷惑を掛けたね」

たしかに、街を脱出することには成功したものの、彼女の両親の行方は、まるで判らなかった。その後の数日間、ぼくは彼女の両親を捜した。彼女をその場に残したままにはできなかったし、連れて帰ることもできなかったからだ。しかしその数日間こそが、ぼくを苛む悪夢の記憶となった。彼女はまだ子どもだった。彼女は言葉を発し続けた。決してすべてが災厄をもたらすものではなかったが、言葉にする必要のないものも多くあった。

「あの時は、ただただ愉快で仕方がなかったんだよ」と、女は懐かしそうに眼を細める。「なにしろ自分が言葉にしたことがみんな現実になっちまうんだからね」

恐ろしかった。本当に少女を助けるべきだったのかと、何度も自問した。もう何も言葉にしないでくれと願った。口を閉ざしてくれ。それでも彼女は言葉を発し続けた。開花した能力に夢中だった。世界は、彼女によって翻弄された。ぼくは、彼女の首に手を掛けた。

「恨みなんて持っちゃいないよ」と、女は口もとに笑みを浮かべる。「あのまま言葉を発し続けていれば、遅かれ早かれ誰かに同じことをされていただろうよ」

「しかし、ぼくが君の喉を潰したのは事実だ。許されることじゃない」

彼女の両親を見つけ出した時、彼女は意識がなかった。それでもふた親は、ぼくを責めなかった。ぐったりと眠る彼女を黙って引き渡すと、その場を逃げ出すように立ち去った。

「恨みはないって言ってるだろ。第一あたしは死んじゃいないし、ちゃんと声も戻った。まったく問題ないよ。それにね、そんなことのためにあんたを呼んだわけじゃないよ」

やはり今日ここに来たのは偶然ではなかったのか。小さく息を呑む。どうしてこんな場所を訪れたのかと、ずっと不思議だった。繁華街の一角に建つ古ぼけた雑居ビル、その四階に佇む薄暗い部屋。普通なら、誰も足を踏み入れることのないような場所だ。

「だから身構える必要はないって」と、彼女は笑った。「なにも獲って喰おうっていうんじゃないんだ。安心しなよ。雨の気配とともにこっちに近づいてきた昔馴染みを、ちょっとばかり誘い込んだだけさ。だいたいね、あたしを探してたのは、あんたの方だろう?」

憑き物が落ちたように、全身から力が抜けた。彼女がその言葉を口にしたことで、自分が何を求めているのか明確になった。それはつまり、日常からの解放……二十年前の放浪の旅もそうだ。結局ぼくは退屈で変わり映えのない日常に馴染めない。社会に出て、家庭を持って、それなりの出世をして、気がつけばぼくは逃げ場を失った。気分が悪いと言って職場を抜け出したものの家にも帰る気になれず、かといってどこに行けばいいのかも分からない。この閉塞感……この圧迫感……そうだ、彼女との再会を望んだのはぼくの方だ。

まるで、悪魔に魂を売ってしまうようなものだ。すべてを投げうってしまえば、もうもとには戻れない。それは分かっている。破滅の坂を転がり落ちるのは簡単なことだ。だけど、その歯止めこそが邪魔だ。彼女に出逢えたら……彼女なら、ぼくをここから連れ出してくれるはずだ。彼女は、鎖を断ち切る言葉を持っているのだから。

「一緒に来るんだろう?」

目の前で、彼女が妖しい笑みを浮かべた。


                            【了】


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