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掌編 戦場の歌声  高北謙一郎

こんにちは。毎週恒例の掌編投稿です。前回が雪女伝説をモチーフにした作品でしたので、今日は同じく、とある昔ばなしをもとに、大幅にリメイクした作品を。今回も100円にて販売しますが、投げ銭感覚ですので最後までお読みいただけます。よろしくお願いします。



【戦場の歌声】             高北謙一郎

むかし、うつくしい声を持つ少女がいた。うつくしい声と引き換えに、彼女の目はひかりを知らなかった。それでも、彼女は自らの声がひとびとを救うと知っていた。この声は、戦いに疲れた兵士たちを癒すことができるのだと。

長い戦争が続いていた。十六歳になった少女は、前線にほどちかい野戦病院の看護婦として働いていた。目が見えなくとも、できることは少なくなかった。日々の激務の中で、彼女は歌をうたった。それもまた、彼女にできることのひとつだった。伴奏には欠かせないマンドリンをかき鳴らしながら、うつくしい声で歌った。それは死を待つためだけに横たわる兵士たちにとって、なにものにも代えがたいひとときとなった。

ある夜、戦火を免れた学園をそのまま利用した寮で、少女はひとりベランダに佇み、月のひかりを浴びていた。闇に暮らす彼女にとって、太陽とは違うその慎ましやかな気配は、好ましいものであった、彼女は、小さな声で歌を口ずさんでいた。

と、そのとき、階下の草木がかすかに震えたかと思うと、彼女の名を呼ぶ男の声が聞こえた。堂々として、威厳に満ちた声だ。ひとの上に立つ者の声だ。突然のことに、彼女は返事をすることもできず身を強張らせた。するともう一度、彼女を呼ぶ声。

「はい――」なんとか応えた。「わたしは目が見えません。どなた様でしょうか?」

「怖がらなくてもいい」と、いくぶん声の調子をやわらげ、男が言った。「私はこことは別の部隊に所属する者だ。あまり畏まる必要はない」

男が口にした部隊の名は、彼女の聞いたことのないものだった。それでも、彼らが前線における戦況の確認のためにこの地を訪れているのだということは、その説明を聞くうちに理解できた。彼は一拍の間を置いた後、言った。
「お前はうつくしい声を持っていると聞いた。私の上官殿が、ぜひともその歌声をと所望しておられる。これからわれわれが野営するテントまで来てもらいたい」

これからですか、と口にしそうになった疑問を少女は呑み込んだ、長い戦争の中で、彼女は知っていた。軍人の命令は絶対であると。たとえ非常識な時間でも、たとえ無断での外出が禁じられていても、彼らが来いと言えば行かなければならない。彼女は急いで身支度を整えた。幸い部屋に同僚たちの姿はなく、ひそかに部屋を抜け出すことができた。

外に出てみると、男がすぐに彼女の手を取った。その手は氷のように冷たかった。男に手を引かれるままに、夜の中を歩く。足場の悪い地面に気を取られていたせいで、すぐに自分の居場所が判らなくなった。ここで放り出されたら自力で戻ることはできない――左腕のマンドリンを必死で抱え込みながら、彼女は足を速めた。

やがて、がやがやとしたざわめきが聞こえてきた。にぎやかな宴のようでもあり、屋台の並ぶ夜市のようでもあった。たしか野営のテントだと、男は言っていた。どれくらいの規模があるのか少女には判らなかったが、かなりの大所帯と思われた。

男は尚も少女の手を引いて進む。相変わらず氷のように冷たい手だったが、彼女にとってはむしろ、それは月を想起させるものであった。いつの間にか、奇妙な親近感すら抱き始めていた。男もまた少女の不自由な足取りに慣れたのか、当初の強引さの中にかすかな気遣いを見せてもいる。

「着いたぞ」男が告げた。巨大なテントの前だ。大勢の人間たちの気配がした。しかし衛兵らしき者がその入り口を開けると、テントの中のざわめきが止んだ。

少女は多くの視線が自分に向けられていることが判った。恐れと同時に、密やかな興奮が背筋を走った。みな、自分の歌を聴くために集まってくれたんだ。ゆっくりと息を吐く。自分にできる最良の歌をうたおう。彼女はそう誓った。

結果は大成功だった。聴衆たちの拍手喝采を受けて、少女は笑みをこぼした。

上座から、声が告げた。「よい歌であった。評判には聞いていたが、これほどまでとは思わなかった。もしよかったら明日の晩もここに来て歌ってもらえないだろうか」

この隊を率いる者か。彼女は声音した方に向かって深々と頭を垂れると、その申し出を喜んで受けた。再び氷のような手に引かれ、野営地をあとにした。「いい歌だった」と、男もまたその声を称えた。少女はひとつ頷くと、握られた手を少しだけ強く握り返した。


少女が寮に戻ったのは明け方ちかくだった。短い睡眠の後すぐに仕事に向かった。誰も昨夜の不在に気づいている者はなかった。日中は、瞬く間に過ぎていった。

そしてまた夜。昨日と同じ声。すでに身支度を整えていた少女は、マンドリンを胸にそそくさと部屋を出た。氷のように冷たい手に自らの手を握られて、大舞台が野営するテントに到着する。そしてこの夜もまた、彼女の歌と演奏は大盛況のうちに終わりを迎えた。

しかし今回の外出は、同じ寮で休んでいた看護婦たちによって目撃されていた。

ずば抜けた声のうつくしさ以外これといって目立つことのない少女ではあったが、仕事の間中、いつになくそわそわとしていたのが同僚たちの目に留まった。特に、普段は無造作に束ねているだけの髪を何度も櫛で梳いている姿を、見逃すはずもなかった。これは何かあるに違いない――彼女たちは少女のあとをつけた。

だが看護婦たちがそこで見たものは、あまやかな逢瀬の場面などではなかった。薄気味悪い炎に導かれて少女が向かった先は、広大な墓地だった。墓地といっても整備の行き届いたものではない。掘り返された巨大な穴に、戦死者たちを投げ捨てるのだ。しかもそれはひとつではない。幾つもの穴が並んでいた。

そんな夥しい死者たちの間を、少女は足早に歩いていく。看護婦たちは逃げ出したいのをなんとか堪えながら必死にあとを追った。そしてたどり着いたのは、遺体で溢れ返る墓地の中心――それはもはや、小高い山を成していた。彼女の周りには、無数の青白い炎が漂っていた。ついに看護婦たちは口々に叫び声をあげながら、散り散りに逃げ帰った。

少女が寮に戻ってみると、そこには寮長のほか、病院長の姿まであった。看護婦たちによって事の次第を聞かされていたのだ。無断の外出を責められるものと思っていた少女は、しかし寮長の説明から、どうやら自分がとんでもない事態に巻き込まれているらしきことを知った。にわかいに信じがたいことではあったが、どうやら本当らしい。少女は呆然としたままに、病院長の言葉に耳を傾けた。

「このままでは、あなたは兵士たちの亡霊に獲り殺されてしまいます。即刻、神父様のもとに出向き、全身を浄めてもらいなさい」

寮の隣には、礼拝堂があった。話を聞いた神父は速やかに少女の服を脱がせ、その全身に聖水をふり撒いた。経典の言葉を唱えた後、神父は告げた。「これでお前の姿を亡霊たちが見出すことはできなくなった。今夜お前を迎えに来る者があっても、決して返事をしてはならぬ。身じろぎすらしてはならぬ。ただジッと息をひそめているのだ」


その日の夜、少女はひとり部屋の片隅に座っていた。窓から射し込む月のひかりだけが、辺りを照らしていた。ほかの看護婦たちは別の部屋に逃げ込んでいた。寮長や病院長は彼女の身を案じてはいたものの、やはり別の部屋で待機していた。

少女は右の手のひらを、そっと頬に押し当てた。男の冷たい手の感触が、まだ残っているようだった。本当に亡霊なのだろうか――いまだに信じられない。けれど同僚たちが嘘を吐くとも思えない。せめてもう一度あの手に触れることができれば、自分にもその正体が判るかもしれないのに。

やがて男の声が聞こえた。しかし彼女は部屋から出ることはなかった。ベランダに通じる窓は施錠してある。息をひそめ、心のうちで祈りの言葉を繰り返した。

「どうしたというのだ?」階下に、苛立つ声が聞こえた。「返事がない。あの娘、どこかに隠れているのか? ならば、なんとしても見つけ出してやらねば」

次の瞬間、少女は部屋の中に異形の者の気配を感じた。いったいどうやって入ったのだろう? 闇を這いずり回る不気味な影が、獣じみたうめき声をあげている。ベッドや椅子が手あたり次第に投げ飛ばされた。巨大なライティングディスクがすぐそばの壁にぶち当たったときは、思わず叫び声をあげそうになった。それでも彼女は声を立てなかった。化け物は激昂し、地団太を踏み、喚き散らす。それはまるで激しいダンスのようでもあった。

ところが、不意に荒ぶる声が止んだ。気の遠くなるような静寂が取って代わった。しばしの後、つぶやく声が聞こえた「耳……」と。それだけで、少女にはすべてが理解できた。

今日、礼拝堂で身を浄めたとき、少女は両手で耳をふさいだ。神父が聖水を数滴ずつ垂らしていく程度のものだったが、目の見えない彼女にとって、いかに聖水とはいえ水が耳に入ることは避けたかったのだ。とっさの動きではあったが、それが危機を招いた。

「お前、そこにいるんだな?」声が訊いた。「なにかまじないめいたものだろうが、耳だけがおろそかになっているぞ」氷のような手が、彼女の両方の耳をつかんだ。

少女は痛みとともに、しかし別のことを考えていた。そう、その手だ。氷のように冷たい手だ。たしかに男はこの世の者ではないのかもしれない。けれど、その手は間違いなく自分を夜の中で導いてくれたものだ。少し強引ではあったが、決してついてこれないほどには歩く速度をあげず、転びそうになってもしっかりと引き留めてくれた手だ……少女は両耳をつかむ男の手の上に、自らの手を重ねた。そして目の前にいるであろう男のために、しずかな声で祈りの言葉を口ずさんだ。

それはすべてを浄化した。うつくしい声にかき消されるように、少女に向けられた殺意が薄れていく。両の耳をつかむ手から、狂暴な力が消えていく。少女はその手を握りしめる。瞳から、大粒のなみだがこぼれ落ちた。

「このまま帰ったのではあなたも上官様から叱られるでしょう。せめてこの耳を持ち帰ってください。そして、みなの怒りを鎮めてください。ただし――」
これでもうお別れですと言った少女を、しかし男は抱きしめた。その耳もとで囁く。

「どうやらその必要はなさそうだ。だが、みなを置いていくのでは申し訳ない。私と同じように、彼らを救ってくれ。その、うつくしい声で」

気配が消えた。それはあまりに一瞬のことで、まるでこの部屋には初めから誰も存在しなかったかのようだ。それでも、少女は男がそこにいたことを知っていた。

なぜならその手には、かすかな温もりが残されていたのだから。

                                                     

                            《了》

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