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【みっこの事件簿】チャリング・スティール

僕にはみっこと言う名の人格が常にそばにいる。
僕自身はご案内の通り、感情の起伏に乏しく、受動的な性格の為か、なかなかどうして身の回りに事件など起こらない。
しかしみっこは違う。僕であれば素通りしていた事象や出来事を事件化して提起するだけでなく、その豊富な喜怒哀楽で、事件らしい出来事を呼び込む性質を持っている。
僕らのコンビは片方が提示する事件や疑問を、片方が落ち着いた第三者目線で意見したりアドバイスしたりする事で、刺激と安定のいいとこ取りをして生きている。
これまでに書いてきた考察や思考も、みっこからの質問や深堀りによってやっと顔を出してきた意見に過ぎない。

ここでみっこを紹介しておこう。
と言っても性格や思考などは、今後書いていく事件簿の中でつかめていくものだと思うので、簡単に概略をお伝えしよう
まず、先にも述べた通り感情の起伏が激しい。良くも悪くも考えるときに、目的や合理性より先に、感情を優先するのだ。
例えば、友達が苛立ちを覚える話を披露すれば、話者よりも怒り、憤って見せるのだ。
その他にも柔軟で吸収の早い特性を持ち、良い考え方や方法があればすぐに自分のものにして行けるのが奴の素晴らしい能力だ。
これによって、関わる人間や置かれる環境によって、その成長の速度や色が目に見えて変わるのも近くで観察している者としてはとても楽しい。

さて、前置きはこれくらいにして、今回の事件簿の話に入ろう。


予防や対策は大事だ。けれども100%ではないのだ。どんなにガードしてようが、気をつけていようがあらゆるリスクはその網目をかいくぐり、僕らに災難をもたらす。
ともすれば、一番大事なのは、事が起こったあとの行動や思考だったりするのかもしれない。
物事が起こるかどうかわからない「対未来」のアクションは無理でも、発生したことに対しての「対過去」なら、確実なアクションが可能だ。

みっこの自転車が盗まれた。

いとも簡単に、それこそマジシャンがマントをニヤニヤしながら翻した時のようにそこにあるはずの自転車がなくなってしまっていたのだ。
駅前の駐輪場に停め、半日後、用事を済ませて戻った時に気づいた。

その自転車は4年近く乗ったギアのないいわゆるママチャリだった。
知り合いの知り合いから貰った赤い自転車。
あらゆるところに主を載せてその車輪を幾度も回してきた。
おまわりさんに登録番号を照会された際に、本当のことなのに、貰ったから名前が違うんですと必死に説明したこともあった。

そんな相棒ともいえる自転車がなくなったのだ。
放置自転車とみなされたとしたって即時撤去はあり得ない。
もう十中八九、盗まれてしまったのだと納得するしかなかった。

今だから告白すると、自転車がない!となった瞬間、自分としてはどこか冷静だった。何か別の要因で、盗まれてなどいないとどこか楽観視していたのだ。
本当は今日は自転車を使っておらず、家の駐輪場で「何かあったの?」という顔をして帰宅した僕らを出迎えてくるのではないか。
電車に乗る前にどこかに寄って、そこに置いて来てしまったのでは?などと、みっこを少し疑ったりすらした。
更に僕くらいみっこの生態研究の第一人者になると、この後みっこがどういう反応になるのかは予想がついた。
きっと烈火のごとく怒り、嘆き、もしかしたら、「自転車」や「盗み」などとは直接関係ない最近の異常気象や、JR等の公共交通機関への職務に対して意見を言い出しかねない。岸田総理へ税金が高いなどと、DMを送り出す可能性すらある。
そしてその最後にはその憤りは僕にも飛び火し、いつの間にか容疑者になってしまうことすらあり得る。
呆然とあたりを見渡す少し肩を落としていつもより小さく見えたみっこの背を眺めながら
徐々に自転車がないことの二次災害を危惧した緊急首脳会談が僕の頭のCPUをガリガリ音を立てながら開催されていき、あらゆるケースに対しての回答や反応を準備させた。未来を見据えて予防線とバリアを張り巡らせたのだ。
しかし、みっこの口から出たのは意外な言葉だった。

「自分よりこの自転車を必要としている人の元に渡ったのかもしれない。」
「悲しいことがあったから次は嬉しいことが起きるよね」

僕は自分を恥じた。
みっこは過去に一瞬で蹴りをつけたうえで未来を見据えていた。
本人は「まだ自分に言い聞かせている段階」だと笑ったが、
あの時点で、本心と裏腹であったとしても、あの言葉が出せる人間はそういないだろう。
チャリンコが1台なくなったという物質的なものの見方ではなく、
盗みを働くことになってしまった人間を憂い、あまつさえ許す、許さないだけでなく、その加害者の未来を案じたのだ。

もし僕が同じ立場であったときに、同じセリフが言えるだろうか。
うだるような蒸し暑さの中、もうろうとした意識がそうさせたのか、
みっこの考え方の高尚さにうれしい気持ちと情けなさで蜃気楼のように地面がぐわっと揺れた気がした。

未来を予知して対策や予防線を張ることよりも、何か起きてしまったことへの対処を優先すべし。
頭ではわかっていたつもりではあったが、それを身をもって体感させられた事件簿だった。

そのあと、妙にみっこの隣を歩けることが誇らしくなって、笑いながらゆっくりと歩いて帰った。
あの時、ああは言ったけれど、one more chanceみたいな歌で、山崎まさよしが「いや、さすがにそんなところにはいないやろ」みたいなところまで探しまくるあの歌のように、
さびれた銭湯の駐輪場や、通りすがるおじさんが乗っている自転車まで指をさして「あれ、みっこの自転車かもしれない」と必死に探しているのを見て、少し安心もした。






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