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「信じる」ができる価値

今日幼馴染と
結婚について話していた。

ここでは、
彼女の名前を「歌ちゃん」とする。

歌ちゃんの家庭は、
家族がうまく機能しているタイプの家庭だ。

だから、
歌ちゃんが、口癖のように
いつも言っている

「男の人と結婚なんて絶対したくない」

という言葉をずっと聞いてきているのに
私はずっと信じられない。


本音を言ってしまえば、
信じるのが怖い。

本当に心から尊敬している人が
現れて、歌ちゃんが
惹かれていくことが、
とてつもなく怖い。

結局、私は親しい人が、
少しでも自分の側から離れてしまう事が、
どうしようもなく怖い。



だから、自分に自分で、
「信じちゃダメだよ。
信じたらどうなるかわかるよね?」
って何十回も
ブレーキをかけさせすぎて、

信じるって事が、
もうできなくなってしまっている。



怖い。

お金を払っている関係じゃないと
離れないということが信じられない。

だから、お金を受け取ってくれない
人から、そういうことを言われても
信じられない。

いつも表面上は信じてるフリは
できるけど、
本当は一切信じられてない。

信じたい気持ち以上に
失ってきた喪失感の
恐怖が大き過ぎる。

私と歌ちゃんは
ずっと一緒に生きてきた幼馴染で、

そういうのも見越して、

今日、

「うーん…どうしたら、信じられるのかな…」

「どう言ったら、
信じてもらえるかな?」

と聞かれた。

私は、そんな面と向かって、
人が信じられないとは言わない。

むしろ現実世界では、
一度も言った事がない。

けど、そんなこと
言わなくても、結局は
ほぼほぼ全部丸見えなわけだ。

「もう呑むのはやめる」
と泣きながら言っては次の日当たり前のように
呑んだくれるお母さん。

帰ってこないお父さん。

このダブルパンチが日常状態で、
10代を過ごしてしまった
損失は、ずっと続く気がする。

「正直者はバカをみる」
のように、
「信じるものはバカをみる」

これが結局どんなに
やめようとしたって、頭から離れない。

信じるのは、
すごく勇敢な行為に私は感じる。

信じるのは、怖い。すごく怖い。

親しい人にすら、
信じるということをできない
自分に嫌気もさす。




「信じる=裏切られて悲しい」

のイコール関係が、
あまりにも強すぎる。

人間の心はあまりに脆いから、
それを信じられる人に
憧れると同時に怖さも感じているんだな。

結局は私も人を信じたい。

でも、信じると
いろんな想いが沸き過ぎて、疲れる。

なら最初から、
信じないことが一番疲れない。

その人の事が好きだけど、
好きなのにいつも
どこかに行ってしまうんだろうなぁ
って不安と共に生きている。

人に期待してはいけない。

だけど、
この感覚も、
自分の大切な人を傷つけてしまう。

自衛をして、
自衛をして、
いく着く先はなんなんだろう。

期待するのも、信じるのも怖い。

なんで怖いのかは、
浮かれていた過去の自分が
傷つくのが痛かったからだ。

もう痛みはできるだけ
感じたくない。
極力避けたい。

信じなければ、
最低限の怪我で済む。

信じて、その通りにならなかったら、
それは、期待した自分が悪い。

信じるのは、
甘えで、悪だ
と思い続けているのかもしれない。

傷つきたくない。

でも人を傷つけるのは、
もっと嫌だ。

狭い狭い世界に篭りっぱなしの
自覚もある。





歌ちゃんに「どう言えば、信じられるかな?」

と聞かれて、なにも答えられなかった、

どう答えてくれても、
信じることはないから、

どう答えるのが
正解なのかぐるぐる考えて、

結局「ごめん」としか言えない。

自分から、誰かが遠ざかる
関係の話は全く信じられない。

血が繋がっていても、
相手が子供でも、
結局は、離れるときは離れる。

それを幼い頃に
学んでしまうと、
もう約束とか、信頼とか、
結局はもう二度とできなくなる。

これは、
大きな損失だなぁ
と自分でも思う。

あたり前のように
「信じる」をしたいとも思う。




でも今は、まだ「信じる」は不安との戦いでしかないと思う。

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