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戦国大名!〈小田原北条氏〉

どうも「ふわすけdo」です。
初の歴史解説なのでぜひ最後までご覧ください

1. はじめに

突然ですが皆さんは小田原北条氏を聞いたことがありますか?
鎌倉時代に執権を務めたあの?
いいえ違います
小田原北条氏は後北条氏とも呼ばれるの氏族で1世紀以上の間に渡り関東で戦い続けた戦国大名です。
まぁ緊急事態宣言の中で強く生きた戦国大名や武将の姿は皆さんの励みになるのではと思い今回は掘り下げてみることといたします。

2. 小田原北条氏5代の家系

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1代 : 北条 早雲 (伊勢 新九郎 盛時)
 桓武平氏のを由来とし室町幕府においても要職を務めていた伊勢家の出身と言われている。妹が駿河の守護職にあたっていた今川氏に嫁いだこともあり応仁の乱により乱れた京を去り今川家の客将として家督争いを鎮圧。その功績により興国寺城を与えられた。その後は伊豆を治めた韮山足利氏の足利茶々丸を討伐し一国一城の主となりそのままなだれ込むように相模国の大森氏を追い出し三浦半島の三浦氏を討伐し小田原北条氏の基礎を築いた。

2代 : 北条 氏綱 (伊勢 氏綱)
 北条早雲の息子で相模国を平定して以降は扇ケ谷上杉氏と戦うことになったのだが山内上杉氏や小弓公方・里見氏・真里谷武田氏・甲州武田氏・今川氏を敵に回すこととなりまさに四面楚歌。しかし何とか持ち直し攻め取られていた鎌倉を奪還するどころか第一次国府台合戦で息子の氏康とともに里見氏や小弓公方などの連合軍を打ち破り下総国や今の東京都の領域を支配した。成長しゆく北条氏にとって四面楚歌になる「宿命の当主」とも言えるが、その後の北条氏の安定成長の基盤を築いた明君とも言えるだろう。

3代 : 北条 氏康
 
北条氏綱の息子で北条五代の中でもきっての戦上手で河越夜戦は日本三大奇襲にも数えられた名勝負。北条氏康は安定成長の時代に回った北条氏の波を絶やさず勢いを維持しつつ外交にも力を注ぎ当初は武田氏や今川氏と争っていたが甲相駿三国同盟を締結することで関東での戦争に集中。関東の覇を唱えるのにふさわしい戦上手 いや戦神だと言える

4代 : 北条 氏政
 織田信長の大暴れなどで外政に力を注いだ明君。父の氏康とともに関東を治めた。武田氏滅亡後の遺領争いでは苦戦を強いられた。
家督譲渡後も北条氏において影響力を持っていたがその反動もあって小田原合戦による敗戦で切腹となる。

5代 : 北条 氏直
 北条五代で最後の当主で小田原合戦後は隠居となるが早世する。
小田原合戦では豊臣に対抗する気はなかったが戦うことを余儀なくされた。
その後の後北条氏といえばだが従弟の氏規の息子が許され嫡子の氏盛が幕末まで狭山藩として藩領を納めていった。

3. 小田原北条氏の勢力圏と政治

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データが少なくてかなりみ浅いです
○ 北条氏の支配圏 用語解説
静岡県…伊豆国・駿河国富士川以東
神奈川県…相模国・武蔵国南部
東京都…武蔵国中央部
千葉県…下総国大半・上総国・安房国   ➡︎房総半島の由来
埼玉県…武蔵国北部合戦
群馬県…上野国
栃木県…下総国
茨城県…常陸国・下総国極一部

○ 政治
 江戸時代の創作の呼び名だが「四公六民」として年貢米が四割領主で六割が民のものという思想で当時からしてみれば低い徴税で人の和を生かした支配体制にしようとしたと言われる。実際に氏綱の晩年には検知が行われたんだとか。
「人の和」「地の利」「天の時」これが戦の基本とすれば北条氏は関東の覇者に相応しい政治体制をとっていたと言えるだろう。
外交においても甲相駿三国同盟で西と北の憂いを断ち関東の支配を強めることができたと言える。

4. 小田原北条氏の戦い

小田原北条氏の合戦は多すぎるので代表例として5つほど紹介したいと思います。
○ 相模平定
…大森氏の居城である小田原城を油断させて奇襲しその勢いで東相模を平定
 その後の相模平定にあたり障害となる三浦氏は扇ケ谷上杉氏の支援もあった
 ことで平定は難航。そこで氏綱の提案もあり玉縄に城を築くことで扇ケ谷上杉氏
 の支援を迎え撃つことで三浦氏を孤立化することに成功し三浦氏を討伐。
 ここに相模平定の戦いが終了した。
 余談だが氏綱は小田原城を改修し本城化し、また後北条氏を名乗った。
○ 国府台合戦
…国府台合戦は第一次と第二次と起ったので両方紹介します
 ・第一次国府台合戦
  …北条氏綱と氏康が里見氏の当主を討ち取り小弓公方を滅ぼした戦
   この戦いののち北条氏は房総半島への侵攻を強めていった
 ・第二次国府台合戦
  …里見氏が房総半島の支配を強めようとする中で挙兵
     当初は苦戦を強いられ数々の将兵を失う惨敗だったがその後に里見氏側にて
  開かれた酒宴中に奇襲を仕掛けることで見事勝利し房総半島にて里見氏は
     影響力を失い後北条氏は影響力を強めた。
河越夜戦
…河東一乱により駿河で争っていた北条氏康だが両上杉氏が手を結び河越城を
 包囲してきた。兵力差もあり勝てるかどうか危ぶまれた戦いだったのだが氏康は
 河越城兵に降伏を装わせて挟み撃ちにし河越城を奪還した。
 この戦いは日本三大奇襲とも呼ばれ毛利氏による「厳島の戦い」と織田信長が
 今川義元を打ち破った「桶狭間の戦い」に並べられている。
○ 対 武田 & 対 上杉  戦
…1560年に武田氏が小田原城を包囲
 1561年に上杉氏が小田原城を包囲
 関東の覇権を争っていたそれぞれの家は対立していたが支城ネットワークに
 より攻めあぐねた武田氏や上杉氏は小田原城を包囲するだけで撤退していった。
 余談だが上杉氏はもとは長尾氏を名乗っていたが謙信の武名を聞いた山内上杉
 が亡命し上杉の名をもらったこともあって上杉氏を名乗ったのだとか。
小田原合戦
…小田原北条氏が戦国大名として終わりを告げた戦いですが実は豊臣秀吉も結構
 苦戦したのです。力攻めでは攻略できないと豊臣秀吉が踏んだ理由。
 それは小田原城の構造だけでなく総構えという小田原城の周辺を堀で巡らせた 
 ことで攻めにくく守りやすい更なる孤高の城砦となっていたからなのです。
 また支城ネットワークも生かされ忍城などは代表例でかの石田三成が攻めきれ
 なかったこともあり。小田原合戦は負けはしたものの北条氏の強さを見せつけた
 ものと言えるでしょう。

5. 小田原北条氏の城郭ネットワーク

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 北条氏の支城ネットワークはいくつもあるがその中で自分の訪れたことのある城と用語を紹介したいと思います。今は感染症下なので自粛しましょうね。
○ 支城ネットワーク用語解説 (一部抜粋)
・大根城…その氏族の中心の城で宗家当主が居城とする。支城ネットワークの中心
・根城…戦国大名の分家や重臣が居城とする
・境目の城…国境などに多く築かれ終戦後は廃城かその他の機能を果たす
・繋ぎの城…各間に設置され兵の駐屯用のスペースが確保される
○ 小田原城
 もぅ訪れたのは3年以上前になりますかね…
 小田原城は後北条氏の居城でその城郭構造は素晴らしく天守や常盤門などの
 建造物も見どころ満載。小田原城の歴史見聞館が改修されてNINJA館として忍者
 の体験ができるらしくて外国人にも楽しめる観光名所となりそうです。
○ 八王子城
 八王子城は小田原合戦でも激戦となり悲劇とも言われる戦乱を展開した城
 猛将:北条氏照が拠点を置いた支城ネットワークにおける根城ですね。
 登山道から見渡せる眺望は素晴らしかったです
○ 江戸城
 きっての智将である太田道灌が築いた中世城郭で小高い丘の上に築いた館城
 城郭ネットワークでは関東の中心地にあたり繋ぎの城の適地といえる
 その後は徳川家が関東入封の際に大改修され265年の江戸幕府を支えた
○ 関宿城
 利根川と江戸川の分岐点にあるり要衝
 当時は江戸川はないのですが常陸国との境で十分重要拠点だったんだとか
 でもコンビニは少ないし駅から遠いので注意です。東武動物公園駅からのバスの
 利用をオススメします

6. おわりに

調べてみると強く争ってきた北条氏の勇敢さと強さに感銘を受けました
この戦国時代の特集スキが10超えたら毛利氏に関する記事も書こうと思います。
皆さんも気になったらぜひ小田原北条氏について調べてみてくださいね
あと余談ですが北条氏は徳川の時代に許されて狭山藩の藩主として残っていたんだとか
というかこの記事 余談が多かったですね

7. 参考文献

戦国の城の絵事典  (成美堂出版)
戦国の合戦と武将の絵事典 (成美堂出版)

歴史考証 … 攻城団〈 くるくるわ 〉さん

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