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1パーセントの深い哀しみ

 

 安息の地

 わたしがそのホテルに列車に乗ってやって来たのは冬がはじまるまえだったように思う。
 住み込みで働ける二十代の女性。条件には合っていた。採用がきまり、部屋をあてがわれた。客室と変わらぬ豪華な造りだった。
 夜中の十二時になると、地下の一室へわたしは降りていく。エレベーターに乗り、深いふかい場所へ。ところどころランプの火がゆれる曲がりくねった廊下を進み、鉄格子で閉ざされた部屋へと入る。正面、左右の壁はすべて赤レンガでできている。顔が陰になった二人の男がいる。わたしは着ていたものをすべて脱ぎ、両腕を横へ拡げたかたちで正面の壁に固定される。手首のところに冷たい鉄の留め具がくる。宿泊客たちがそのあと部屋へ入ってくる。男も女も、年配のものもいる。
 彼らは注射器を手にし、たがいに血を抜き合う。血をゴムまりのなかに注入する。みずからの血液の入ったボールをそれぞれが持つ。そしてそれを、わたし目がけて投げつける。身体の上でボールはあっけなく砕け、跳ね散らかる。人びとは投げる。赤色がわたしの視界一面、放射状に飛び散る。何十人もの人びとが絶え間なく投げる。奇声を上げるものもいる。泣いているものもいる。腕が極端な長さにのびるもの。顔が飴のように細長くなって天井まで届くものもいる。ひらいた口がいびつな楕円形になる。楕円形の向こうに投げつける人びとの姿が見える。怒りを投げつける。哀しみが飛び散る。彼らの内側にあったものが、わたしの肌で音をたてて砕ける。
 客たちは入ってきたときよりも少し透明になって部屋から出ていく。何人かは投げ終わると同時に激しく震え、その場でかき消える。口もとに笑みを浮かべた安らかともみえる表情が、しばらくのあいだだけ空中をただよっている。

 それが、わたしの毎晩の仕事だ。昼間はなにもすることがない。ふたたび夜がくるまで、わたしはあてがわれた部屋のベッドでただ眠りつづける。
 ホテルでの仕事に就いて本当によかったと思う。わたしはやっと心からの安息を得た。わたしは何十年も何百年もこのホテルにいたいと思う。そして人びとの身体のなかにあるものを── この全身で受けとめるのだ。


 らしき世界
 
 友だちらしき人物と待ち合わせていたので喫茶店らしきところへ入っていった。友だちらしき人物はすみのテーブルらしきところについていて右手を上げたらしい。私らしき人物も椅子らしきものを引き、向かい合って座った。やぁひさしぶりだねと友だちらしき人物が言ったのであぁそうだねと私らしき人物も答えたのだがどこで会った誰なのかは見当もつかない。右側に高さのない横長の窓があるらしく、そこを何人もの足らしきものが右へ左へと行き交っている。膝から下しか見えないのでこの店はどうやら地面から一段ひくい位置にあるらしい。コーヒーらしきものが運ばれてきた。ウェイトレスは笑みを浮かべているが見も知らぬ男たちのところへコーヒーを運んできて自然と笑顔になどなるはずもないからどうやら真面目にウェイトレスの役柄を務めようとしているらしい。若い女は立ち去った。私はカップに手をのばす。おい、ひどいブスだったなと友だちらしき人物が言った。俺たちに色目を使いやがったぜ。
 反射的に男の頬を殴っていた。コーヒーカップが吹っ飛んだ。感じのいい笑顔だったじゃないか、もちろん作りものさ、だけど本物と見まがうほどの笑みを浮かべてウェイトレスの役を演じようとしてたじゃないか、優しい子なんだよ、スレてない子なんだよ、毎日傷ついてもいるんだよ。立ち上がってテーブルも回り込んでいた。殴りつづけた。殴って殴って殴ってやった。血しぶきが空中を舞うのが見えた。飛びちるピンク色の網目が徐々にスローモーションとなり、消え、その向こうで── 
 椅子に凭れかかって嗤う友だちらしき人物がいた。ほんとにひどいブスだったぜ。まったくだなと私も同じように調子を合わせ、コーヒーカップを口もとに持っていった。そう、こいつは私の友だちらしく、私は私らしいのだ。そしてまだまだ生きていくらしいのだ。
 この哀しい── らしき世界を。


 
 
 彼女はもやのかかった郊外の道を歩いていた。
黄緑色の広い道だ。人の姿はない。右側はひざの高さほどに草が茂った草原となっていて、遠くに雑木林がかすんで見えた。左側には石でできた高い壁がつづいている。頭上にひろがる空は均一に水色だった。まだ早朝なのかもしれなかった。
 草の匂いのする空気のなかをすすんだ。水色のまじった黄緑色の匂いだと彼女は思った。
 しばらくすると左手につづいていた石の壁がとぎれ、さらに歩くと天高くへとのびる塔のような建物が見えてきた。片側の輪郭線が陽光にあわくひかっている。
 エレベーター。
 それがエレベーターであることがなぜだかすぐにわかった。遠い記憶のなかにある絵本の挿絵みたいだと彼女は思った。正面まで来ると、銀色のドアが音もなく開いた。なつかしいページをめくるように。そっと、とても親密な感じで。誘いこまれるように、彼女は入っていった。
 なかは奥行きがあり、広かった。床はどこか船の甲板を思わせる板張りだった。壁の色は白。中央に円いテーブルが置かれていた。椅子はふたつある。四メートルはありそうな天井からは不思議なかたちをした照明が高さをちがえて三つ下がっていた。正面の壁面は天井までのガラス張りで、カーテンが左右にひらかれている。見たところ、窓の開閉はできないつくりのようだった。そこから眺められる景色は水色の空。一面の空。エレベーターはもう上昇を始めているらしかった。窓の幅そのままに、白い陽射しが床を染めている。
 奥の左すみにはクイーンサイズのベッドがあり、きちんとメイクされていた。やわらかそうな白い大きな枕。反対の壁ぎわにはゆったりした書き物机があった。緑色の笠のついた古風なスタンドが両はしにのっている。ペン立てには万年筆や削られたえんぴつが立っていた。ノートや原稿用紙のたばも置かれていた。窓から入る日光を浴び、ノートの表紙がきらめいている。
 机の右側には作り付けの書架があった。ぎっしりと本が並んでいる。彼女は前に立って、背表紙を目でたどってみた。世界中の小説がよく集められている。すでに読んだものもあったが、読んでみたいと思い、まだ読めていない本もたくさんあった。聞いたこともない書名もあった。魅力的なタイトルだった。何冊かの本に手をのばしそうになったが、とどまった。これからゆっくり、これらの本を自由に読めるのだという気がした。口もとに笑みがのぼってくるのが自分でもわかった。
 背なかを向けていた壁のほうへふりかえる。左すみが半円形にくりぬかれている。くぐってみる。廊下を右へ進む。左手に化粧室がある。そのまま突き当たりまで進むと曇りガラスでできたドアがある。バスルームだった。平行についたひんやりした取っ手に触れてみる。下へさげ、手前に引く。
 ここも広い。通っている高校の教室、その半分ちかくはありそうだった。正面と左右の壁面、天井までがすべて透明なガラスでできている。猫足のゆったりしたバスタブ。ガラスの壁ぎわに置かれていた。水色の空が視界に収まりきらないほど、遠くどこまでも見わたせる。空しかなかった。ガラス窓を通りぬけて清潔な空の匂いがただよってくるように思えた。その架空の匂いを胸に吸いこむと、とても懐かしいような、切ない気持ちになった。
 半円形にくりぬかれた壁をくぐって廊下を左へ進んだところはダイニングルームであることもわかった。ここも天井がガラス張りだ。ひかりに満ちていた。テーブルセットがあり、扉がいくつも付いた冷蔵庫があった。食べ物も飲み物もたっぷりとおさまっている。いま組み上がったばかりのように見える曇りひとつないシステムキッチン。
 彼女は、エレベーターのなかで暮らすことにした。
 それから幾週間か経ったようだが何の不自由も感じなかった。エレベーターは無音のまま上昇をつづけ、どこにも到着する気配はなかった。どこにも到着しなければいいのにと彼女は思った。
 湯を張ったバスタブに足をのばして浸かり、書棚から取ってきた本をひらいた。彼女は小説が好きだった。小説以上に豊かなものがほかにあるだろうか? 本のページに指をふれたままガラスの壁ごしに空を眺めた。透きとおったその青さを見つめ、架空の匂いを胸に吸い込んだ。かなたに目をやった。雲のながれかたで風がわかる。まぶしい雲の輪郭からまたページに目を戻す。活字に集中するといつしかその文字も消えてしまう。本のなかの世界そのものが立ちあがり、彼女の全身を庇護するようにつつみ込む。
 バスタブにつかった彼女は朝のひかりを浴び、夕陽を浴び、あるときは星明かりを浴びた。宇宙のただなかに、ひとりきりで浮かんでいるような心地になれた。なんて素晴らしいのだろう── 。聞こえるものといえば水晶がはねるような湯の音だけだった。水を手のひらですくっては、ゆっくりと水面に落としてみた。水晶がいくつもはねちらかった。ガラス一枚をへだて、目のとどくかぎりどこまでも無数の星々がちりばめられている。イマジネーションを使ってバスタブを宙にうかせ、ガラスも通りぬけてみた。そとへと出た。バスタブも消して裸のまま夜空に横たわってみた。背骨の下で星ぼしがひかる。右手にも左手にも、臍の正面でも星がまたたいていた。彼女は首をのけぞらせ、背なかものけぞらせ、頭のさきと足さきをつなげ、輪のかたちになった。恍惚の輪となった。
 彼女はこのエレベーターのなかでずっと暮らしたいと思った。これこそがわたしの望んでいた生活であり、こここそがわたしにふさわしい居場所なのだ。彼女は他者との交際を必要としないタイプの人間だった。人に気を使ってほしくなかったし、気を使いたくもなかった。だけど病的なまでに人に気を使った。意識や感情をもったものがわずらわしかった。体温をもったものがうとましかった。ひとりきりでいるときにのみ深い安らぎを覚えた。幸福感が喉もとまでせりあがってひかった。


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1パーセントの深い哀しみ

智(とも)

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コメント (3)
智(とも)さんへ

「1パーセントの深い哀しみ」を
また読みました。
どうしてこんなに
不思議で美しく
そして、どこか透明感のある
世界が書けるのかなあ、と
思いました。
普通なら読めない場面もなぜか美しく感じます。

まだ、読み足りないので
もっと読んでから
感想を書かせてください。

わたしは、エレベーターに乗っていてときどきこのまま
ずっと上まで行きたいなあと
エレベーターが思っているのとちがうかなと思ったりしていました。(笑)。
そんなボタンがどこかにあるのと違うかな?と。(・∀・)

お体に気をつけて下さいね。

智(とも)さんからもらったnoteからのメールに返信できなかったので
コメントに書きました。

スフレより。
おはようございます。智(とも)さん。追記です。noteからのメールに返信できないというのは、返信を送信しても(ユーザーが見つかりません)と返信が帰ってくるのです。智(とも)さんからのサポートのお礼のnoteからのメールに返信してもそうでした。心配しないでください。言葉ってほんとうに難しいです。普段の私は言葉が少ないので、ちゃんと書けませんでした(汗)(笑)。気をつけます。智(とも)さんにはいつもほんとうに感謝しています。ありがとうございます。(*^-^*)
こんにちは、木野 永吏です。ニックネームの登録が遅れて紛らわしくなってしまいました。
感想も遅くなってすみません。てっきりクレジットカードでないと購入できないと思っていたので。
作品、読ませていただきました。とても美しい世界ですね。
一日中バスタブにつかって、空と本と過ごし、最後は夜空に星とともに浮く感覚に酔う。
たった一人きりで。そして、お昼寝もしたいだけ。しかも、何一つ先のことを思い煩うこともなく。
こんな幸せな生活の描写を、読んだことがありません。
壁にかかった絵や、彼女の書く小説に描かれたものが象徴すること……
彼女は、その怒りと悲しみを超えて、元の世界へと戻ってしまう。
これはハッピーエンドなのですよね。
でも、私は寂しいです。私もまたいつの間にか、自分のエレベーターに乗って一人上昇を続けているので。
一人が幸せだと思いながらなぜか、彼女という仲間がいなくなってしまったことが寂しくてならないのです。
これからも、作品を楽しみにしています。
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