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世間さま

 作家志望の夫。それを支える妻。二人だけの家に、平べったい箱のような生き物「世間さま」がいつしか住みつくようになった。
 夫婦に何が起こったのか? 
「世間さま」とは何者なのか?
〝ある瞬間〟を小説化した、哀切の幻想譚。


 世間さま


「世間さま」がいつごろからわたしたちの家に住みつくようになったのか、わたしはよく思い出せない。
 もうずいぶん前からのような気もするし、まだほんの最近みたいにも思える。気がついたときには「世間さま」がちゃぶ台についていたし、さんまやら豆腐やらをいっしょに食べていた。カレーライスなんかも。朝は主人と同じようにコーン・フレークに牛乳をかけて食べているらしい。「世間さま」は出されたものを、おとなしく食べる。
「世間さま」の形状はすこし変わっている。
 身の長は40センチほどで、横幅はそれよりほんのわずかに短い。厚みは15センチくらい。その平べったい箱のようなからだに顔がついている。からだ全体が顔なのだ。目はゆで卵を横にしたようなかたちで、黒目がすごく大きい。紺色のビー玉がはまっているみたいだ。口の両わきはつねに持ち上がっているので笑っているふうに見えるが、V字形というのでもない。カモメが空をゆったり飛んでいるような格好と言ったらいいか──だから見ようによっては困っているふうにも、悲しんでいるふうにも見える。でもやっぱり、笑っているみたいだけど。
 ふだんは手足もなく、その場にじっとしていることが多い。座椅子に寄りかかっていたり、押し入れの二段目に乗っかっていたり、物干し場で陽を浴び、目を細めていたりもする。歩いたり、ご飯を食べたりするときにだけ、からだのなかから手足が出てくるのだ。にゅっ、と。とてもむっくりとした手足が。
「世間さま」はおとなしいからいいなぁ、と主人は喉仏のあたりをさすりながら微笑む。夫は騒々しいことが大の苦手なのだ。だから友だちさえつくらない。携帯電話も持っていない。「世間さま」がいることすら、ぼくは時どき忘れてしまうよ──。
「世間さま」はたしかに物静かだった。箪笥と壁の隙間にもぐりこむのが好きらしく、横向きになって何時間も挟まったままでいたりもする。そうなるとこちらからは目も口も隠れてしまうので白い箱となんら変わらない。家の柱や梁に登りたいのかただ眺めているだけなのか、やけに熱心に見上げていたりすることもある。お風呂は嫌いらしく、入れてみようかとこちらがちらっと考えただけで一目散に逃げていく。いちど主人と無理やり湯船につけてみたら、いやにからだがふくれてきたのでびっくりして拾いあげた。しばらくは真っ赤になったまま板の間でのびていた。「世間さま」は、ほんとうに面白い。
 ただ、あたまの左わきについた煙突から、「世間さま」は煙を吐き出す。
 ぽっ、と輪っかになった煙を出し、それが消える前にまたぽっ、と輪を上げる。ぽっ、ぽっ、ぽっ、と。輪っか状の煙を。朝も、昼も、夜も。ぽっ、ぽっ、ぽっ、と。
 その気体はかすかなピンク色をしていて、匂いは綿飴にすごく似ている。夜店の光景が目に浮かび、人びとのにぎわいが耳に聞こえてきそうになるくらい。わたしは子どものころお祭りが大好きだった。舌の上に感じた甘い味。金魚すくいにヨーヨー釣り。ヒヨコ釣り、なんてものまであったなぁ。あれだけはなんだかかわいそうで見ないようにして通りすぎた。ヒーローたちのお面。わくわくした当てもの屋さん。たいていはソースを塗ったおせんべいしかもらえなかったっけ。大好きだった兄。鼻にしわを寄せて笑う癖。二重瞼の大きな目。つないだ手と手が夜店の明かりでオレンジ色に染まってた。兄の手のひらの感触に包まれ、安心し、誇らしいような気持ちになった。友だちに見つけてほしくて、まわりをチラチラと見たりもした。そして、やさしかった父と、母──。むかしは家族みんなが、ほんとうに仲が良かったなぁ──。
「世間さま」が家に来て間もないころ、わたしは主人に尋ねてみた。あの煙はなにかしら? さぁね、と夫も首をかしげた。「世間さま」はトイレに行かないみたいだから、その代わりのようなものなんじゃないかなぁ。いやな臭いがするんだったらぼくもつらいけど、さいわいお花畑めいたいい香りだからね。なんにせよ生理的なことだと思うから、こちらからは質問しないほうがいいよ。傷つけてしまったらかわいそうだ。
 そうね、とわたしも微笑む。主人にはお花畑めいたいい香り、に感じるらしい。わたしはやっぱり綿飴の匂いに思えるけど。傷つけてしまったら、というのは考えすぎのような気もしたけど、わたしは夫のそんなやさしすぎるところも好きなのだ。いっしょに暮らし始めてずいぶんと時間が経ったけれど、じぶんにはもったいないほどの人だと──わたしはいまでも思ってる。
 主人は本を書いている。
 すごく哲学的な小説だ。わたしにはむずかしすぎてよくわからない部分も多いのだけれど、素晴らしい本なのだと思う。真っ白な紙にひとたび夫の文章がならぶと、紙面そのものが輝いて見えるのだ。ほんとうにふしぎ。出版はまだされていない。新人賞のたぐいに応募することも、もうやめてしまった。
 人と競争することはもう卒業だよ、と主人は笑う。それになにも急いでプロの作家にならなきゃいけないわけじゃないしね。いまはとにかく、納得のいくものを書きあげたいんだ。
 わたしもうなずく。たっぷりと、いくらだって時間をかければいい。夫の夢がわたしの夢。立派な本が世に出、主人とのことを兄や両親が許してくれる。認めてくれる。そしてその小説は多くの人たちの愛読書となる。その日を迎えることだけが、わたしにとっての生きがいなのだ。

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世間さま

智(とも)

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コメント (1)
生きるために生まれてきたはずの世の中に、少しずつ毒を注がれて行く。理想やささやかな幸せが散り、しかし、責めようとした相手に実体はない。そんな時、心に浮かぶものは、この小説の登場人物に似た自分の姿ではないだろうか。
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