見出し画像

海を見上げる、その暗く温かな場所で

 

 
 待合室。列車に乗る客は男のほかにはいなかった。
 つぎの列車が到着するのは朝になってかららしい。切符売り場のなかに駅員が一人座っていて、この年配の職員から男は聞いたのだ。列車が来るのは朝になってからなのだ、と。
 待合室は天井が高く、どこか木造校舎を思わせた。客の男は茶色いコートを着、背なかを丸めてベンチに腰かけている。髪が全体的に伸びすぎている印象を受ける。整った顔立ちだが頬が削げていて、目の表情には陰があった。くたびれたチノパンツにつつまれた長い足。わきにはスーツケースがひとつ置かれていた。朝までこの待合室で過ごそうか、それともいちど町に出てみようかと男は考えた。ここまで乗ってきた列車から下り、薄暗い連絡通路を歩き、懐かしいようなこの待合室にさっき着いたのだ。
 男は壁の時計を見た。0時を少し過ぎたところだった。朝の列車に乗る以外、予定は何もない。会うべき人もいない。まったくの自由な時間だった。わずかに心が浮き立ってくるのを男は感じた。闇がゆっくりと明るんでいくような、それは幸福感に近いものだった。だが、いろいろなことを断片的に思い出すと闇がまた濃くなり、その目は空洞にも似た陰を帯びてくる。記憶と記憶がうまくつながらないまどろこしさも覚える。こめかみの奥が痛んだ。まるでどこかに打ち付けたかのように。
 男はベンチを立ち、駅員のいる切符売り場のほうへ近づいていった。あらためてよく見ると、駅員は本当に歳をとっていた。三十五才になる男の倍以上の年齢に思えた。老醜のようなものは感じない。真っ白な髪に櫛のすじがきれいに入っている。表情も柔和で、優しげだった。男と目が合うと老齢の職員は微笑んだ。何も心配することはないのですよ、とでも言うように。
「スーツケースを預けることは可能ですか?」、茶色いコートの男は尋ねた。「町を少し歩いてみようかと思いまして」
 預からせていただきますと駅員は答えた。目尻のしわが深くなる。コートの男も薄く笑みを返した。 
「カバンの中身はなんですか」、駅員は立ち上がり、スーツケースを切符売り場の奥へと入れた。
 男は、老人の横顔を見た。スーツケースの中身を問われるとは思わなかったのだ。
 そういうものなのかもしれない。頭がやはりぼうっとする。こめかみの奥が痛んだ。老人はまた椅子に座りなおし、柔和な微笑みを男に向けた。
 男は答える。「スケッチブックや、エンピツ、── そういったものです」
「絵をお描きになる?」
 そうです、と笑みをつくった。そして首をふった。「油絵画家です。売れませんがね。どんどん売れなくなる」
 本当のことだった。風景をワイエス風のリアリズムで描いていたころは、それなりの需要はあったが── 。
「作風が変わってこられた?」
 老人は興味深げな表情になった。本当に聞きたいのか、社交辞令として聞いているのか、どちらともつかなかった。いやな感じは受けなかった。自分の作品について話せる誘惑に、男は勝てなかった。創作家とは弱い生き物だな、と胸のうちで苦笑する。
「変わってきました」、男は答えた。「ずいぶんと変わってきました。すでに、絵画ですらなくなってしまったかもしれません」
 ほう、と老人はわずかに身を乗り出しさえした。
 男は気を良くし、つづけた。「キャンバスに言葉も書くようになったんです。自分で考えた言葉です。絵の具で描く、ナイフで削って下地を見せ、その削りあとが言葉になっていたりとか── いろいろ試しています」
「どういった言葉です?」
 そうですね、と男は眉根をよせ、斜め上を見た。天井いっぱいに、車輪の絵が描かれていることにそのとき気づいた。機関車にでも付けるような、鉄でできた黒い車輪だった。「── 格言、と言ってしまうと大げさなんですが── 僕の心のなかから出てきた想いです。それを言葉にして、書く。描くんです。もともと言葉が好きだったんです。絵も好きだし、言葉も好きだった」
「売れませんか?」
「売れませんね」と男は笑った。老人の愚直な物言いが可笑しかった。「作品のコレクターの方はいてくださいます。ファンのような方や。作品集も小さな出版社から出しています。でも生活は苦しい。妻も、小学四年になる娘もいますから。もっとなんとかしたいのですが── 美術関係者や、百貨店の人間なんかと付き合うのも得意じゃなくて── 」
 老人は、作品をぜひ見たいと言った。男はいちど仕舞ったスーツケースを奥から出してもらい、二冊ある作品集を手渡した。初期の風景画。近年の、言葉も描く路線── 。老人は眼鏡をかけ、一作一作、見ていった。黙ったまま、ゆっくりとページをくっていく。レンズの奥の目つきまで鋭くなった。男は落ち着かない気持ちになり、壁や、天井の車輪の絵、出口のガラス扉のほうへと視線を逃した。ガラス越しに夜が見えた。壁の時計の針が、〇時三十分を指した。
 老人は本から顔を上げ、両手を使ってゆっくりと眼鏡をはずす。満足げな笑みを男に向けた。「あなたは、素晴らしい才能をお持ちだ」
「才能は無くはないと思います」、男は目を伏せ、自嘲気味に微笑んだ。力なく顔を上げる。「ですが── 無くはない、程度の才能があっても、哀しいだけなんです。圧倒的じゃないと。でも圧倒的な才能を持った人間など、いつの時代だってごくわずかです。あとはたくさんの、無くはない、程度の才能を持った、哀しい人間がいるだけです。たくさんの、哀しい人間がいるだけなんですよ」
 しゃべりすぎているな、と男は意識した。しゃべりすぎると、たいていそのあと自分で自分が嫌になってくる。本をスーツケースに戻した。貧相な表紙だな、と思った。〈幸野清孝〉の文字が映った。コウノキヨタカ、哀しみの作品集だ── 。
「町を歩いてきます」、幸野は言った。一人になりたかった。心のうちで苦笑する。俺はたいてい一人っきりになりたいんだな。
 足早に出口のガラス扉のほうへと進んだ。肩越しに振り返った。「スーツケース、よろしくお願いします」
「ごゆっくり── 」
 幸野はガラス扉を引き、外へと出た。風を受けてコートの裾がひるがえる。後ろ髪がなびいた。幸野の姿が夜に溶け、扉がゆっくりと戻り、閉った。
 待合室にひとり残された老人は、顔にまだ笑みをとどめたまま、ガラス扉のほうを向き、おだやかな声でつづけた。
「この世界は幸野さん。たったひとつの言葉しか話さないのです。ええ、何を語りかけたとしても── 『仰せのとおりに』と。その言葉だけを。何を語りかけたとしても。鏡の反射のように。そう、世界はただ── 『仰せのとおりに』とね」


 夜空の下、街は静まり返っていた。
 石畳の街路は星明かりを映し、青く濡れたように見える。左右の建物はみな四階以上の高さがあった。星明かりの青さと黒い陰との二色で構成されている印象を受ける。ところどころに立つ街灯の光も青かった。冬枯れの木々をぼんやりと照らしだしている。枝が、ひび割れた心のように幸野には映った。建物のほとんどは闇に溶けている。明るく照った壁のある部分には、組み上げられた足場の影が複雑に映り込んでいた。非常階段がシルエットとなって何処へともなく登っていく。灯のともった窓はない。歩いている人の姿も見かけなかった。
 遠くに、モスクのような巨大な建物が夜に浮かび上がっている。
 下のほうから乳白色の照明が当てられているらしい。まるで建物自体が命を宿しているように見える。中央にあるドーム状の屋根。その左右に立つ細長い尖塔。ひどく瞑想的な光景だった。背景となった夜空は高く、どこまでも奥へ広がっている。
 思わず立ち止まり、幸野はその光景を眺めた。何の建物なのだろう。本当にモスク── 礼拝堂なのだろうか。畏怖にも似た想いを抱くと同時に、心が休まるようでもあり、つま先が持ち上がり、逆さまになったまま、どこか遠くへ飛ばされていくような錯覚も覚える。この街のどこにいても、あの建物を見ることができるのだなという気がした。
 見知らぬ深夜の街を一人で歩くのは開放感があった。不安はなかった。ずっと歩きつづけたいとさえ思った。自分が連続する時間から切り離され、暗い球体の内部に浮かんでいるような安堵を覚える。
 幸野清孝は漂うように足を運んだ。
 

この続きをみるには

この続き: 17,851文字

海を見上げる、その暗く温かな場所で

智(とも)

200円

この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?
気軽にクリエイターの支援と、記事のオススメができます!
ありがとうございます! ぜひ、「はてなブログ」の方へも!
2
感受性が豊かで、傷つきやすく、ひとりが好きで、そして優しすぎる、そんな〝あなた〟に向けて書いているサイト、はてなブログ「Blue あなたとわたしの本」運営中。お立ち寄りいただけましたら嬉しいです。https://btomotomo.hatenablog.com
コメント (1)
心情も情景もとても細やかに書かれていて、登場人物の脈拍を感じることができる。冬子(少女)の言葉は全て、書くということへの作者の決心であり、他の表現者への提言ではないだろうか。少女から大人へと変わって行く冬子は、これからどのような、冬子だけの物語を深海から持ち帰るだろう。それを読む私達もまた、自分だけの物語を抱きしめながら、冬子を待ちたいと思う。
コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。