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【随想】映画でも健在、『ダウントン・アビー』の華麗なる群像劇

日本での公開翌日、深夜に『ダウントン・アビー』を見る会を決行しました。ドラマ(シーズン1~6)のファンのみならず、英国歴史マニアの間でも前評判の高かった映画版です。なるべくネタバレしないように振り返りたいと思います。

誰もが主人公となり得る史劇エンタテインメント

その贅を極めた華麗さと緻密な歴史描写において、同じく貴族社会を活写したルキノ・ヴィスコンティ監督の『山猫』にも匹敵するほどの完成度の高さもさることながら、複雑な群像劇の巧妙さやストーリー展開の面白さは、もうドラマ版そのまま! 通常、ドラマが映画化されると、どうしても内容が軽薄になりがちで物足りなさを覚える作品が多いように思いますが、こと本作については、例外的な出来だといっても過言ではありません。

前述の『山猫』では、サリーナ公爵という一人の人間の精神性をいわば文学的に深く掘り下げることで、没落しゆく貴族の姿を象徴的な頽廃美(デカダンス)として描き出すことに成功しました。原作はシチリアの貴族であるトマージ・ディ・ランペドゥーサ(本作でストレーガ賞を受賞)、そしてヴィスコンティ監督自身もミラノの貴族出身というだけに、作品全体に孤高の人ならではの高貴な美学が漂います。

その点、群像劇である『ダウントン・アビー』は、“誰もが主人公たり得る”という複数の視座(カメラワーク)によって時代を写し取っており、そのことが作品に幅広さを与えています。ここでは貴族も使用人も皆、自らの人生を生きることに必死で、「多少見苦しくても生きてやるぞ」という人間臭さがむしろ愛おしく思えるくらいです。その辺をエンタテインメントとして平然とやってのけるのは、シェイクスピアあたりの風刺や諧謔の流れを汲む英国人気質なのかなと思ったりもします。

現代人にも共鳴する当時の“あるある事情”

映画の時代設定が1920年代後半というのも、大切なキーワードになります。

19世紀の長きにわたったヴィクトリア朝は、産業革命によって大きな変化をもたらしましたが、同時に極めて因習的な道徳や固定観念を人々に植え付けた時代でもありました。

そして20世紀初頭、自由な気風が流れ、参政権運動や共和制支持が広まっていく中で、階級間の移動が進み、価値観の多様化にそろそろ人々は気づき始めました。身分差別(社会格差)やジェンダー(LGBT)、生き方の模索(人生の自由な選択)など、現代にも通じる要素も散りばめられているからこそ、今に生きる私たちの共感をくすぐるのでしょう。

余談

トーマスとバイオレットお婆さまは、ドラマ版での怪演もずっと光っていましたから、感慨深さのあまり涙腺ブスリと2回やられました。

トーマス……本当によかった。いかなる形の愛も美しい。どうぞお幸せに。

そしてお茶目な策士のバイオレットお婆さま。貴女は人の何倍も濃密な人生を歩んでこられました。どうか最後まで辛辣な名言をもって、有終の美を飾られますように。

リピートして何度でも会いたくなる、ダウントン・アビーの愛すべき人々よ……。公開中はあと5~6回は見に行くことでしょう(笑)

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