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アジールとしての動物園(Ⅱ)――無縁・南蛮・死生観

 

■ アジール

Asyl(独)/asylum(英) ――不可侵の場所。聖域。自由領域。無縁の縁を結ぶ場所。


 たえず移ろいでいく現代社会の中で動物園・水族館は、「4つの役割」――「①種の保存 ②教育・環境教育 ③調査・研究 ④レクリエーション」を大きな目標として掲げています。

 しかし、この4項目に包摂されない「隠された役割」――「『居場所』としての役割」もあるのではないかと考えさせられる機会が何度かあり、2019年に「アジールとしての動物園」と題した記事にまとめました。

 「アジール」という聞きなれないことばをタイトルに冠したのは、動物園・水族館といった場所が単なる人間の寄合の場としてではなく、ヒトならぬいのちたちを含め多様な背景を持ったものたちが「無縁の縁を結ぶ」場所としてコミュニティたりうる点に注目したからです。これは「私有」を前提とした「ペット」とはまた違う「生きものとヒトとの関係性」です。



 この記事についてはその後まとまった考えを展開させる機会を持たなかったのですが、日本中世から古代において形成された様々な形の「アジール」を研究した『無縁・公界・楽』(網野善彦/増補版 平凡社ライブラリー,1996)を読み、いま一度「アジールとしての動物園」という主題について、これまで歩いてきた動物園から垣間見えた光景に照らしながら捉えなおしたいと感じました。


 ここからは3つのキーワード――「無縁」「南蛮」「死生観」を掲げ、同書と現代の動物園の風景を相互参照しながら、動物園の「アジールらしさ」を考えていこうと思います。


■ 無縁

   『無縁・公界・楽』で「アジールとは何か」を述べていくにあたり、筆者の網野さんは子供の頃に遊んだ「スイライカンジョー」(水雷艦長)の思い出を冒頭に掲げています。

そこにふれ、またとびこむと、外の勝負、戦闘とは関係なくなり、安全になる場所や人、またそこに手をふれ、足をふみ入れることによって、戦闘力、活力を回復しうるような空間や人間。(中略)もちろん「陣」にとらわれて「捕虜」になったものの存在を忘れてはいけないとはいえ、「解放」の救いはここには広くひらけているのである。――網野善彦『[増補]無縁・公界・楽』より「エンガチョ」

 外の世界――とりわけ、公権力の定めや競争の圧力から離れた自治の論理によって、人々を「解放」する場所。

 現代の動物園・水族館が掲げる4つの役割のうち、「レクリエーション」の主眼は、まさに同じ点にあると言えます。

 もっとも、JAZA(日本動物園水族館協会)に加盟する動物園のうち過半数以上は都道府県・市町村が設置主体です(水族館は対照的に民営が多いのですが、本稿で詳細に触れることは控えます)。

 このことは、動物園の運営も自治体予算の制約の中で執行されることを意味し、必ずしも公権力の趨勢と「無縁」ではいられないということを意味しています。また国際交流の文脈に沿って動物が移動する場合、政治のダイナミクスが介入することもあります。

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タンタン(ジャイアントパンダ)/神戸市立王子動物園


 しかしながら、動物園がその使命とし人々に幅広く伝えるメッセージは、自治体や国といった枠を超えた普遍的なものです。

動物園や水族館では、珍しい生き物を見ることができます。でも、珍しいということは、動物の数が少なくなっていることでもあるのです。
生き物は、個々の動物園や水族館のものではなく、私たちみんなの財産です。動物園や水族館は、地球上の野生動物を守って、次の世代に伝えていく責任があると考えています(希少動物の保護)。
動物園や水族館は、数が少なくなり絶滅しそうな生き物たちに、生息地の外でも生きて行ける場を与える、現代の箱舟の役割も果たしているのです。――日本動物園水族館協会公式HPより「4つの活動」

 人種、国籍、職業、性別、社会的地位といった属性をいったん差し置いて問いを「平等」に投げかけ、共通の考えるきっかけを与えている点に、動物園という場が持つ「アジール」性――既存の社会序列から「無縁」の、リセットされた状態から問いかけをスタートしていく特質を見出すことはできないでしょうか。

 なお、「無縁」の場としての役割を持っていた寺社が古代から中世にかけ様々な宗派に分裂していったように、現代では生きものをめぐる倫理や思想にも多様な立ち位置が現れているのですが、本稿で詳述するのは差し控えます。

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THE TERRITORY/神戸市立王子動物園


■ 南蛮

 『無縁・公界・楽』では、定期的な市の日に多くの人々が集いにぎわいを見せた「市庭」や「寺社門前」も、中世におけるアジールの代表例として挙げられています。

死者の世界との境界、神々と関わる聖域、交易・芸能の広場、自治的な平和領域、王権との関係。これらの諸要素は日本の市にも、全く同じように見出すことができる。市はきわめて古くから、河原、中洲、浜、そして山野、坂などに立った。――網野善彦『[増補]無縁・公界・楽』より「市と宿」


 私はこの断章を読み、ある屏風絵のイメージを思い出しました。「南蛮屏風」(狩野内膳筆/国重要文化財,神戸市立博物館所蔵)です。



 港町の商店街――「市」で、躍動する異国からやってきた人々――「南蛮人」。彼らの躍動する姿は、朝廷や城郭といった公的な場ではなく、「無縁の場」たる市を背景に描かれました。

 そしてこの絵には、「南蛮人」とともに、ゾウ、トラ、ジャコウネコたちといった、「エキゾチックな」動物たちの姿も描写されています。


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「KANEKO・TANUKI」/静岡市立日本平動物園


 「動物園」というはっきりとした名を持つ場が現れる以前から、舶来の禽獣は大きな関心のまなざしを向けられてきました。

 日本にもともといなかった様々な生きものの姿が「南蛮人」たちとともに活写された「無縁の場」の屏風絵に、「近代動物園」が誕生する以前の日本人が抱いた動物収集意欲の原風景を見出すのは、うがった捉え方でしょうか。


■ 死生観

  『無縁・公界・楽』ではまた、「無縁」の場の代表例として「墓所」が挙げられています。もとより聖地性を持つ場所とみなされてきた「山林」を中心に置かれ律僧らが執り行う葬送の場となってきた墓所では、「無縁の人」が生きる道を見出し、積極的に受け入れる空気が存在していたと指摘されています。

 ひるがえって、現代の動物園の風景を見てみましょう。動物園は、生きている者たち――「生きもの」が暮らすさまを魅せる場であり、墓所とは真反対の性格を持つ施設であるように一見思えます。しかし、新しいいのちの誕生もあれば、永遠の眠りにつくいのちもあります。多くの生きものはヒトよりも寿命が短く、人間社会よりも早いサイクルでいのちが循環していきます。

 多くの園館で開放されている「動物慰霊碑」を探すまでもなく、動物園・水族館は「死の匂い」が濃くたちこめた場所でもあるのです。


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獣魂碑/宇都宮動物園



のんほい(慰霊碑)

動物慰霊塔/豊橋総合動植物公園(のんほいパーク)


 「動物園」と「墓所」の相似について述べるうえで、地域の墓地と向き合う、あるいは隣接するような形で敷地が設けられている動物園の写真はいくばくか補助線になるかも知れません。動物園もまた、街の郊外に開かれた「山林」に立地していることが多い施設です。


到津

園の背景に墓所が広がっている。/北九州市到津の森公園


神峰

公園内の動物園から続く坂道をさらに登っていくと、眼下に墓所が姿を現した。/日立市立かみね公園


須坂

写真には写っていないが、寺と墓所が隣接する。そういえば「となりのトトロ」もどことなく生と死の境界を感じさせる作品だと思う。/須坂市動物園



 特に現代の都市生活の中で、人々の眼前から見えないように覆い隠されている「死」。その「死」が、「生」と一体のものとして身近にある動物園は、「葬送」を中心としたアジール、という顔も持っていると言えそうです。

 旭川市立旭山動物園の園内では、とりわけ「死生観の場所」としての動物園の役割について自覚的に発信が行われています。生きているものは、どんな立場でも「死」と無縁でいられません。だからこそ「死」とも向き合う、というスタンスが一貫して表明されています。

訃報に接したあと、人は集まり、相談を重ね、葬儀を執り行う。第一報にふれた時の敬虔な感じ、驚きや悲しみはだんだんと薄れ、その人の死を受け入れ、その生涯を解釈するようになる。(中略)小菅さんにいわせれば、動物は生きがいを求めない。パンのみにて生きる。命に忠実に生き、命をつなぎ、そして死んでいく。(中略)なるほど、動物園は死を考える場所であり、人間について考える場所でもある。――木下直之『動物園巡礼』(東京大学出版会,2018)

旭山1(老い)
旭山2(死)

「伝えるのは、命のかがやき」/旭川市立旭山動物園


■ 「動物園は平和なり」


 戦後日本動物園の父、古賀忠道博士は"Zoo is the Peace."――「動物園は平和なり」ということばを残しました。


平和」は悲惨な戦争を経験した戦後日本にとって特別な意味を持つキーワードであり、戦時下のもっとも動物園が苦しい時代を知る古賀博士が「平和」のメッセージを動物園に刻印したことは、日本人にとっての「動物観/動物園観」のひとつの道標となりました。


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日本動物園水族館協会の最高賞「古賀賞」/鶴岡市立加茂水族館


 世界的な疫病禍の拡大による全国的な園館の一時閉鎖の中にあって、私は「平和」ならざる「乱世」「非常事態」の下では、ヒトならざるいのちをはぐくむ場は切り棄てられてしまうものなのか、という大きな問いを突き付けられたような思いでいます。

 しかし、現代よりもはるかに世の中が不安定でヒトの命が軽かった時代の、社会のあちこちに存在した「無縁の縁を結ぶ」場所が担った役割とも、古賀博士ら先人が築いてきた「平和の象徴としての動物園」は、互いに響きあっているように感じられるのです。

原始のかなたから生きつづけてきた、「無縁」の原理、その世界の生命力は、まさしく「雑草」のように強靭であり、また「幼な子の魂」の如く、永遠である。「有主」の激しい大波に洗われ、瀕死の状況にたちいたったと思われても、それはまた青々とした芽ぶきをみせるであろう。――網野善彦『[増補]無縁・公界・楽』より「人類と『無縁』の原理」


 疫病とその存在がもたらす恐怖に人々の意識も社会システムも取り込まれ、予断を許さない社会情勢の中ですが、少しずつ再開園する動物園が増えてきています。

 本稿で見てきた「アジールとしての動物園」のはたらきについて、実際に園館の現場に足を運びながら、今後も注視していけたらと考えています。