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「新訳 動物園が消える日」のための創作ノート(未定稿)

    これまで訪れてきた、動物園のひとコマを切り取った「『新訳 動物園が消える日』のための取材ノート」をまとめながら、これらのノートが繋がっていくべき創作――「新訳 動物園が消える日」を、どうやって描き出していこうか、と思案した。以下はその思考の過程を、ひとりブレイン・ストーミングとでもいうべき連想の奔流に任せるまま、覚書きしたものであります。未定稿です。

    とはいえ、宮沢賢治という巨大な先人も語るように、永遠の未完成、これもまた完成なのです。

1.インスパイヤ

「動物園が消える」というテーマを強く意識するに至った直接のきっかけ、唐十郎の『動物園が消える日』は、戯曲作品だった。


  この先行作品にならって、「新訳 動物園が消える日」を、戯曲形式で創作していくことをはじめは考えた。

   しかし、筆が乗らない。軽妙で洒脱な会話が持ち味だった唐十郎の芝居をそのまま猿真似したとて、それは私が考える「動物園が消える日」を表現したことにはならない。昔から、物語であれ、映画であれ、ルポルタージュであれ、たくさんの語り手がひとつの物事についてそれぞれの立場で関与していく群像劇が好きだった。ただし、それを不慣れな戯曲という形式でやるのは、荷が重い。私はいまの私に出来る精一杯の表現形式、連作短編を選ぶことにした。

2.習作

    昨年暮れからことし夏にかけて、「変わりゆく動物園」をテーマに群像物語を書いていた。ことし開催した「動物園オフ会」の参加者に配布することを目標としたこの連作に、私は「いのちの箱舟」というタイトルをつけていた。



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    これらの作品群は、現代の動物園について取り沙汰されているいくつかの問題提起をフィクションの形式で再編成し、従前の言説と違う角度で表出することを試みていた。

    1作目の「ノスタルジアの王国」は、ある事件をきっかけに動物を展示することを禁じられた動物園が、映像技術を駆使しながら「記憶のメディア」の場として姿を変えた場面を描くことを企図した。

    2作目を構成する4篇(「ある開園日の朝」「ふれあいシェルター」「園長会議」「牧羊神の笛」)は、組織再編・集約化・国立公園化を果たした動物園の姿を仮想し、その園が動物たちのみならず多様なバックグラウンドを持った人々を包摂する場――「アジール」として機能していく場面を描くことを企図した。

    この2作(5篇)は「動物園が消える」という事象そのものを描いてはいないものの、動物園という場を訪問していく中で感じたことを仮構のオブラートに包みながら問題意識として落とし込んでいく作業を経て完成した、いわば習作だった。

3.試みと失敗

   「いのちの箱舟」には、自分が問題意識として抱いていたテーマをなるべく多く盛り込むことを心がけた。その試みはある面では成功した。一部の登場人物の声だけを大きくするのではなく、多様な人物の意思発露を描き出すことで、群像劇らしさを表現したいと考えた、当初の方向性はブレなかった。

しかし、大きな反省もあった。どの作品も、表出された「動物園の未来」に再考を促すような問いが終章に唐突のように現れ、結論が出ることはなく、「俺たちの戦いはこれからだ!」的なスタンスで完結している。早い話が、物語として面白くないのだ。状況を設定することに精一杯で、血湧き肉躍るような冒険も、困難への挑戦も、ストーリーラインに組み込まれていないのだ。これは「近未来フィクション」と銘打った作品にあっては致命的なことだ。

    事件らしい出来事は起こるものの、自分自身の立ち位置、理想、思考の限界が凝り固まった登場人物たちが、書割りの世界でそれぞれの理想を独白している。この創作ノートを覚書きするにあたり「いのちの箱舟」全編を通して再読した時の印象は、「観念小説」だった。御託を並べるだけならば、自分自身のことばとして述べるべきなのに、私は何をしているのか。不甲斐なかった。フィクションが、フィクションであることの意義は、特にその表現が未来を志向するものであるならば、現実を突きぬけていくドライブ感にこそあるはずだ。

4.Re-fresh

「新訳 動物園が消える日」を構想するにあたり、反省点の多かったこの過去の作品群をそのままにしておく訳にはいかないだろう、と思った。まるで書割りのような世界像を、「動物園が消える」というテーマに沿って揺さぶってみたい、そんな欲望に駆られた。「動物園が消える」場面に直面した時、凝り固まった登場人物たちも大いに惑動し躍動せずには居られないだろう。休眠した設定をリフレッシュさせ、再びいのちを吹き込むことは出来るだろうか。出来る限り、やってみようか。

   私は私がもっともフィクションの世界に熱中していた中学校に入りたての時分を思い出した。宗田理の『ぼくらの七日間戦争』、重松清の『きみの友だち』、石田衣良の『4TEEN』。いずれも、たくさんの若い人たちが惑いながら活躍する物語だった。私の連想は、日本モンキーセンター元所長の河合雅雄先生も草山万兎の名を借りて見事な少年少女小説を何篇も創作していたことにも行き着いた。ジュブナイルだ。そうだ、未来志向のフィクションをつくるのに、若い人たちを語り手に加えなくてどうするのだ。

   凝り固まった意見の応酬が多くを占めてきた「いのちの箱舟」の小説世界でも、比較的希望(らしきもの)を盛り込めたかな、と感じる一篇がある。それが「ふれあいシェルター」だ。というふたりの少女が登場する。



  響の母でシングルマザーの中道七海が語り手となったエピソードなので、まだふたりには語り手としての主体は与えていなかったが、成長譚としての一定の物語性をこの一篇に関しては盛り込めていた。今度は、このふたりを軸とした若い人たちに、積極的に語り手になってもらおう。

「動物園が消える」という、ともすれば悲観的になりがちな物語に、唐十郎がかつて達成したような「いのち」を吹き込むことに挑戦しよう。

  唐版とはまったく違う形になってもいい。私は私の手持ちのカードで、「動物園が消える日」の役を揃えていこう。

5.歩きながら、書く

  これまでまとめてきた「取材ノート」を軸に、掌編を少しずつ、少しずつ書き連ねていこうと思う。これまで園館等施設を歩いて触れてきた中で、「取材ノート」として公開することはない場面も、物語には少なからず影響を与えることになるだろう。この創作をもって、私のここまでの園館等施設訪問のひとつの決算としたい。

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   一方で、 私の動物園巡礼は、もうしばらく、あと少しだけ続いていく。ここに書いたリストには、近いうちに以下の園館やその跡地が加わるはずだ。

月岡動物園(跡地)

行川アイランド(跡地)

甲子園阪神パーク(跡地)

宝塚ファミリーランド(跡地)

みさき公園

池田動物園


   見る前に跳べ、と云ったのが、誰だったかは忘れた。けれど、私にとってわずかに残された祝祭のような時間を、自分のペースで歩きながら、見て回りながら、ひとつの区切りのために、執筆というやり方で跳躍していきたい。


「迷子のカンガルーになって行きゃいい。ケンケンパをして。(略)ケンケンパで、そこへ跳びこめ。ヒトはいつも立っている。悩むごとに立ちつくす。振り返って、いつもそこまでケンケンパをしてやって来たことを忘れてる」――唐十郎「動物園が消える日」より



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