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【雑記】えーん えーん えーん (猿、厭、遠)

庚申にさるなしひとつ置き去りぬ見ざる聞かざる言わざるおきて   ――自作短歌「ひかりはあらゆるばしょにある」


  霊長類フリーマガジン「【EN】ZINE」の製作の後、しばらく繁忙期が続き、その繁忙期も抜けたあと、気付くと茫漠とした心象が広がっていた。

  「【EN】ZINE」は幸いなことに概ね好評を持って迎えて頂き、手元には十数部が残るのみとなった。

  紙の本は、発送を申し込んで下さった方々の手元まで、散り散りに旅をしていった。ずいぶん遠くまで行けた気がした。それでも、世界は遠いままだった。致し方ない。こんな状況なのだから。


    多くの方に力を貸して頂いたからこそ実現した企画だった。それにも関わらず、私の気持ちは塞いでしまっていた。一種のバーンアウト、と分析することはできるかもしれない。けれど、なんて欲張りなのだろう。

    私は私的な創作を企てたいという、ある種身勝手な願望を満たしたに過ぎない。にも関わらず、何者かになれたと勘違いしていたのだろうか。生活の何かが変わると高望みしていたのだろうか。


  「三猿」というモチーフがある。日光東照宮にも掲げられている「見ざる、聞かざる、言わざる」だ。

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(台北、圓山孔子廟付近にて。2019年1月撮影)

   私は表面上私自身の気持ちを悟られぬよう過ごした。けれど、そうすることによって、心の眼、心の耳、心の口を、自分で塞いでしまっていた。

    そんな風にしていると、次第に寂しさが襲ってきた。当たり前だ。世界を消そうとすれば、私しか見えなくなる。そんな状態で周囲と交流を持とうとしても、寄り掛かり、になってしまうだけだ。

    実際、自分都合で動くことによって、頒布に際し礼を失してしまった場面もあった。あの時はどうかしていた、などという自己弁護は通らない。

    世界から目を背けて、私の心のうち、だけを見ていたら、人との心の通うやり取りは、絶対にできない。

   二本だけの腕で覆うことが出来るのは目と耳と口のいずれかである。猿にとって、世界は少なからず開かれている。しかし、阿修羅のようににょきにょきと腕が生えていたならば。六本腕の猿の姿を思い描いたとき、その異形はいまの私の状態を体現しているように感ぜられた。

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   心が向くままに紙の上に筆を走らせた。姿を現した異形の猿は、嗚咽しているように見えた。ゴッホの「悲しむ老人」にもどこか似ていた。

  すべてが遠い。私の小さな生活が、私自身の卑小さが厭わしい。でも、こころは泣いている。えーん、えーん、えーん、と。駄々っ子のようだ。


   「私は、」だらけになって、でたらめに周囲にすがろうとしていた私に対して、決して厳しくない調子で、でもはっきりと諭してくれたひとがいた。寂しさを愛せるひとだけが、日々を大切に生きることができるのだ、と。

    私はもう一度ゆっくりと考えた。私は私の寂しさを埋めなくてはいけないものだと思い込みすぎていたのではないか。寂しさを寂しさとして認めながら、「私」に拘泥せずに世界に相対し、他者(ここでの他者は大文字の「他者」だ)に対して心を開き、切り結んでいくやり方も選び直せるのではないか。

   時間は少しかかってしまったけれど、この数日間は、十一月の氾濫するひかりのなかで、そんな風に切り替えていく時間を過ごせたように思う。


   やさしく諭してくれたひとに届くかも分からないけれど、感謝を伝えたい。間違いに囚われて感情に蓋をしていた私に、ゆがみに気付くきっかけを与えて下さり、ありがとうございました、と。

    「【EN】ZINE」の続編の製作は、ゆるされているうちに、きっと着手していこうと思う。そのための企てもすでに走らせ始めている。

  けれど、私は、世界の遠さに耐えうるだけの修練をもっと積んで、しなやかになっていくことをまず最初の一歩としたい。また六本腕の猿に絡め取られてしまう前に。ヒトもほとんどの霊長類と同様、群れを作る生きものなのだから。