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映画『ジム』山本起也監督 Q&A集🥊



映画『ジム』5/29上映会会場とTwitterにて募集した 〝 #映画ジム質問 〟に、なんと山本起也監督が文章で答えてくださいました!
山本監督のドキュメンタリーや作品への気持ちを垣間見れる素敵な回答ばかりですので、映画未見の方もぜひお楽しみください!





🥊撮影中、思わずカメラを止めてしまった、撮影対象に堪らず声をかけてしまった、何か衝動に突き動かされとってしまった行動がありましたでしょうか? (mush)


カメラを回し続けること、目の前に起きることに対峙すること、その覚悟こそがドキュメンタリーだと思いますので、思わずカメラを止めたことも、影対象に堪らず声をかけてしまったこともなかったように思います。また、何かの衝動に突き動かされた行動があるとすれば、この映画を撮ること自体が衝動だったのではないかと思います。




🥊16mmフィルムは、やっぱりこだわりですか。私的には、フィルム作品が大好きです。あのザラついた感じの映像がなんともいえませんね。最後の試合のシーン、最後の映像のみスローで途中から声がもどってくるシーン息が止まりました。 (熊谷のサイプロスハンマー)


画質へのこだわりもありますが、やはり100フィートで2分40秒しか撮影できないという枷がある(しかもたったそれだけの尺でものすごくお金がかかる)ということが、フィルムを選択する一番の理由です。いくらでも延々とお金をかけずに撮影ができると、「とりあえず撮っておこう」「撮ってから後で考えよう」というショットばかりが山のように積み上がっていくように思います。それよりは、今カメラを回すか否かを絶えず自問自答し、そこで決断し撮影されたショットには、それゆえの強靭さが宿ると思います。また、映像と音を別々に撮らざる(録らざる)を得ないフィルム撮影には、後から映像と音の組み合わせを考えなければならないという手間が発生します。それもまた、映画を想像し創造することへとつながると思います。




🥊『ジム』の出演選手のインタビューで日に長〜い沈黙がままありますが、あれは演出ですか?そのリアルさを編集でこわさないためですか?


何かを語る時より、語り終わった後、あるいは、口籠ったり言葉が出てこなかったりした時の「間合い」や「沈黙」の中にこそ、その人の感情が垣間見えると思います。映画の中で、八尋選手から言葉が出て来なくなる長いショットがありますが、インタビューの途中で相手が沈黙してしまった時は、カメラを止めないこと、合いの手を入れないことが大切だと思います。その沈黙こそが、彼の心情が最も表れている瞬間なのですから。




🥊のさりの島で、途中時間の中をただよって、時間の経過がわからなくなる…そういうことって何度かあるのですが、この映画はまたぜんぜん違う時間の体験をしました。いや、映画というと違うのでしょうね。そしてこのどっちが勝っているかわからない緊張感。あー、ドキュメンタリーって、こういう編集におしまいってあるのですか?というか言葉がまだみつかりません。 (シマシマ)


編集におしまいはありますが、映画におしまいはないのかもしれません、映画の中では、矢原選手は未だ戦っています。この映画が上映され続ける限り、矢原選手の戦いに終わりはありません。それは、終わらないというよりも、続いていくということなのかもしれません。『のさりの島』のラストもそうですが、物語が続いていくということが、希望なのだと思っています。




🥊何者かになろうとしていた彼等は何者かになったとお考えでしょうか? (OZAWA (101期))


皆それぞれ仕事を持ち、家庭を持ち、それぞれに何者かになっていくのだと思います。それはそれで幸せなことであり、必然なのだと思いますが、もはや「何者でもない自分に戻ることができない」ということを知った時、多分みなさん、青春が終わったことを実感するのではないでしょうか。




🥊皆さんにとってボクシングはどんなスポーツですか。


少なくとも僕にとっては、スポーツという言葉に収まりきれないものだと思います。この『ジム』という映画を撮ったことも含め、もはや戻れない場所。それがボクシングでありボクシングジムだと思います。




🥊途中電車のシーンが入るのはどんな意図があったのでしょうか。


ジムの近くに多摩川があり、夕方そこから東横線を眺めていると、スーツ姿の方々がたくさん乗っていらっしゃるんです。もしかしたら昨日まで僕もあちらの側の人生にいたのかもしれない。でも、ふと途中下車したらそこにジムがあった、自宅と会社の往復の人生からは見えない人生が、そこにあった。こちら側に来てしまった僕が、あちら側をどこか懐かしく眺めていた。そんな気分だったように思います。




🥊のさらーさんたちがこのような素晴らしいイベントを立ち上げてくださったことに対して今日の率直な気持ちをお聞かせください。 (映画『のさりの島』水前寺上映会スタッフ)


「『のさりの島』から始まった展開すごいね」「映画の観客の方々が自身で上映会を開催するなんてありえないよ」と、会う方会う方に声をかけられます。本当にその通りだと思います。多くの映画監督が、そんな風に自分の映画が広がっていけばいいな、と思っているのでしょうが、それが現実になっている自分は本当に幸せ者だと思います。ましてや、『ジム』という幻の作品までこのような形で上映いただいて、感謝しかありません。




🥊映画『ジム』の頃と現在を比較して、ご自身の映画に対する姿勢や考え方に何か変化がありましたらお聞かせください。 (映画『のさりの島』水前寺上映会スタッフ)


『自分がまだ何者かわからないものだけが持つことのできる時間が、そこにはありました』これは映画のナレーションの一節ですが、まだ何者かわからない自分だからこそ撮ることができた映画が、『ジム』なのだと思います。今は今で決して悪いわけではなく、今後も柔らかな眼差しで何かを見つめ映画を作っていくのだと思うのですが、この時のような無骨で強い眼差しは、もう持つことはできないように思います。




🥊ドキュメンタリーを作る上で気をつけたことはありますか?


ボクサーにカメラを向けるということは、試合中のアクシデントや、あるいは命に関わることまでを目を背けず見つめることがお前にできるのか、という自問でもありました。それができないのであれば、最初からドキュメンタリーなどというものには手を出すべきではないと思います。




🥊みなさん今リングに上がって試合したいですか?


実は、清水選手はこの映画の後復帰して、それをしばらく撮影したことがありました。それは結局大きくは膨らまなかったですが。でも、その気持ちはよく分かります。選手生命は終わりましたが、彼らは今でも心の中のリングで戦っているのではないでしょうか。僕は残念ながらそこまで競技自体に打ち込んだわけではないので、この問いに答える資格がないのが残念です。




🥊山本監督に質問です。インタビュー時、気を遣っていたことは(本音を引き出すのに工夫したこと、負けた彼の声の掛け方など)どんなことでしたでしょうか。


ドキュメンタリーとは「距離」です。被写体が写るのではなく、被写体との距離が写るのです。だから、矢原選手他ボクサーに自分の心情を重ねたり、彼らと同化しないよう、そこは気をつけました。彼らを見て涙したり心震えるのは、観客であるべきです。そのためにも、自分をどこかで突き放し、時に嫌なことでも聞く役割に徹することが僕の役割だと思っていました。一方で、ドキュメンタリーとは「関係」です。写るのは、彼らと僕の「関係」です。そういう意味では、彼らとは時間をかけできるだけ親密に、丁寧に付き合っていこうと思っていました。




🥊いろいろあって、しかし、最後はやっぱりこれしかないと57歳になった今年からキックボクシングを始めました。マスターの試合でチャンピオンになるまでを記録に残そうと思ったんですが、ドキュメンタリーは人を傷つけ得るという言葉に、確かにそいうだと思いました、その点をどう気持ちの整理をされたのでしょうか? (スライ)


単に記念に映像を残すのであれば、それはドキュメンタリーとは違いますので、誰かを傷つけるまでには至らないと思います。一方、そこに作者がおり、その視点で何かを描こうとする場合には、実際にカメラに写る人間を傷つけたり、感情にもつれが生じたりすることがある、ということかと思います。カメラの持つ暴力性を認めつつ、最終的には作り手の品性にかかってくるのではないでしょうか。ドキュメンタリー作家に必要な資質は、この品性をどれだけ高く保てるか、ということかと思います。




🥊この度は『のさりの島』上映1周年記念『ジム』上映おめでとうございます。今後の予定として同時上映予定はありますか?


9月18日(日)、19日(祝)あたり(予定)、大阪で開催予定のドラゴン映画祭で『ジム』『のさりの島』を同時上映します。会場は新世界東映。由緒ある映画館のスクリーンで二作を同時上映できることを、心より楽しみにしています。東京の皆さまからすると大阪は遠いですが、ご都合が許せばぜひ会場に足をお運びください!





■問い合わせ先
山本起也監督『ジム』上映会実行委員会
(のさりの季節友の会)
✉️Gmail  nosari.season@gmail.com



















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