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【ざっくり中国史㉔】「国民党」と「共産党」

中華民国が建国されてすぐの頃、第一次世界大戦が勃発します。

中国大陸に進出していたヨーロッパ各国は、ヨーロッパでの戦争にかかりきりになっていたため、ヨーロッパ各国による中国への圧迫が和らいだわけですが、これをしめしめと近寄ってきたのが日本です。

日本はドイツ帝国が保有していた中国内の工業や商業の権益を引き継ぐほか、中華民国の軍や警察に日本人の指導者を入れることなどを求めた「二十一カ条の要求」を中華民国政府に突きつけたのです。

その後、日本側が一部の条件を取り消したとはいえ、袁世凱政権が渋々とこの要求を受け入れたことから、各地で反対運動が起こります。

しかも第一次世界大戦後のパリ講和会議において、日本の要求が国際的に認められます。

これが国民に伝わると、5月4日、特に北京大学の学生たちによる日本に抗議する大規模な運動が起こります。五・四運動と呼ばれるものです。

そうした学生運動の思想的な背景になったのは、『新青年』という文学雑誌によるものでした。

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高度な教育を受けていない民衆でも読めるような口語文で、国が抱える諸問題を指摘するとともに、西洋の最新の思想を広め、儒教道徳による古い価値観を捨てようと訴えかけたりしました。

この『新青年』に寄稿していたのが、ジャーナリストの陳独秀(ちんどくしゅう)だったり、アメリカで哲学を学んだ胡適(こてき)、小説家の魯迅(ろじん)らでした。

こうした人々の活動の成果もあって起こった五・四運動での民衆の力に、孫文は着目します。孫文は大衆的な政治組織として民主主義政党「中国国民党」(以下、「国民党」)を組織します。

一方で、陳独秀らをはじめとする人々が社会主義政党「中国共産党」(以下、「共産党」)を結成します。これは労働者と農民を支持層としていたソビエト連邦共産党をモデルにしたといわれています。この頃、レーニンによるロシア革命がおき、社会主義国家の樹立を果たしたのも、この時期でしたからね。

基本理念が違う政党なので、基本的に「国民党」と「共産党」は対立するわけですが、このとき、中国北部で軍閥(軍人を中心とした勢力)たちの間で争いが勃発していたのです。

孫文からすれば、「こんな忙しい時に何してくれてんねん…」という状況だったので、「国民党」と「共産党」で協力関係を結び、この軍閥たちを倒そうとします。(これを「第一次国共合作」といいますが別に覚えなくていいです)

こうした体制が整った中、孫文が亡くなってしまいます。

こうした絶対的指導者が亡くなった後って、大体よろしからぬことが起きるんですよ。

孫文が亡くなり「国民党」のリーダーに就任したのが汪兆銘(おうちょうめい)という人でした。ところが、軍閥との戦闘を控え、「国民党」が組織した「国民革命軍」(これも別に覚えなくていい)の総司令官である蒋介石(しょうかいせき)が台頭します。

軍備を整えた蔣介石は、各地の軍閥と北京政府の打倒し、全国統一を目指した戦争をおこします。いわゆる「北伐」です。「北にいる軍閥を伐(き)る」という意味から「北伐」といいます。

中国北部の軍閥を倒すために結成された「国民党」「共産党」軍でしたが、上海で、蒋介石がまさかの共産党員を殺害しちゃう事件が起きます。目的を無視したいわゆる裏切り行為ですよね。これにより「国民党」と「共産党」との間に溝ができてしまいます。上海の地で起きたので「上海クーデター」といいます。

この後、蒋介石は「国民党」だけの軍隊を率いて、次々と軍閥を破り、ついに北京に入って北伐という目的を達成し、「国民党」による中国統一を宣言しました。

蒋介石による北伐によって、北京を追い出された軍閥の中に、張作霖(ちょうさくりん)という人がいました。北伐によって北京から追い出された張作霖は、根拠地である満州に帰る列車の中で、日本軍の策略により、列車が爆破されてしまいます。

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日本史では「張作霖爆殺事件」という重々しい用語でインパクトがでかいですが、これの何が重要かというと、

日本軍が満州の占領を狙っていたことです。

それだけでなく、上海クーデターを期に半ば裏切られた形となった「共産党」による内戦と日本による中国への侵入と、二つのことが同時進行で事が発展していくのですが、それはまた次回。

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