ピースフルな思いを蒼穹のかなたに馳せた
高校以下の学校では、たいてい7月20日前後からはじまり、8月いっぱいまで及ぶ。会社なども長い休みがとれるので、この期間に避暑地に行ったり、ふるさとへ帰ったりすることが多い。列車には、大きな荷物をのせ、子をのせ、現世の愉楽のみに生きて、ただただ目的地に向かって静かに揺れながら運んでいく。群像を乗せた静謐な車内にも、親子、恋人、友だち、普段聞くことのないさざめく声が聞こえてくる。そんな群青日和のこと。
僕はその列車で都内の大型書店へ向かう。この夏に読む本を買うためだ。駅に降りた瞬間、僕はひどく後悔する。幾度も幾度も炎帝が落ちて、暑さだけでは収まらない力を感じてしまった。せっかくおめかしして重い腰を上げて外出したのに。「素敵な靴は素敵な場所へと連れてってくれる」というフランスのオシャレなことわざなんてそんなものはない。夏休み開始早々、僕の腹は荒れ兆してしまったようだ。
普段は前を見るか下を見て歩いている僕だが、駅から書店までの5分の間、たまには上を向いて歩こうじゃないかと。そびえ立つビル群に僕は気鬱になりながら歩く。すると、わずかな隙間から空を覗かせていた。
たまには上を見て歩いてみるもんだと思った。
書店に着いた僕はこの夏に読む本を物色していた。ここ3ヶ月、ゆっくり本を読む時間や余裕がなかったので、まとまった夏休みに何冊か読もうと決めた。買ったのはこちらの3冊。
とくに山川方夫『夏の葬列』が読みたくなった。中学国語で読んだことある人もいるのではないだろうか。とくに第二次世界大戦や戦後を描いた文学を「戦争文学」と呼ぶのだそう。中学国語で『夏の葬列』を扱っているとなると、歴史の授業だけでなく、国語でも戦争を扱った文学を読んで、反戦的で平和的指向を育むのだろう。
実際に戦争文学を読んでみると面白い発見があったので紹介したい。
まず山川方夫『夏の葬列』について、大方の話の筋を紹介しよう。青空文庫でも読めるし、比較的入手しやすい。10分もあれば読めるのでぜひ読んでもらいたい。
『夏の葬列』は20代の男が、ある海岸の小さな町に来て、ある一列の葬列が見え、思わず戦時中もことを思い出す話である。その男は戦争末期、1944年、学童疎開として過ごしていた街で出会うヒロ子さんのことについて思い出す。ヒロ子さんは男より2学年上で頼り甲斐のあるお姉さんだった。
そんなヒロ子さんとジャガイモ畑を歩いていたとき、ある葬列を見かけ、2人はその列に駆け寄ろうとする。しかし、そのとき、上空に米軍の戦闘機が現れる。ヒロ子さんはそのとき、真っ白なワンピースを着ていた。白い服は銃弾の標的になりやすい。
ヒロ子さんは男の元へ助けに行くが、男は自分まで巻き添えをくらいたくないと思い、ヒロ子さんを突き飛ばす。そのとき、ヒロ子さんは戦闘機の銃弾に遭い重傷を負い、白い服が真っ赤に染まってしまう。
読んでいて面白かったのが色彩語の使い分けで現在と過去を対比しているところだ。
回想が終わって、現在に戻る場面でも、色彩の変化によって時間軸を表している。
回想になると色彩が豊かになる描写が非常に文学的だ。なるほど、過去の記憶でも色彩が豊かであることで過去の記憶がありありと語られているわけだ。
次に僕は茨木のり子の詩集『おんなのことば』を読んだ。
そのなかでもっともと胸を突かれたのが「わたしが一番きれいだったとき」だった。書き出しからもう切なかった。
これで一気に戦時中の描写だということがすぐわかる。「がらがら」というオノマトペが情景をありありと見えてくる。
その次が
「うわぁぁぁせつねぇぇぇ」と絶句するほかない一節だ。戦争に従軍することが、女としての輝きが失っている様を嘆いている。こんなにまっすぐで美しい詩があったろうか。良い詩は、人の心を解き放ってくれる力があるのだとわかった瞬間だった。
久々に味わう読書体験だった。
ふと、大型書店に行ったときに見上げた空を思い出す。
今日は8月15日。日本人にとって「8月」ってやはり、「終戦」とか「なぜ終戦したのか」を考える時期である。まだ中途半端な暑さが残るこの時期、お盆があって、先祖があって、終戦がある。戦争のときにおける空は青々しいものがかつて黒い雨が降っていた時代がそこにあって、平和と真逆の象徴だ。その真逆の象徴である現代では、爆弾だとか黒い雨に何も恐れずに読書ができている平和さが今ここにある。
このピースフルな思いを、蒼穹のかなたに馳せて生きていこう。
よかったらサポートもしていただければ嬉しいです!いただいたサポートは読書に充てたいと思います!