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「ありふれた演劇について」19

先日、上野のブックオフで昔の『舞台芸術』を見つけて、(一体誰がここに売りに出したのだろうか……)と感じ入りつつ、思わず買ってしまった。2005年に出た「パフォーマンスの地政学」特集で、サラ・ケインの『4時48分 サイコシス』が掲載されている。

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2005年といえばすでに16年前で、自分が大学に入る前の年だ。パラパラと読んでいると、確かに当時はこういう空気感があった、と懐かしくなりながら(捏造された記憶かもしれない)、どうも今となっては、まさにパフォーマティブなもの、舞台上で再現された出来事ではなく、パフォーマーと観客の間で直接に結ばれる関係性をこそ重視するような作品に対する期待感というのが、薄れているのではないかという感覚がある。これはあるいは新型コロナウイルスがそうさせたという風にも言えるかもしれないけれども、しかしそれは場合によっては逆にも作用し得たわけで、個人的な感覚としては、今やパフォーマンスといえば大衆の目を集めることによって自分の利益を拡大したり権力を強化したりといったような、いわば独善のための粉飾をイメージしてしまうからというのが理由としてはあるような気がする。実際今や俳優よりも政治家の方がパフォーマーという呼び名に似つかわしいし、そのことに対して自分としては随分辟易もしている。

とはいえこの傾向というのは何も最近始まったわけではなく、もっと以前からあって、パフォーマティブなことが「炎上」であるとか「マーケティング」に回収され、無効化されてしまう危機、というのは間違いなくここ10年くらいで高まっている。最近あったパフォーマンスである「高田馬場駅前ロータリーの南京錠」も、当初見いだされたはずの「抵抗」の運動は全国ネットにおいては無効化されてしまった。

封鎖のフェンスに南京錠をかけるという行為は、それ自体であればかなり直接行動=アクションと言えるだろうし、少なくともこの行動を起こしていたうちの何人かは明らかにその意志を持っていたと思うが(もちろん、本気で恋愛のまじないとして南京錠をかけたカップルがいる可能性は否定できない)、ひとつのユーモアとしての(だと考えるのが妥当だろうと思う)都市伝説的な意匠の方が耳目を集めた結果、むしろ安直な関心に回収されてしまい、容易に見出すことのできたはずの直接行動そのものの意味は失われてしまった。このテレビでの扱いに関しては、笑いのプロであっても笑いがわからなくなってるのか、あるいはそもそも視聴者にはわからないだろうと諦められているのか、いずれにせよよろしくない傾向であると思う。

もちろん、こうした「伝わらない」事例は過去にもあったことだろう。しかし問題は、これは結局は自分がということだけれども、パフォーマンスという形で何かの行動を起こすということについて、あまり期待そのものが持てなくなってしまったということだ。そしてそれはとても貧しいことのように思うし、絶望的なことですらあると思う。何らかの主張をしたいのであれば、粛々と地道に行動を起こすしかない。真面目に喋って説得し、ロビー活動をし、あるいは選挙に行って一票を投じるしかない。どことなく、文化の敗北というような感じがする。文化は本来もっと豊かで、人間同士のあらゆるつながり方を可能にするはずだった。どうしても明るい未来を思い描くことができない。それは文化が豊かになっていくという希望が持てないからだと思う。

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