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「ありふれた演劇について」14

前回の演劇論では、最終的にニーチェの説く「神話」なるものに触れた。古代ギリシャの人々は神話を共有していたからこそ、批判的・歴史的精神や理知主義を逃れて、直接に国家や芸術に触れることができた。ニーチェはその生きた時代において、新しいドイツ神話の再興を期待していたわけだが、それがナチス・ドイツへ影響を及ぼしたと後世においては批判の対象になっている。道徳や理性を超えてつながるような回路にはファシズムへの危険性が伴う。そういう意味では一般論として、ニーチェの悲劇論そのものを無批判に援用することはできない。

一方、太田省吾も能について論じた「歌舞考」の中で、世阿弥の〈種道〉=「能の素材、殊に主人公の設定しかた」を引き合いに、「虚」というものの効能について触れている。

〈役〉とは、単なる対象ではなく、あるいはそれをものまねしうる空間的対象ではなく、それをもってすれば特別の時間を生きる自己でありうる虚である。たとえば、芦屋の某の妻という虚によって、わたしは特別の時間を生きる自己でありうる。(太田省吾『太田省吾演劇論集 飛翔と懸垂』(而立書房、1975年))
〈舞歌〉の欲求のひとつに、時間をとどめたいという願望がある。悲しみなら悲しみを、いや、すぐに消え失せる微笑でもいい、その微笑の絶対を感じたいのだ、それをとどめたいのだ。この欲求は、もう一方の側面から見るなら、どこかへ行きつきたいという願望と見ることもできる。
 悲しみの果て、微笑の果へ行きつくこと、その欲求を時間化した形態を〈舞歌〉というなら、おそらく、演者はそれが許される特別の時間をもって、自己に行きつきたいのだ。(同)
 世阿弥の〈種通〉とは、それをもってすれば、世界の果て、自己の果てを踏むための虚としての構えでありうるかどうかを眼目におくものであり、〈種〉を便宜からでなしに、いわば劇の生存条件から把えたものであると考えることができる。(同)

ここで言う「特別な時間」、それはやはり、ニーチェの批判するような「批判的・歴史的精神」あるいは「理知主義」とは対立する時間だろう。しかしニーチェの言う「神話」がひとつの共同体における作用を説いていたのに対し、太田省吾がまず問題にするのは「自己」である。

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