34.雷天大壮(らいてんたいそう)~過ぎたるは猶及ばざるが如し①

六十四卦の三十四番目、雷天大壮の卦です。
爻辞はこちらです。
https://note.com/northmirise/n/n70666032639e

34雷天大壮

1.序卦伝

物は以て遯に終る可からず。故に之を受くるに大壮を以てす。

天山遯の卦を上下にひっくり返すと、雷天大壮の卦になります。

君子はいつまでも隠遁しているわけにはいきません。一旦退いて心身を修養していると、やがて君子を待ち望む声が盛んになってきます。

大壮とは勢いが盛んなことであり、退くべきときに退いたからこそ、盛んな勢いを発揮できるのです。

2.雑卦伝

大壮は則ち止まるなり。

勢いに任せてあまりに進んでいくときは、失敗することが多いものです。そのようなときには一旦止まり、むやみに進まないことです。

3.卦辞

大壮は、貞しきに利し。

卦の上下を引っくり返した形を綜卦(そうか)と言います。占いのテクニックの一つとして使われるものであり、問題となる事柄を別の視点から検討するものです。より具体的に言うと、占うべき問題というものは凡そ人間関係であり、この問題を他者の視点から見ればどうであろうか、ということを綜卦で検討するのです。

雷天大壮は、天山遯の綜卦です。天山遯は、小人の勢いが強まって君子が避難すべき時を示すものでした。雷天大壮は、その真逆です。君子の勢いが過ぎており、今にも全ての小人を駆逐せんとしているのです。

雷天大壮でいうところの君子と、天山遯でいうところの小人は、実は同一人物なのです。私は全ての易書を読んだわけではありませんが、このような解説をする書は殆ど存在しないのではないかと思います。

何をもって君子とするか、何をもって小人とするか、これを科学的なアプローチをもって分けることは出来ません。本人ないし他人の主観をもってするしかないのです。

往々にして、君子と呼ばれるべき優れた人物は、自分のことを取るに足らない人物だと思っているものであり、小人と呼ばれるべきとるに足らない人物は、自分のことを優れた人物だと思っているものです。だから色々と厄介な問題が起こるのです。

自分のことを優れていると自覚している君子は、まず存在しないでしょう。ほぼ全ての君子は、自分のことを取るに足らない存在だと自覚しているでしょう。君子というものは、その更に上にある「聖人」をみているからです。聖人とは、人間でありながらも人間を超越した存在であり、それに比べて自分はなんともくだらない存在であろうか、と嘆くからです。

小人の目には、聖人は映りません。小人の目に映るのは、小人と君子です。小人は同類の小人を蔑み、かつ君子を自分と同等の存在として認識するのです。根本的に勘違いしているのです。

一方で、そのような勘違いこそが、将来の君子を生む、とも言えるのです。背伸びをして、勘違いして、散々失敗して他人に迷惑をかけまくって、そのようなプロセスを経ることによって小人が君子へと変貌するのです。

つまり君子は小人であって、小人は君子なのです。

天山遯は、君子側の目線です。小人の勢いが加速してきたので、さて避難してどこかに身を隠そうか、と思案するのです。これを小人の側からみれば、雷天大壮になるのです。天山遯でいうところの小人すなわち陰爻は、雷天大壮でいうところの君子すなわち陽爻となって映るのです。陽が陰を駆逐しようとしている図式になるのです。これはどちらも真実なのです。双方に大義があるのです。

これは論理的に考えれば考えるほど、矛盾しているのです。しかし、この矛盾こそが、この世界の真実なのです。

この矛盾は、この世界の構造そのものであり、解消できないものです。

今まさに雷天大壮の時にある者は、この矛盾の構造をよく知るべきです。今のこの状況は、雷天大壮であると同時に、天山遯でもあるのです。むしろ天山遯の時にあると心得るべきなのです。利貞の二文字を、よくよく噛みしめるべき時なのです。

大壮の時であるから猪突猛進して小人を駆逐すべし、などとは思い上がりも甚だしいのです。

卦の陰陽を逆にしたものを裏卦(りか)と言います。これもまた占術の一つです。雷天大壮の裏卦は、風地観です。風地観は主に二つの意味を持ちます。一つは十二消長卦的な見方であり、小人が君子を駆逐すること甚だしい様子を表すものです。ここで言うところの小人もまた、雷天大壮で言うところの君子と同一人物です。

二つ目の見方は、祭祀において神を降ろす直前の如き敬虔なる心境をもって仰ぎ観ること、そして仰ぎ観られることです。雷天大壮だけが真実なのではなく、天山遯もまた真実であり、風地観もまた真実なのです。敬虔なる心をもって、よく観察すべきなのです。

4.彖伝

彖に曰く、大壮とは、大なる者壮(さかん)なるなり。剛にして以て動く、故に壮なり。大壮は貞しきに利しとは、大なる者正しきなり。正大にして天地の情、見る可し。

大壮とは、大きくして、かつ盛んであるということです。

内卦の乾は剛健なるものであり、外卦の震は動くものです。つまり剛にして動くのです。陰陽のバランスが拮抗して和合する地天泰の状態から、更に陽の力が一歩抜きん出ているのです。

陽の力が強大なるものになっているのです。強大なるものは、絶対に正しいものでなければならないのです。強大であるから正しい、ということではないのです。強大であるから、正しくなければならないのです。

つまり「正」と「大」、この二つは兼ね備えられるべきものなのです。不正にして大、であってはならないのです。天と地は、正にして大なのです。天と地は大きくあって、かつ正しく四時を違えず、永遠無窮にして万物を生成化育しているのです。人間もそれに倣うことで、正大なる道を実現せしめることができるのです。

5.象伝

象に曰く、雷、天の上に在るは大壮なり。君子以て礼に非ざれば履まず。

雷が天の上にあって、轟いている形が雷天大壮です。

君子はこの卦の形をみて、調子に乗ることはなく、むしろ自制して礼儀を貴びます。礼儀を踏み外さないように、正しい道を履み行うのです。

孔子の言葉「克己復礼」は、己に克ちて礼に復る、礼儀の実践こそが自分自身に勝利することである、と述べているものです。雷天大壮の時において、よくよく戒めるべきことを簡潔に表現しております。

6.繋辞下伝

繋辞下伝の第二章より抜粋します。

上古(じょうこ)は穴居(けっきょ)して野処(やしょ)す。後世、聖人、之に易(か)ふるに宮室を以てす。棟を上にし、宇(のき)を下にし、以て風雨を待つ。蓋(けだ)し諸(これ)を大壮に取る。

大昔の人々は穴をねぐらとして、野原に住んでいました。

後世の聖人は、宮を建設することを始めました。その棟は上に高くそびえ、四方を軒が囲み、それによって風雨を防ぐのです。これは、雷天大壮の卦象をもって考案されたのでしょう。

外卦の震卦は雷、その裏卦の巽卦は風、二つ併せて風雨の象になります。そして下の四つの陽爻は堅固な建物を連想させるものであり、卦名は盛大にして人民の生活を安定させるものです。

7.十二消長卦

安定したる地天泰の時を過ぎて、陽の勢いが少々過ぎている状態を表します。勢いが過ぎると、往々にして驕り高ぶりの気持ちが見えてしまうものです。雷天大壮は、その卦の名前は勇ましいのですが、どちらかと言うと、自惚れることなく気を引き締めて自制せよ、という意味合いになります。

ここから沢天夬そして乾為天へと向かい、陽が極まります。物事は過ぎれば必ず変じます。今からそれを心しておくべきなのです。

自己の内的探求を通じて、その成果を少しずつ発信することにより世界の調和に貢献したいと思っております。応援よろしくお願いいたします。