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自分の中の「嫌い」と向き合ってみることにした。

嫌いなものよりも、好きなものの方が多い人生でありたい、と常日頃から思っているタイプだ。

だけど最近、「日置さんって、なんかこれは許せない!とか腹立つ!みたいなことってないんですか?」と聞かれる機会があった。

己のネガティブなことを他人様の耳に入れて別に良いこともなかろう、と思っていたのだが、あまりにそういう素振りを外に出さないと「この人は本音でしゃべってくれているのかな?」という印象を持たれるらしい(なるほど)。

別に無理に何かを隠したり押さえ込んだりしているつもりもなかったのだが、そう言われると強いていえば僕は「嫌うこと」を嫌っている、と言えるかもしれない。

それはいったいなぜだろう?まずはそれについて理由を考えてみようと思う。

・・・

とりあえず、嫌いになることでメリットがあんまりないと僕は思っている。

何かを嫌っている時っていうのは、まあシンプルに気分が悪い。

「好きの反対は無関心」というけど、「そういうのが好きな人もいるのね」とか「そういう考え方もあるのね」と思って、自分の視界から外しておくくらいの方が、ストレスがかからないと思う。


と、ここまで書いてふと考える。
僕にとって「無関心でいよう」と思ったものが、いわゆる「嫌いなもの」、ということになるのだろうか?

「嫌い」というのは、状態であり感情だ。感情に支配されるよりも、「距離を置く」という行動に置き換えた方が、やりようがある。

自己効力感という言葉があるように、状況を自分がコントロールできると思っている方が、得てして幸福感は上がりやすい。


と、ここまで書いてまた考える。
でも多分、それだけじゃないな、と。

無関心というのは、「自分にとって関係がない」と思うことだ。
すべてに対して自分は関係ないと思っていたら、僕にとって本当に大切なものや守りたいものを、時に奪われたり傷つけられてしまうだろう。

自分が距離を置くだけでは済まない、殴りかかってでも変えたい、無くしてやりたい、と思うもの……。


と、ここまで考えてはたと思う。
僕はもしかすると、「嫌うこと」を嫌っているというわけではないのだろうか?

それは単に自分の機嫌を保つために避けているだけで、本当に「嫌い」なものは確かにあるはずだ、と胸に手を当てて思う。


その中のいくつかを思い浮かべようとして、いや、と思う。
それでもやっぱり「嫌いなもの」のうちのひとつに、「嫌うこと」は間違いなく入っている。

それはたぶん、前述のように、「支配されること」「自分の思うままにならないこと」を僕が恐れているからだ。恐らく人一倍。

僕はよく、柔軟だとか人当たりが良いと言ってもらうことが多い。でも本当は、めちゃくちゃ意固地で頑固なところがある。

とにかく自分で選びたいし、自由でいることへのこだわりが強いのだ。

そう書くと一見格好良さそうではあるが、もしかするとこれはひどく傲慢なことかもしれないな、とも思う。


まあでも仕方ない。そういう傲慢不遜な僕が存在するのは確かなのだから。

見て見ぬ振りをしているうちにソイツに飲み込まれて、気付かぬ間に誰かを傷つけないよう、飼い慣らしておかなくてはいけない。

僕の中にある「嫌い」に照準を絞って目を凝らし、銃口を突きつける。

その先に、僕が心から大事にしたいものがくっきりと見えてくるはずだ。


と、ここまで勢いで書いてふと気づく。これはアレだ、確実にこないだ見た『バケモノの子』の影響を受けているな、と。

この映画の表向きのテーマは「親子・師弟の絆」といったところだろうが、その裏側にあるのは「心の中の闇と向き合う」ということだと僕は思っている。

主題歌であるMr.Childrenの『Starting Over』という曲は、見事にその本質を歌い上げていると思う。

肥大したモンスターの頭を 隠し持った散弾銃で仕留める
今度こそ 躊躇などせずに その引き金を引きたい
あいつの正体は虚栄心? 失敗を恐れる恐怖心?
持ち上げられ 浮き足立って 膨れ上がった自尊心?

さぁ 乱れた呼吸を整え 指先に意識を集めていく

僕だけが行ける世界で銃声が轟く
眩い 儚い 閃光が駆けていった
「何かが終わり また何かが始まるんだ」
そう きっとその光は僕にそう叫んでる

この歌の主人公はどちらかというと、自分の内面とひたすらに対峙している。

とはいえ現実問題、自問自答だけでそのモンスターを倒すのはなかなか難しいものではないだろうか。

その足りない部分を補ってくれるのが、大切な誰かの存在だということなのだろう、と思う。

櫻井和寿がそのメッセージを敢えて余白としてつくったのかどうかは定かではない。
が、僕はこの主題歌と「親子・師弟の絆」という表のテーマが見事に補い合って、この『バケモノの子』という世界をつくっていると解釈している。

映画のクライマックスで主人公が決断しようとする「ある選択」と、そこに現れる「胸の中の剣」のシーンは、まさにその象徴だと思う。

「忘れないで。私たち、いつだって、たったひとりで戦っているわけじゃないんだよ」


自分が嫌いなものや、自分の嫌いなところと向き合うというのは、やっぱりあんまりいい気分はしない。

でももしかしたらそこが、自分にとってかけがえのない誰かと繋がるための、パズルピースでいう凹の部分なのかもしれない。

そう考えて、欠けている部分があるというのも悪くないのかもしれないな、なんて思うことにした。



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