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人生の「特別な瞬間」はいつ訪れるか?

30歳前後でキャリアに悩んでいる方からよく相談をもらう。「今の会社でそのまま30代を過ごしてよいでしょうか」「自分が向かっている方向は果たして正しいでしょうか」「自分は将来どうなってしまうのでしょうか不安でしかたないです」と。

私も同じ頃に、人生やキャリアにとても悩んでいたので、その気持はとてもよく分かる。似たような悩みが常に頭の中を渦巻いていて、日々憂鬱だった。

そんな時によく思い出していたのが、村上春樹が、29歳のある日、突然「小説を書こう」と思い立った話。

 それから僕は二九になって、とつぜん小説を書こうと思った。僕は説明する。ある春の昼下がりに神宮球場にヤクルト=広島戦を見に行ったこと。外野席に寝ころんでビールを飲んでいて、ヒルトンが二塁打を打ったときに、突然「そうだ、小説を書こう」と思ったこと。そのようにして僕が小説を書くようになったことを。

 僕がそう言うと、学生たちはみんな唖然とした顔をする。「つまり…その野球の試合に何かとくべつな要素があったのでしょうか?」
「そうじゃなくて、それはきっかけに過ぎなかったんだね。太陽の光とか、ビールの味とか、二塁打の飛び方とか、いろんな要素がうまくぴったりとあって、それが僕の中の何かを刺激したんだろうね。要するに…」と僕は言う。「僕に必要だったのは自分というものを確立するための時間であり、経験であったんだ。それは何もとくべつな経験である必要はないんだ。それはごく普通の経験でかまわないんだ。でもそれは自分のからだにしっかりとしみこんでいく経験でなくてはならないんだ。学生だったころ、僕は何かを書きたかったけど、何を書けばいいのかわからなかった。何を書けばいいのかを発見するために、僕には七年という歳月とハード・ワークが必要だったんだよ、たぶん」

「もしその四月の午後に球場に行かなかったら、ムラカミさんは今小説家になっていたでしょうか?」
「Who Knows?」
 そんなこといったい誰にわかるだろう?もしあの午後に球場にいかなかったら、僕は小説を書くこともなく終わっていたかもしれない。そしてまあとくに文句もない人生を送っていたかもしれない。でも何はともあれ僕はあの春の午後に神宮球場に行って人けのない外野席にーあの当時の神宮はほんとうにすいていたー寝ころびながら、デイヴ・ヒルトンがレフト線に綺麗な二塁打を打つのを見て、それで『風の歌を聴け』という最初の小説を書くことになったのだ。それはあるいは、僕の人生の中では唯一の「エクストラオーディナリー(尋常ならざる)出来事だったのかもしれない。

「ムラカミさんは、それと同じようなことは誰の人生にも起こると思いますか?」
「僕にはわからないな」、僕にはそう言うしかない。「でもまったく同じとはいえなくても、それに似たようなことは多かれ少なかれ誰の人生にもいつか起こるんじゃないかと僕は想像するな。そういういろんなことがパッとうまく結合する啓示的な瞬間がいつか巡ってくるはずだと思う。まあ少なくとも、そういうことがきっと起こると思っていた方が、人生は楽しいじゃないか。

「やがて哀しき外国語」村上春樹

20代の私は、こんな「エクストラオーディナリー(尋常ならざる)な瞬間」がいつか自分の人生にも来て欲しいなと強く願い続けていた。でも、現実は厳しかった。村上春樹が小説を書き始めたのと同じ29歳のとき、私は会社を休職していて、特別な瞬間どころか、思うようにいかない現実を前に呆然としながら日々を暮らしていた。

でも、そのつらかった29歳の頃と、なんとか人生を前向きな方向に進めようともがいていた30代をいま思い返して感じるのは、たとえ人から見たら平凡であっても、目の前の具体的なものごとに集中し続けること、「自分自身の体験」を生きることこそ大事なんだということ。

振り返ると、私が若い頃に求めていた「特別な瞬間」は、結局のところ世間で認められたい、他人から賞賛されたい、みたいな虚栄心がベースだった。それは、ヒルトンの二塁打の軌道を見た瞬間に「小説を書こう」と思い立つような、美しく内発的で、格好良いものとはだいぶ違う。

このことに気づいて、「そうか、そんな特別な瞬間なんて自分の人生にはきっと来ないんだな。奇跡を待ち続けるのはやめて、この目の前の現実に毎日向かい合って地道に頑張ろう」と30代半ばで思うことができたのは、大きな転換点だった。

私にはこれといった専門性もないし、仕事で誰もが傑出した成果をあげてきたわけでもない。でも、こうやって30代半ばの時に自分を相対化できたおかげで、いくら鈍臭くても、非効率でも、地道に自分の信じる道を諦めずに進めばいいじゃないかと思えるようになったし、自分が仕事で小さくても最後まで成し遂げた結果を肯定できるようになった。

その意味で、「いくら鈍臭くても足を止めずに前に進み続ける」ことができるようになったことは、私の人生におけるもっとも大きな達成のひとつだったと思う。学生時代から、人の目や評価が気になってなにかに挑戦することなくすぐ諦めてしまう自分を心の底から嫌いだったし、そう思っていても何度も同じことを繰り返してしまう自分に辟易としていたので。

何かを諦めてしまった(しかも他人の目を気にして)という思いは、鉛のようにずんと心の底に残り続ける。それは深い、苦い悔恨としてその後の人生で何度もフラッシュバックしてくる。あの最悪のループから脱せただけでも人生が本当に楽になったと感じる。

「特別な、啓示的な瞬間」が人生に訪れなくても、自分固有の生き方は創っていける。このメッセージをうまく若い人に伝えられればと思いながら、相談に真剣に耳を傾けている。

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