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ロスジェネ母さんの悲哀①

ロスジェネ母さん、それは私のことである

ロスジェネという言葉、みなさんもご存知のとおり、「ロストジェネレーション」の略語である。辞書をあたると、

ロスト‐ジェネレーション【Lost Generation】 の解説
.1 第一次大戦への従軍体験から、戦後、社会のあらゆる既成概念に疑念を示し、虚無的傾向のうちに新たな生き方を追求した米国の作家の一群。ヘミングウェイ、ドス=パソス、フィッツジェラルドら。女流小説家G=スタインの命名。失われた世代。
2 日本のバブル経済崩壊後の超就職難の時代に学校を卒業し、就職活動をした世代。昭和40年代後半から50年代前半の生まれ。確かな就職先がなく、アルバイトや派遣社員などで職を転々とする人が多く出た。氷河期世代。→就職氷河期                    

と出てくる。(出典 goo辞書)

昭和52年生まれの私は、この(2番のほうの)ロスジェネの定義のど真ん中に位置している。ロスジェネど真ん中。

大学3~4年の間フランスに留学していたので、同級生たちが就職活動に奔走している間、のんびりと勉強していた。いざ帰国すると、就職戦線は熾烈なものとなっており、周りの学生はみんな目の色を変えて学校にも全く来ずに企業を巡っていた。私は留学帰国生向けの就職フェアで、後に勤務する会社と出会い、そこで内定が出たので就職活動らしい活動もしなかった。運がよかったとしか言いようがない。同級生の中には、とても優秀な学生であるにもかかわらず、正規の就職ができず、非正規雇用になってしまう人もいた。就職超氷河期と言われる時代だった。

入社すると、驚いたことがあった。同期入社の男性社員と給与をはじめとした待遇が違っていたことであった。女性はいわゆる一般職、男性は総合職というくくりだった。入社当時、社内に女性管理職はほとんどいなかったと思う。私たちの同期の女子社員は難関大学を卒業した優秀な人たちが多かったのにも関わらず、男性社員の待遇よりも格下になっていた。これは、幼少期から、男女の分け隔てなく育てられ、教育を受け、男女は平等なのだ、これからは女性がどんどん社会進出していく時代だと教えられてきた自分にとって、初めての体験であり、かなりのカルチャーショックだった。教育の場では男女間の平等は担保されていた。テストの点数、偏差値、努力次第で自分の位置は決まるのだと思っていた。

採用の際にはその待遇の違いについては説明があったのだと思う。しかしいざ同じ業務をしている同期の男性たちと自分は違う条件で働いているのだと思うと複雑な思いがあった。そして同期の女子は2年目あたりからどんどん転職していった。個々の理由についてはわからないが、私が抱いたような複雑な思いに耐えられなかった人もいたのかもしれない。

私はといえば、不況の時世に、就職できただけでもありがたい、拾っていただいただけでも会社には感謝しなくてはならないと思っていた。実際、新入社員でも即戦力として働かなければならない今の風潮に対し、古きよき伝統を重んじる社風の中で、若手社員を親身になって指導してくれる温かさのある会社だったと思っている。同期や先輩たちもみな良い人たちだった。

しかし私は、妊娠を機に会社を辞めた。

一番大きな理由は、当時社内に産休や育休、時短勤務を利用していたり、過去に利用したという先輩女性社員がいなかったからだ。つまり、結婚か出産を機に、女性社員はほとんどみな退職していた。(もう20年近く昔の話なので今現在は状況が変わっていると思います。)自分がパイオニアになるほどの気概は持ち合わせていなかった。

それに併せて、夫の実家は関西、私の実家も東京までは2時間かかる場所にある上に、当時はまだ家業を営んでいて、子育てのヘルプをお願いできない状況だった。初めての子育て、仕事も育児もうまく両立などということは不器用な自分にはできそうにもなかった。

案の定、長男を出産すると慣れない育児にいっぱいいっぱいになった。24時間365日誰かの世話をする生活は、厳しい修行のようだった。ただひとつの救いは、子供がとても可愛いと思えたことだった。夫婦喧嘩もえげつないほどにした。ぶつかってぶつかって、疲れてしまうこともあった。

自分の人生が初めて自分のものでなくなってしまった時期だった。なにひとつ思い通りにできない、ならない。自分で稼いだお金もない。うつろな目でベビーカーを押しながら、自分はどんな罪を犯してこんな罰をうけているのだろうと思ったこともあった。

すべて自分で選択したことだったのに。悲劇のヒロイン癖が日に日にひどくなっていった。続く







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