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思考のレッスン (丸谷 才一)

考えるための文学

 丸谷才一氏については、「輝く日の宮」という作品の抜粋を読んで以来気になっていました。ちょっと前にも、家にあった「日本の町」という山崎正和氏との対談集を読みかえしたのですが、その流れで手にとった本です。

 前半は文化論・文学論的な内容、後半は丸谷氏の「考え方」の流儀について語られています。

 まずは前半部分から、私が興味をもったところをご紹介します。
 その1は、イギリスの知的伝統についてです。

(p50より引用) イギリスには、アマチュアリズムの伝統というものがあるんです。もっともアマチュアといっても、日本の素人とはまったく別の意味ですよ。
 一番の典型が、シャーロック・ホームズなんです。シャーロック・ホームズはたいへんな名探偵であり、警視総監もかなわない。でも、それによって食べているわけじゃなくて、一流の知識人が、趣味として探偵をしているに過ぎない。
 こういった態度がイギリス人のあらゆる知的行動の基本にあるんですね。

 ダーウィンチャーチルが典型的なタイプです。

 その2は、文学を論じるときの立ち位置についてです。

(p55より引用) 文学を孤立させて、もっと大きな文脈から切り離して論じても何も出てこない。文学が機能したり生れてきたりする場を考慮に入れないと文学のほんとうの姿が見えてこない。

 この対象が置かれている「場」との「関連性」という視点が、次のような小林秀雄氏に関するコメントにつながっていきます。

(p88より引用) これと関連して思い出されるのは、小林秀雄さんが「批評は他人をダシに使って自己を語るんだ」と言ったことがあった。有名なセリフですね。
 けれども、僕は、「対象である作品と自己との関係について語る」というふうに言い直すほうが、読者を惑わすことが少ないような気がします。もしそういうふうに小林さんが言ってくれたら、日本の批評はこんな混乱した状況にならなくて、もっとまともな道を進んだんじゃないか。

 「関係性」が存しうるのは、対置可能な対象物があるからです。この点につき、丸谷氏は、日本の文学者の優位性を以下のように語っています。

(p90より引用) だからね、大事なのは、日本の文学者であることを、不利な条件だと考える必要はないってことです。悪条件と言われているものが、実はものすごい好条件であるかもしれない。われわれの中には古代的なもの、中世的なもの、みんな残っているわけです。それを見ることによって、ヨーロッパの学者や作家たちが気がつかないもの、詩人たちが気がつかないもの、それを僕たちは使えるかもしれない。
 なんと言ったって、こんなに持続的に一国の文学が続いている国は、他にないわけですからね。

ホーム・グラウンド

 本書を読んで、丸谷氏の基本的な考え方の底流には、「対置」「比較」といったコンセプトがあるように思います。
 そのスタートは、「自己の立ち位置」です。まずは自分自身の思考においての「基軸」をしっかりもつということです。

(p146より引用) 僕は常に、その人のホーム・グラウンドは何かを考えて、そこから分析と比較を始める。これが僕の方法なんですね。

 その「基軸」=「ホーム・グラウンド」があるからこそ、ヴィジターとしてのチャレンジングな進出ができるわけです。

(p148より引用) ホーム・グラウンドがあるというのは、「何々学者」である、ということとは違うんです。・・・ホーム・グラウンドでの知識、経験を抱えて、専門外の分野へもどんどん出て行くわけです。ヴィジターとして他のグラウンドへ行って、そこで十分に戦うことができる、対等に戦える。そのことが大事なんですね。

 同様の考え方の例として、「河上徹太郎氏の『評論』についてのコメント」が紹介されています。

(p149より引用) いつだったか河上徹太郎さんが、「一つの主題では評論は書けない、二つの主題をぶつけると評論が書ける」と書いてらした。僕は、これは実にいい教訓だなと思ったんです。
 何かものを考える場合、常に複数の主題を衝突させて、それによって考えて行くとうまく行く、あるいは考えが深まることがよくある。・・・当面の対象と、自分のホーム・グラウンドとをぶつけることによって、新しいものの見方、発想が出てくるんじゃないかという気がします。

 「比較する」ことは、「相似」と「相違」の発見による思考の深化プロセスです。
 丸谷氏は、この比較という「方法」を、「ものを書く」ときにも適用しています。その時の工夫が、「ひとりで対話する」というものです。

(p250より引用) 趣味の問題かもしれないけれど、僕はむしろ「対話的な気持で書く」というのが書き方のコツだと思う。自分の内部に甲乙二人がいて、その両者がいろんなことを語り合う。ああでもない、こうでもないと議論をして、考えを深めたり新しい発見をしたりする。そういう気持で考えた上で、文章にまとめるとうまく行くような気がします。

 自己の内部で、反論したり同調したり、さらには論旨を転換させたり飛躍させたりするのです。
 こういった「単一」よりも「対置」を重んじる姿勢は、「ロジックとレトリック」についての丸谷氏の主張にも現れています。

(p256より引用) ここで大事なのは、ロジックがしっかり通っているからこそ、レトリックが冴えるということなんです。つまり、ロジックとレトリックを組み合せて話を運ぶ-これが肝心なんですね。単なるロジックでは頭がこわばってしまって、中身が頭に入りにくい。そこにレトリックがあるお蔭で、ロジックが鮮明な形で入ってくる。

 「ロジック」と「レトリック」は「相反」するものではなく「相乗」するものだとの考え方です。

書くことは考えること

 本書は、まさにタイトルどおり、丸谷氏による「考えるための講義」です。
 本の後半部分では、丸谷氏流の「本を読むコツ」「考えるコツ」「書き方のコツ」が紹介されています。
 そのあたりの中から、私が興味をもった部分をご紹介します。

 まずは、至極当たり前のことですが、「本に対峙したときの考え方」についてです。

(p109より引用) 登場人物が思考の道筋と語るのではなく、本全体としてある考え方を示している場合もあります。・・・著者のものの考え方は何が特徴か、どのように論理は展開されているか、と考えると、とてもためになります。

 本で表明された著者の主張の根底にある「思考スタイル」、そしてその思想の「表出スタイル」を摑むということです。

 私自身、こういうザクッとした「コンセプトの切り出し」が苦手です。丸谷氏は、コンセプトの切り出しに関して、もうひとつ重要なポイントを指摘しています。それは、切り出したコンセプトに「名前をつける」ということです。

(p214より引用) 多様なものを要約、概括して、そこから一つの型をとりだす。それがものを考えるときに非常に大事なことだと思うんです。
 その際、もう一つ大切なことがあります。型を発見したら、その型に対して名前をつける。・・・ユングは「集団的無意識」という言葉をつくった。本居宣長は日本人の恋愛好きを「もののあはれ」と要約した。・・・そういう名づけが大切なんですね。

 適切な名前をつけるためには、対象の本質を確実に把握し、それを再現させる「ことば」を作り出さなくてはなりません。「コンセプト」の説明において「メタファー」の重要性は指摘されていますが、まさに「名付け」の重要性は同根です。

 そのほか、本書で丸谷氏が薦めている「仮説」の効用について。
 仮説を立てるということは、新たなコンセプトを世に問う行為です。

(p211より引用) ダメな仮説はやっぱりダメです。でもいいときには、どんどんそれを応援する説がでてくる。だから、仮説は立てなきゃ損なんです。

 仮説をたてることにより、自らの思考も鍛えられますし、他者によっても磨かれるというわけです。

 そして、巻末の丸谷氏の主張です。

(p269より引用) だから、言うべきことをわれわれは持たなければならない。言うべきことを持てば、言葉が湧き、文章が生れる。工夫と習練によっては、それが名文になるかもしれません。でも、名文にならなくたっていい。とにかく内容のあることを書きましょう。
 そのためには、考えること。そう思うんですよ。



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